日は暘谷(ようこく)に出る
昼夜均一、寒暑平穏、麦が急成長するし岸の柳が青々としてくる。
今日は春分である。
この日、太陽は地球の赤道上にあり、地球の各地で昼夜の長さが等しくなる。
我々は、春分が春の第四の節気であり、この時期は寒さが遠のき、岸の柳が新芽(しんめ)を吹き、鶯(うぐいす)が飛来し草も伸び、小麦は穂(ほ)を延ばし、菜の花が香り、桃花は赤く李花は白く、迎春花(黄梅)が咲き乱れる。春分はなぜ来るのかご存知だろうか。
4,000年前、堯帝が農業を理解した時、種まき、収穫の法則を総結し、羲仲、羲叔、和仲、和叔の4人を東、西、南、北の四方に駐在させ、星の現象を観測させ、既設を判定した。
『尚書』に、「堯は羲仲に命じて、嵎夷に宅(お)らしむ。暘谷と曰ふ。寅(つつし)んで出づる日を賓(むか)え、東作を平秩せしむ。日は中に、星は鳥(星)なり。以て仲春を殷(ただ)す。」と記載する。
「海上仙山の祖」昆嵛山
羲中は堯の都平陽から出発し、一路東へ向かい、嵎夷の暘谷へ至り、暘谷山に「天文台」を設立し、毎日早朝に謹んで日の出を迎え、黄昏に恭しく(うやうやしい)落日を送った。壇を設けて盛大に天と太陽を祭り、丁寧に太陽、日夜、月星などの天象の変化を観察し、異なる季節と天気の草花、樹木、作物に及ぼす影響を記録し、終に春分の確かな時間を確立し、「二十四節気」を制定し中国最初の暦法の基礎を制定した。
では、暘谷は何処にあるのだろうか?
暘はyang と読み、日の出である。暘谷は古地名で、古人からは太陽が出てくるところと思われていて、「暘谷に日が出ると天下は明るくなる」と言う話がある。
威海市文登区界石鎮暘里村が以前暘谷と呼ばれ、暘谷山がある。
暘谷山は西の「海上仙山の祖」昆嵛山脈にもたれ、南北東の三面は海に近い。中原の大地が東の海洋に向かって伸びていく端であって、一年の四季がはっきりしている。「東表の地」「日が出る所」と呼ばれる。
清の雍正本『文登県志』は、「暘谷、県の北西六十里にあり、堯が義仲(ぎちゅう)に賓日(ひんじつ)するよう命じた所」と記載する。
賓日とは、日の出を迎えるという意味である。
『禹貢』『山海経』が「嵎夷(ぐい)」「暘谷」等に関していつも記載するのは、威海文登暘谷山が嘗て「堯が義仲に賓日を命じた」地であったことの表明である。
では、「義仲が賓日」したのは文登暘谷山だったのかどうか?
1976年以来、人々は暘谷山でしばしば石匣状の小坑を発見した。坑は大変小さく、長さ約1メートル、横幅と深さは20から30センチメートル。1尺の正方形の石版の塊を積み上げた作りで、新石器時代の石斧、石手斧(いしちょうな)、化石化した網錘、陶器等が据えられていた。
暘谷山石棺墓に出土した部分器物
第三回全国文化財一斉調査で、文化財部門では暘谷山の石匣坑(暘谷山石棺墓)に対して発掘調査が行われ、罐(ほどぎ)、壺、紡錘車(糸車)などの陶器、石器40件が出土したが、共に大汶口文化後期の文化財が遺存しており、龍山文化の特色を明らかに示している。
意外なことに、この神秘の石匣坑と非墓葬坑は、祭祀坑であった。
坑内には骸骨は発見されず、陶器の破片に木炭の固まりが混じっていた。考古学者は燃やされたものは天を祭る薪であり、祭祀名は「燎」と言った。龍山文化の時期は、歴史上の堯舜時代に相当する。国内の専門家の権威は、暘谷山と周辺の区域は「義仲が賓日」重要な探索場所となりうるということで意見が一致している。
巍巍昆嵛
現在、暘谷山に所在する昆嵛山好、威海千里の山海ドライブ旅行の重要な看板である。これをきっかけに、当地は文化と旅行が融合した発展の路線を創造した。採集、民宿、花や海を楽しむ……豊富な文化と旅行の商品を提供している。
「義仲が賓日」の物語は、時空のトンネルを越えて、この土地に新時代の滋養(じよう)を提供し続けている。
春分が来て、燕が帰ってくると、一年で一番春の好い時であるので、ぜひとも佳季を逃さぬように。
昆嵛山、中国道教の全真派の発祥地であり、「海上仙山の祖」と美称されています。山頂の「泰礡頂」は海抜922.8メートル、膠東半島では最も高い所です。
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