山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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雍正帝と天津の飛躍的発展


天津市街は元々海水浴が引けた場所であり、隋唐以前には人跡もまれであった。隋の煬帝が海河流域を接続して運河を開鑿し、天津地区の水上輸送が発展した。

西暦1115年、女真族の首長完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)が大金王朝を建国し、海陵王完顔亮(ワンヤン・テクナイ)が中原に入り、北京に遷都して北京を最初の中国の正統王朝の国都とした。北京の繁栄は、周辺地区の発展も伴った。1214年(貞祐二年)、大金王朝が海河以西に建設した沽寨(古天津)は、次第に金朝の重要な軍事基地と穀物の水上輸送の中心地となった。直沽は天津市街の資料記載以来最初の名称で、現在の天津市紅橋地区西青道一帯に位置した。

明朝初年、朱棣は直沽で「三岔河口」付近で海河を渡り南下し、皇位を争奪した。朱棣が登壇即位してから、1404年(永樂二年)には「天子御渡り」の地に軍衛を設営し都市を建設し、天津と名付けた。翌年には天津左衛を設置し、更に翌年には天津右衛を設置したが、これが天津の由来である。

清軍が入国すると、清政府は1652年(順治九年)に三衛を統一し、天津衛に帰属した。

雍正帝が帝位継承後、天津は飛躍的に発展の時期を迎えた。1725年(雍正三年)に清政府は天津衛を昇格して天津州とした。1731年(雍正九年)にはまた天津府に昇格し、天津の行政階級は雍正年間から「飛び石」式に昇格し、天津は単なる軍事重要地から繁栄した「中心都市」へ転身し、都市機能を更に充実した。乾隆皇帝は何度も天津都市を視察し、天津の経済社会の発展と純朴な都市の風俗に高い評価を与えた。

1860年(咸豐十年)に、天津は通商港として、開港してから天津は中国北方の経済の中心地として発展し、中国北方で最も繁栄した都市となり、直隷総督府の所在地となった。

近代百年の天津は雍正帝の天津都市に対する位置付けの高まりと、天津府の建立が起因となり、天津の都市の大発展を促進して、天津の製造業、サービス業が飛躍するための堅実な基礎となった。

新中国成立の初めまで、天津は終始中国北方の最も煌びやかな一粒の真珠となり、諸々の中国最上、中国最初を創造してきた。1890年、中国最初の中国匯文中学が天津に誕生した。1895年、中国最初の大学北洋大学が天津に誕生した。1906年、中国最初の公共交通機関環城有軌電車が天津に誕生した。1928年、中国最初の都市型複合施設のマーケットが天津に誕生した。

1950年中国最初の自転車飛鴿牌(ハト・ブランド)が天津に誕生した。1955年、中国最初の五星牌(五つ星)の腕時計が天津で誕生した。1958年、中国最初のテレビ北京牌(ペキン・ブランド)のテレビが天津に誕生した⋯⋯。

天津が跨るものは、600年余りの天津に凝集している各民族の共同の努力である。我々が素晴らしい都市生活を享受する時、明の成祖朱棣と、清の世宗雍正帝のこの都市に対する特別な貢献を忘れてはならず、彼らは天津に比類なき足跡を残しており、天津という都市が永遠に忘れてはならない人々なのである。