言語の統一と分裂(あなたの最初の漢字教才・甲骨文)
読み書きの知識には二つの陵域がある。一つは、例えば漢字の知識と古詩を暗唱するような、数千年来の言語知識である。二つには、例えば漢字の構造を理解し、古文の作者の風格を分析するような、言文の専門的知識である。
文語を学習する前に、中学生になったばかりの学生は、古代人がどんな言葉を話していたのであるが、彼らが当時話していた言葉は、古典の書面とどんな違いがあるのかと、よく古文の教師に質問する。
この問題に答えるにはまず言語の起源から説明しなければいけない。
現代の人類学者は、現代の人類の祖先は東アフリカから出発して、世界各地へ向かったと考えている。遠くゆっくりとした移動で、彼らの生物學の特徴に大きな変化が起こった。大脳が大きくなり、胃腸は縮小し、中枢神経は鋭敏に発達し、口、歯、舌、喉で構成される音帯は鳥類が発声する連続して、ころころと抑揚のあるハーモニーを模倣できるようになった。言語学者は、人類にはサルと、鳥類という二人の先生がいたという。普通のサルは「ウー」「キー」という単音節と「キッキ」「キャッキャ」というニ音節しか発声できなかった。不思議なことに何らかの原因で、智能のあるサルが出現して、鳥類のころころと抑揚のある長い声調を学んで、多音節の単語と語句とそれらを配列する語法が生まれたが、我々の祖先はこうして言語を創造した。
「誰」は使われる頻度の高い乗用字で、「誰」の字の「言」は挨拶を表し、「佳」は鳥の鳴き声を指す金文に由来する。これは擬声語で、古代の人々は鳴き声を真似て口笛を吹くことによって、視界の悪い林の中でも相手の応答によって見知らぬ人の存在を確かめていた。篆文の「誰」の字形は金文のそれを引き継いだ。隷書の「誰」は篆文の「」を簡素に言とした。古語では、「唯」は口笛の応答、鳥のように人を惹きつける声を発することを指し、「誰」は狩人が鳥の鳴き真似をして人に挨拶する時の口笛を指した。
喙 は鳥の嘴(くちばし)を指す。篆文の喙は左が口で、右の字は大きな口を開けた動物(豕)を表している。隷書の喙は篆文の「」を豕とした。『説文解字』:喙は嘴なり、動物の発音器官である。
古代の人々ははやくも、言語とは時間や空間、乃至は異なる人々の集散(聚散)で不断に変化するものであると気づいていた。言語というものは、世界でも今まで統一されたことがなくこれ以降も統一は難しい。世界各国、それぞれの民族にはそれぞれの方言もあり、源が一つの言語であっても、異なる地域によって語調にも各々特徴がある。同じ所に住む人も、時間の流れ、人口の流動によって少しずつ変化が起きているのだ。同じ家に住む人でも、言語は不断に変化している。お爺さんと孫の(話す)言葉は全く異なることが往々にしてある。数十世代に渡る人々によって、変化も大きくなるのだ。100年以上前、アメリカの科学者エジソンが蓄音機を発明し、その時の録音を現代のイギリス人に聞かせましたが、彼らは100年以上前の老人達が何を言っているか基本的に理解できませんでした。英語は表音文字で書かれているため、現代のイギリス人は古代単語を理解出来ず、つまり古書を理解できないのです。漢字は音と意味の両方を表現できるおかげで、私達中国人は悩むことがありません。
「ろう
従って、「中国人の祖先は何の言語を使っていたのか」という答えは、私達が日常的に使っていたのか」という答えは、私達が日常的に使っている漢字の中に隠されているのです。現代中国語の常用文字は3,000字あり、その8割は漢の時代には確定された「表音文字」です。この単語は二つの部分に分かれており、一つは指示部分、もう一つは発音する部分です。例えば「罵」という単語は、「馬」と発音されます。馬はこの文字の形成において発音記号の役割を果たしています、呪いの言葉の意味とは何の関係もありません。単語「駕」は「加」と発音され、馬はこの文字の形成に役割を果たしています。「加」は馬車を運転するという意味の文字で、「駕(運転)」の発音記号です。発音記号として使用できる漢字は数百種類あり、その殆どが殷商時代の甲骨文に既に登場しています。これらの基本的な単語の発音は何千年もの間、あまり変わっていません。つまり、漢字が4,000年以上前に記録されて以来、私達中国人は同じ言語、つまり「中国語」を使用してきました。古代から現代に至るまで、中国語は世界の歴史の中でも唯一、脈々と受け継がれてきました。
口、甲骨文「口」の字形は人が口を開けている様子である。造字の本義は、人類が食事、呼吸、発音する器官が嘴である。この甲骨文の口の字は、第一印象は大笑いしているようである。楷書の「口」字は、口角の方向が上向きから下向きとなって興奮した口角が見え隠れする。
古代人は舌も歯もない口だけでは、根本的に発声できないことを知っていた甲骨文の「曰」は、口と一枚の舌との組み合わせで。それは口内に付け加えられた指示記号であり、口(舌)の動作を表している。金文の「曰」は、話し声が良く響いて、舌が口の上部にはみ出すほどである。漢文ではよく「子曰く」というが、孔子が説話するという意味である。
人類の発音器官は、口を開け、次に舌を出し、喉を鳴らし順序で、最初に唇から発生する音がつまり、唇の開閉による発声する「母音」である。例えば赤ん坊が最初に覚える発声するmaとba であり、全世界でも、ママ(母)の音声はm(mama、mammy)、パパ(父)にはbまたはp音を持っている。(baba 、papa )みな同様である。
甲骨文の「白」が描くのは、口が滝のように取り止めもなく口角に泡は白色を表し、惜しみなく喋っていることを表す。もし半日喋っても話しに意味もなく、効果もなければ、俗に言う「瞎白活、むちばなし」である。もし美辞麗句を弄し続ければ、「雄弁である」と言う。
「諧和(やわらぐ)」と言う日常語の「諧」の本字は「皆」である。金文の「皆」 の上部は、人が二人立ち並んでいる「比」である。下部はちょうど話しが合っている「曰」で、本義は異口同音である。篆書の「皆」は「日」を、説明を表す「白」に改めている。「皆」の「異口同音」の本義が消失すると、後期の篆書の「諧」には「言(言う、言論)」を加え、新たに「諧」を作り代替した。造字の本義は、意見の一致、相互に融合することである。
「舌」の、甲骨文の下の上部の「干」は、蛇の口から出される二岐の舌の形(蛇信子)であり、下部の「口」は人間の口を表す。蛇の舌(蛇信子)は蛇の感覚器官であり、舌は人の味覚器官である。ある甲骨文の「舌」字には「干」(蛇信子)に二点の記事記号「」を付け加えて、飲食や会話時の唾を飛ばすことを表している。造字の本義は、蛇の舌(蛇信子)であり、風味で環境を感知するものである。『説文解字』に、「舌は、口に在り、言う所以なり、味をるなり。」
犬と比べることのできるのは誰の歯だろう?まだ歯がない子供が口から出す言葉はあー、いー、うー、おーと言った口を開ける音節であり「母音」と言う。歯が生えてくると、ヅ、ツ、すると言った歯と歯の隙間から出る「子音」を発生することができるようになる。もし話し方が不明瞭な人は、「舌たらず」と呼ばれ、もし話し方が曖昧な人は歯から音が漏れると疑われる。
甲骨文の「歯」の字形「」は、むき出しの歯がまるで、口内の上下の門歯の要で大変面白い。殷商時代の人斬りの祭祀や副葬に使った「人面銅銊」がこの様子である。
古代人は口内の前方で上下相対する噛み合わせを「歯」と言い、一本づつの歯は「牙」と言った。「牙」の甲骨文「牙」は、歯槽と歯根のある抜歯した臼歯の形である。
「牙」は口の奥の臼歯を表し、また驚いた声を模したものである。篆書の「呀」は「口」と「牙」の組み合わせである。造字の本義は、驚いて大きく口を開けて、「牙牙(ギャーギャー)」と言う言葉を覚えること。
「五」は音符であり、意符でもあり、多数を表す。「語」の金文「語」は話しをする「言」と上下に積み重ねた二つの「五」の構成であり、多数を表す。造字の本義は、演説、談論、べらべらしゃべる、たくさん喋ること。篆書の「語」はこの字を横に「口」が加えられる。隷書の「語」は篆書の「」を「言」と書いている。『説文解字』に、語は弁論、字形は「言」を偏として「吾」を音符として採用している。
「言」の、甲骨文の「舌」の舌先に横「一」の指示符号を加えて、舌が発する動作を表す。造字の本義は、口と舌を動かして話をしていること。金文「言」は甲骨文の「を「」と書く篆書の「言」は更に横「一」符号を加えている。隷書は「言」と簡略書き、完全に「舌」の形を失くしている。『説文解字』に、言は、直言するを言を曰い、論難を語を曰う(ありのまま言うことを「言」、避難することを「語」と言う)。
「侖」は「論」の本字である。甲骨文の「侖」は論議を表す、書籍の趣旨を論評すること。「侖」の「論評」の本義が消失すると、金文「論」には「言」を加えて「論」字を作り代替した。造字の本義は、基準を論議し、是非を評論すること。篆書の「論」は金文の字形を継続している。隷書の論は篆書の「」を略して「言」としている。『説文解字』に、論は議するなり。証明を分析すること。
殷商時代の首都は河南の安陽にあり、甲骨文は古代の河南地方の言語を記録している。現代の河南地方の人が「行う」「同意する」「満足する」などを表す時は、いつも「中」と言う。殷商王も卜辞(甲骨文)で天上の神仙に、「己未 宜しく義京に羌三、十牛を解くげきか、中(あた)るか」と質問している。意味は、己未(キビ、つちのとひつじ)の日に義京の祭祀に羌方三人・牛十頭を解体するが、同意するかという意味である。
河南ではまた、心地良い、美しいという意味を「得」と言う。農村の人は良く「弗其得(fuqide)」「不其得(buqide)」というが、もちろん気分が良くない、美しくないという意味である。殷商王は卜辞中に「三月に、弗其得を貞(うらな)う」〜三月は不調であるがどうしたことであろうかと神仙に訴えている。
「兑」は、音符であり意符でもある。甲骨文の「兑」は、祈祷の儀式を主催する年長者がとうとうと唱える様子である。「兑」の「念々と詞ある(ぶつぶつと喋る)」本義が消失すると、篆書には「言」を加えて「説」を作り代替した。造字の本義は、演説、口頭通達である。隷書の「説」は篆書の「」を略して「言」と書いている。
また「兑」は中国語の古文では批評する、叱責する意味がある。河南の農民が「我兑了他一顿」と言ったら「私は厳しく彼を叱責した」であるが、この言い方も甲骨文に由来している。例えば「戊申卜、馬其先、王兑从」〜戊申の日に、占うに出かける路上で、随従していた馬が突然に王の前方に駆け出したので、王は厳しく叱責した。
「登」には「寄せ集める」「手にする」の意味がある。例えば河南の人が「你這汽車哪登的」と言えば、つまりこの車はどこから買って来たのだと言うことを質問している。甲骨卜辞で武丁が「辛巳卜して、貞(と)う:婦好に三千を登(すす)め、旅万を登め、伐たす」〜辛巳の日に占う、卦は、王后婦好に三千を徴集し、また王城から一万人を徴集し、彼女に出征を命じたと言っている。
「呂」の、甲骨文「呂」、金文「呂」は共に二つの「口」の構成であり、同行者、気の合う旅仲間をさす。篆書の「呂」は二つの「口」の間に連結する縦線を加えて、両者間の一体連係を強調している。篆書の異体字「侶」は戦争の行軍を表す「旅」と、身体を表す「月」は、また「肉体」の構成であり、戦友と作戦、生死を共にすることを強調している。「呂」の「旅仲間」の本義が消失すると、篆書はこの字の横に「人」を加えて「侶」字を作り代替した。『説文解字』は、昔 太岳は禹の心呂の臣の為め故に呂侯に封ずと解釈している。
「何」の初期の甲骨文の「何」は、武士「人」が肩に戈戟(カゲキ、武器)を担いで大口を張りあげている様子である。造字の本義は、国境守備の兵士が戈戟を肩にして、往来の人を尋問すること。後期の甲骨文の「何」は「口」を省略し、戈戟の形を簡単にしている。早期の金文は戈戟を担いで大声で命令を叫ぶ様子を像る。後に金文の「何」は振り返って命令する人を「」と書き、戈戟の形象を誤って「丁」の形の「」と書いている。このように変化して、後期の金文の「何」には武力の痕跡は無くなった。
「曷」は「喝」の本字である。金文の「曷」は「曰」と「人」との構成である。検問の当番哨兵が、外部の人に尋問するのに恫喝の声を上げる。哨兵に対面する「亡」は、流亡の人々を表す「氓」の省略である。後に「曷」が偏旁の文字となると、後期の篆書の「喝」には「口」が加えられた新たに「喝」を作り代替した。造字の本義は、喝問であり、高らかに尋問したり発令すること。
「益」字は「溢」字の本字であり、本義は皿器から水が溢れ出すことであり、「利益、増加」などの意味に発展している。「柢」字は木と樹根の形状の筆画の構成であり、樹を指している。「益柢」とは河南方言であり、「ますます」の意味を表し、あるいは「できばき」「明確」「根本的」という理解もある。例えば(卜辞の)、「己巳卜す、貞(と)う、今日益柢して雨ふらざるか。」。
福建の閩南方言には多くの古代漢語の発音と語法が残されている。路上に誰かに在った時に「飯食ったかい(こんにちはの意味)」と呼びかける時に、閩南人はただ「食未」と聞くだけである。「有沒有(ありますか)」と聞く時はただ「有無(ユウムー)」と聞くだけである。もし詳しく「一体あるのか、はたまたないのか」と聞く時も「到底有抑無。」というだけである。〜古代人もこうして話したのであろう。
現代中国語には、例えば「嗎」「啊」「呢」「吧」「啦」「了」等の語気助詞があるが、これ等の大部分は漢代以後に創造されたものである。先秦時代にも、文中で幾つかの助詞(虛詞)を使用してある種の語調を表していた。甲骨文では、「乎」「不」「哉」のような幾つかの助詞が現れたが、中でも「乎」の出現回数が最も多い。
「呼」の本字は「乎」であり、吐息を吐くことを表す。甲骨文では、「乎」の字形は「であり、古代人が高らかに角笛を吹いて、緊急集合の合図を発出しているようであるl三点の指事記号を「」は吹奏の気流が角笛から高らかな音声を発声することを表しているので、「乎」は角笛の緊急、明瞭なことを表し、部族の緊急の「呼び出し」を表している。後に「乎」の「呼びかけ」の本義が消失すると、篆書では「口」を付け加えて「呼」を作り代替した。造字の本義は、角笛を吹いて合図を送ること。
「吸」の本字は「及」は、「呼」の反対語であり、吸気を表している。篆書の「吸収0」は「口」と「及」との構成である。造字の本義は、口鼻を通して新鮮な空気を運ぶことである。
「于」は「竽」の本字であり、本来竹笛、簫の管、角笛などの吹奏楽器を指している。初期の甲骨文は「于」に作り、甲骨文は「于」に作る。後に、「于」字は語気助詞となり、「楽器」の本義が焼失したため、篆書の「竽」は本字の上部に「竹」を加えて新たに「竽」を作り代替し、何本もの竹簡で構成し、抑揚があり転がるような音声の蘆笙などの演奏を強調した。『説文解字』に、竽は管三十六の簧(しょうのふえ)なり。「于」から流れる気流には強弱があり、音声には高低があり、これから「号、乎、平、亏、兮、欠、次」という系列の漢字が発達し、高低差のある音調を表した。
「号」の篆書 


「哭」の甲骨文の字形は 











通常発生する音声は「平」であり、「平鋪直敘(平板直截な事)」「平淡無奇(ごくごく普通)」「平安無事(無難)」を意味する。甲骨文の 




「兮」の、甲骨文「兮」は鳴らしている号令 

「亏」の篆書「亏」は角笛「于」に横一を加えている。造字の本義は角笛を吹く時に気流が弱すぎて、角笛が上手くならないことである。
「欠」は、「吹」の本字である。甲骨文「欠」は大口を開けて、空気を出し切って気力の無い状態である。造字の本義は、疲れて大きく口を開け、深々とため息をついていること。「亏欠」の二文字は連用するのは、不条理な事ではない。身体の弱い老人に号笛を吹かせる悪い冗談ではないか。
「次」の甲骨文 







甲骨文の、「口」字は二つの書き方があり、一つ一つは正方形の 

1930年代に、ある記者が雲南の高黎贡山の奥深くの貢山県に民謡採集に出かけた。県の政府で、彼はある奇妙な物体を目にした。片面に鉄の丸い焼き印のある木板や、三角形の切り口のある何枚かの竹片、またスクラッチ(刻線)がある一束の竹ひごがあった。県知事は記者に、この物件は一般的ではないが、当地のヌー族の首長と貢山県政府の同盟の証拠であると語った。当地では物資が大変不足しており布帛、食塩、針金など生活の必需品は、全て政府が提供する必要があった。原始部落はまた大変貧困でもあり、物資を買おうにもお金がなかったので、「同盟」という方法で、労働力を債務に当てた。部落の首長は県政府に向け、この仮想通貨である看板と、竹片、つまり労働者の証拠として提供した。双方の約定は、もし政府が10人いを雇用した時は、刻みのある竹串を使用し、政府が10人使った時は切込みのある竹べらを利用し、もし村人の全勇士が来て服役した時は、片面に烙印を押した証拠の木板を利用した。
「乍」は「作」の本字であり、元は(アウトレイジ・ゴッドの)功徳簿に本人の善行を記録することを指した。金文の「詐」は「言」と「乍」の構成で、「口先だけ、「戦功の偽称」「公文書偽造」「奨励賞の横領」を表す造字である。
「命」と「令」は同源であり、後に分化した。 






金文の 「令」と 





高い壁を見ると、人はいつもその壁の後に行き、そこにどんな物語があるかを見ます。山の頂上を見ると、必ずその最高峰に登って、山の頂上にはどんな美しい景色があるかを見たいと思います。時代関係なく、世界中の人々は常に好奇心を持ってそれに憧れ、絶え間なく探索し、勇敢に追求します。彼(女)達はまだ自尊心と誇りを持っており、誇りに思ったりイライラしたりすることがあります。
未知を探索する長い旅路では挫折が続くので、その感情はより強くなります。彼(音符)等にとって、長い道のりの終わりは伝説の未知の土地であり、そこに畏敬の念を抱きながらも、互いに近付きたい、或いは超えたいという願望で一杯です。勝てば「人間は自然を征服できる」と言うだろうし、失敗すれば「自然に運命を任せろ」とため息をつくだろう。運命は変えることもコントロールすることもできない為、人々は自分の心を変えて「他人に助けを求める」しかありません。『史記・李将軍列伝』の李広がこういったように、「豈吾相不当侯邪?且固命也?(侯である私のそう出来ない訳がありません。どうすれば自分の運命を修正できるでしょうか?」







曹操の「曹」の本来の意味は「遭」であり、出征に関係する。甲骨文「曹」の上部は二個の「東」であり、二個の旅行カバンで二人の旅行者を表す。下部の「口」は会話を表す。造字の本義は、旅行で出会った二人が挨拶を交わすことである。金文の「曹」「口」を「曰=会話」に代えて、挨拶を明確にしている。隷書の「曹」は「二つの東」を続けて「」と書く。楷書の「曹」は「」を続けて「」と書く。「曹」の「旅行者同士の挨拶「の本義が消失すると、篆書には「辵」が加えられ、新たに「遭」を作り代替した。
「辵」を付け加えた文字には中国語簡体字の「这」があるが、これは「言語とは関係なさそうではあるが、実はそうではない。「这」字の繁体字は「這」と書いて、本義は相手に対してある地へ行くように命令することである。隷書の「謫」は左右の構造に書き、「辵」を「言」偏に書き、「言」を「啇」と書いてある。そこで「啇」字はこのように、「言」字からでっち上げてきたのである。(このように)「謫」は二つの「言」の構成に由来し、排斥、非難、譴責するの意味である。従って楷書の「这」と「謫」は同一の金文「這」に由来する。後漢以後は「這」と「者」は通用して、作用を指す指示代名詞となった。許慎の『説文解字』に、「者は、事を別かつ詞なり。」いわゆる事を別かつ詞とは、物事を指すのにその名称を直接言わずに物事を区別する言葉(代名詞)である。清朝の文字学者段玉裁は『説文解字注』で、「凡そ俗語に‘者個’‘者般’‘者回’、みな事を別けるの意を取る、」。いつ頃「迎這」の「這」が「之」に変わったのかはわからない。宋代の字典『增韵・馬韵』には「這は、凡そ此箇を称して‘者箇’と為す、俗に多く改めて『這』を用う。」唐代の人の会話には、『龍門仏眼和尚語録』に、「甜き者 黄蓮より甜く、苦き者 白蜜り苦し、這般の滋味を吃得す(薬より甘く、白糖より苦い、こんなうまみを味わう)。」『旧唐書・史思明伝』に、(史思明は)曹将軍に「這(こ)れ胡(なん)ぞ誤我す、這れ胡ぞ誤我う(なぜ間違えるんだ)」と罵っている。
「今」は「吟」の本字である。甲骨文「今」は指事文字であり、会話を表す「曰」を逆さに書いたものが「今」である。古文では「曰」は、台頭で明確な対象にある対話であり、今(吟)はうつむいてもそもそも不明確な独り言を指している点である。後に「今」は「昔」の対象である現代を表す言葉に発展した。後期の甲骨文「吟」字は隣に「口」が加えられ、俯いてうめくような話を表した。
「永」は音符であり意符でもあり、河川が永遠に流れることを表す。早期金文 






「昌」の、甲骨文「昌」は二つの「曰」の構成であり、「曰」は大きく口を開け喋ることを表す。「曰」を重複した会意文字であり、絶えず反復して話すことを表す。造字の本義は、自分の首長を他人を説得するために努力して、声高に叫んでえん、大声で主張すること。「昌」の「提唱」の本義が失われると、篆書には「口」を付け加えて「唄」を作り、「人」を付け加えて「倡」を作り代替した。『説文解字』に、昌は、美言なり(称賛する言葉)。一に曰く、日光なり(太陽の輝き)。『詩經』に「東方昌(さか)んなり」という句があり、燦々と輝く朝日を形容している。
「詩」の篆書「詩」は「言」と「寺」との組み合わせであり、本来は祖廟で行われる厳粛な祭祀の儀式で、全員で声を合わせて讃美歌を斉唱して、神霊と祖先を称賛することである。『説文解字』に、詩は、志なり、詩は意思の表れである。
「寺」は「持」の本字である。「寺」の金文 










孔子の著書である『論語』では、語気の表現が非常に頻繁に使用されています。言語学者の統計によると、現代の文学作品では、1,000語あまりに57回の語気表現が出現するとされています。私達がよく知っている多くの成句は『論語』から来ており、語気の表現を含んでいます。例えば、「学而時に習う、不亦悦ぶや?有朋自遠方来たる、不亦楽しや」「子は川の上にて逝く者如く斯く」「政を以て徳となし、譬えば北辰の如く、其の所に居て衆星がこれを拱く」「克して服礼を以て仁となす。一日克して服礼し、天下は仁に帰す焉」「知ることを知る、知らざることを知らざる、これもまた知るなり」「四海の内、みな兄弟なり」「朽ちたる木、雕るべからず」などがあります。
孔子は世界でも有名な哲学家である。金文の 









古代人は行軍作戦に精通することを「智」と言い、正常な考慮と真実の洞察を「慧」と読んだ。目覚めた後の明晰な状態を「覚」、自然を理解し、自我を見つけることを「悟」、無我と自然の天性を「禅」と言った。
「矢」は、音符であり意符であり、矢羽根を表し、狩りや作戦の意味に借用される。金文の 




智、甲骨文の 





「戠」は「識」の本字であり、金文の 




春秋戦国時代に、孔子は列国を周遊して、天下の人々に知識を伝授するために、周の人に通用していた『雅言』を使用した。紀元前1046年に、周の武王は殷商の紂王を打ち破り、西周王朝を建国した。その後、姬姓の貴族と開国の功臣が各地に封じられ、全国に諸侯の国が建立た。西周の開国の日から、姬姓の諸侯を主とする貴族集団が全国九州に偏在し、言語文字も比較的統一された。だがこういう言語は高等教育を受けた「君子」達が掌握し、公務的な外交の場合で使用された。うまく言えない時には、『詩』を歌唱するしかなかった。
『詩』は、本来「政府からの正気の言語」を指し、また『辞海・雅言』で書いた詩句であった。『辞海・雅言』の記載によれば、「雅言」は周代の首都豐鎬(ホウコウ)で流行した陝西省地方の言語を標準音とした基本方言であった。孔子が編纂した『詩經』は、中国古代最初の「歌唱版」標準語であった。
詩は詞と句との組み合わせである。篆書の「詞」は、「言」と「司」の組み合わせである。「司」は「服務」を表すので、「詞」の造字の本義は、言語のために働くものであり、つまり言語の中の最小の発音と表意の部品である。発音、単語、語法は言語の三大要素である。単語とは文字の組み合わせである。単語とは、単音節や二音節、複数音節で独立運用出来る最小単位の言語である。古代中国人は単語を「詞」と称し、単語の組み立てにより意味を表すことを「辞」と読んだ。
詞に比べて大きい単位は「句」である。甲骨文の「句」は「丩」と「口」との組み合わせである。「丩」は紛糾の「糾」であり、連続して途切れることのない話を表す。造字の本義は、多くの単語を連続して形成される言語の断片であり、つまり字や詞を一定の法則によって連続させた表現の最小単位である。
『詩經』は「風」「雅」「頌」に分けている。「風」は実際は「諷刺」であり、各国諸侯が使用する方言を利用しているので、今日の白話文に相当する。「雅」は各地の貴族士大夫が通用する言語であり、今日の古文(漢文)に候する、「頌」は王室が宣揚する祭祀文章であり、今日の政府発表である。いわゆる「雅言」とは、「風雅な言葉」であり、周王朝建国当時の分配された各封建国に通用する、文字で書く事の出来る言語であり、基本的に当時推奨された共通語であった。
後に西周の領土は「豆剖瓜分(とうぼうかぶん、細分化)され、東周時代の列国は群雄割拠した。春秋戦国時代の儀礼は崩壊し、弱肉強食都内、最後は姬姓の皇族国が蔑視していた未開の「蛮夷」であった辺境の小国が、日増しに国威強大となって行った。強大な諸侯の覇主は周朝の姬姓の豪族に取って代わり、当時の政治舞台の主役となった。例えば早期の「春秋五覇」には斉の桓公、宋の襄公、晋の文公、秦の穆公、楚の莊王がが含まれる。晋国は王室の姬の姬姓の祖先が戎狄化したもの。斉国は東夷化した西戎の姜氏の後裔。秦国は西戎へ分国した東夷化人伯夷の後世である。宋国は殷商の移民であり、楚国はもとより南蛮人であった。春秋後期の呉王闔閭(こうりょ)、越王勾踐は、徹頭徹尾純粋な東夷の(蛮夷)であった。春秋戦国時代の長期の分裂と、中原周囲の「蛮夷」国家の台頭は、本体接近していた華夏(中国)各国の言語の分裂を加速し、諸国の系統を成立した。このようにして、秦、魏は斉、楚等各国でそれぞれの言語を話し、通用の言語は存在しなくなった。それで『詩經』で世襲の貴族達が使用した「雅言」は次第に「共通語」の位置づけを喪失し、「告示」専用の純粋な文語に変化した。
「告」の甲骨文 








戦国時代によく使われた語句であるが、下面の篆書を見ればそれとなくわかるが、全体的には大変わかりづらい。
「話」の金文の「話」は「言」と「会」との構成であり、造字の本義は、人々が集まり一緒に話す事。
「諺」の金文「諺」の 
金文 








「己」は意符であり音符でもあり、「紀」の本字でもある。結縄をして記録した縄を表す。金文の 




石鼓文「認」は「言」と「刃」との構成である。「刃」は「忍」の省略であり、「忍」は不本意であるが強要されて同意、受け入れをすることである。造字の本義は嫌々ながらも同意や受け入れをすることである。古来、人類社会は、「誠信」を個人が備えるべき基本的かつ重要な人格の資質を見做して来ている。自身の本心を言うことが「誠」であり、自分の承諾することを実践することが「信」である。
「成」は戦争に行くこと。金文の 






金文の 





「謝」字は は職務、責任を表す。 は言語、訴えること。造字の本義は、古代の年配の職員が婉曲に職を去ったこと。『説文解字』に謝は、辤去なり(暇乞いして離職すること。しかしこの字の意味は漢代以前の古文である。後に謝絶や閉門謝客(家に入れない)のような推托(口実を言う)や辞退の意味や、花開花謝(花が咲く)や新陳代謝のように植物の枯死や新旧交代の意味に使われた。更に一般的な使用法は、上帝に感謝するや天地に謝すのように感激を表した。
「韋」は「違」の本字であり、反逆を表す。「諱」の金文 は「言」と「韋」との構成で、「韋」は「違」であり意味は「違法」である。造字の本義はタブーを避けて敢て話題に触れないことである。
「訊」は、「尋問」であり、甲骨文 



「譴」は、つまり「譴責(始末処分)」で、篆書の「譴」は「言」と「遣」との構成であり、遣は某所へ行けと命令されることを指す。造字の本義は、強烈な批評、違法な政令や、一般的道理を非難する行為である。
「討」は、「糾弾」することで、篆書の「討」は「言」と「寸」との構成であり、「寸、は敵を武器で攻撃することを意味する。造字の本義は、兵力を組織し、戦闘を指揮する作戦部署を設計すること。
「設」は設計であり、、甲骨文の 





戦国時代の言語の混乱の情況に関しては、歴史的文献にも記載がある。『戦国時策・秦策』に、「鄭人は玉の未だ理めざる者を璞(はく)と謂い、周人は鼠の未だ腊.(セキ、ほじし)にせざる者を朴(ハク)と謂う。」と記す。内容は周の人が未加工の玉石材料がいるかどうかと尋ねていると考えたこと。戦国時代の鄭と周は皆元々姫姓であり、鄭人は鄭州に居り、周人は洛陽に居り、双方近接していたが、会話がはっきりしないこともあった。そのほかの諸侯も推して知るべしである。そこで『周礼・曲礼下』に「五方の民は、言語 声を異にす。」という。
孟子は山東鄒県の人で、中国では北方の言語を話していた。彼は長江流域の楚国の人許行のことを、「南蛮鴃舌(ゲキゼツ)の人」と、モゼがしゃべっているようで聞き取れないと譬えた。春秋戦国時代には、斉国では鉱山を掘って製鉄をし、海水で塩を煮て、その塩鉄の利益で天下の富裕国であった。紀元前7世紀に管仲が斉の桓公を補佐して「諸侯を九合し、天下を一匡(いっきょう)する」すると最初の覇者となり、紀元前3世紀に秦の始皇帝が中国を統一するまでの400年間、斉国はずっと東方の経済の中心地であった。当時は現在と同じで子供が龍(天子)となることを願って、経済条件の良い家庭では子供に自国外の言葉を教えていた。孟子は斉国で「楚国の大夫がそこにいて、子供に斉国語を話させようとしていた。果たして斉国人がこれを教えるのか、はたまた楚国人がこれを教えるのであろうか。〜斉国人が教えれば、楚国の人は騒ぐであろうし、連日叩いて斉国で学ばせても、それはできないことであった。」ことを見ている。戦国時代の中国では、現在のヨーロッパ同様に、国家間の言語には、大きな隔たりがあったと見られる。斉国と楚国の距離はポーランドとスペインの距離に相当する。斉国人が楚国に斉国語を学ばせようとして、毎日尻を叩いても、可哀そうに楚国の子供達も学習することは難しく、今日の中学生が英語を学ぶぐらい簡単な事ではなかった。
古代人は、先生の優しい教えを「誨」、辛抱強く指導することを「誘」、厳しく叱ることを「訓」と呼びました。
誨の、金文での「誨」は、説得を意味する「言」、母親を指す「毎」から構成なり、造字の本来の意味は「母親が子を優しく辛抱強く指導すること」である。例えば「諄々と教誨す(熱心に教える)」「学んで厭わず人を誨て倦まず(学びに飽きることはなく、教えることに疲れを知らない)。」というような意味である。
「誘」の、石鼓文での「誘」は、良いものを表す「羊」、人を良い方向へ導く「人」という意味を持ちます。初期の篆書での「誘」は、幼児を指す言葉として「ム」という文字が付けられ、親や教師が良いことを言って子供を惹きつけ、良い子、良い生徒になれるよう一歩ずつ導くという意味を持ちました。熟語の循循と善く誘(いざな)うは、『論語・子罕』に、夫子循循然として善く人を誘う。我を博むるに(文)を以ってし、我を約するに礼を以ってす、罷んと欲っすれども能わず(先生は順を追って上手く人を教え導く、文を以て知識を与え、礼を以て教え導き、授業を休もうとは思わない)。」後にこの「誘」の字は意味が変化して、誘敵深入(敵おびき寄せる)、威逼利誘(脅しすかす)のように、誤解を与えたり欺瞞するの意味となった。(その後、誘という言葉は意味を変え、敵を誘い込んで深く侵入させたり、威圧したり誘惑したりするなど、誤解を招く、騙すという意味を持つようになりました。)
「訓」の、金文での 


金文の 



「否」の金文 の上部の「不」は、拒絶を表す。下部の「口」は、回答を表す。造字の本義は、答えない、桟道しない、肯定しないこと。
「叱」、篆書の「叱」の「口」は、譴責すること、怒鳴ること。下部の「匕」は鋭いナイフである。造字の本義は、厳しい口調、耳に痛いとげのある言葉、大声で叱ること。
「厳」、初期の金文の 





戦国時代の諸侯は併合と征伐が絶えず、世襲貴族の地位も朝夕に不安定で、その地位も厳しいものであった。乱世の中での生存と発展のために、各国の君主は普遍的に賢臣を招き、遊説客を取り入れ富国強兵を求めた。このようの情況の元で、人士の地位はこれまでになく高まり、「百家争鳴」の文化的盛況を迎えた。当時の遊説客や弁士は列国を周遊したが、思想交流をよく進めるために各種の言語を掌握する必要があった。『戦国策』は蘇秦は初め秦王に遊説したが成功せず、帰国後「頭懸梁錐刺股(腿に錐を指し首吊る)」気持ちで、『太公殷符』の推敲に苦心して、一年後完成し、その後山を居りて「六国相の印」を掛けることとなった。その他の才能は言うに及ばず、肯定すべきなのは、蘇秦は外国の言葉にも大きな努力を払い、極めて深刻な造詣を持っていた。だが戦国時代の言語文字は統一されていなかったので、これが一大問題であった。なぜなら誰もが懸梁刺股して外国の言葉を学ぶことは至難であり、また蘇秦のように聡明ではなかったからである。ましてや国家は統一前であり、文字と言語の統一は夢想に過ぎなかった。
国家統一の前には統一的な言語もなかった。言語と文字の統一では、秦の始皇帝の、「功は当代に在り、利は千秋に在り」とも言うべき巨大な歴史的貢献をした。秦の始皇帝の本名は嬴政で、彼の父親は名を子楚と言いかつて趙国で生活をしており、9歳の時に父親に伴われ秦国へ帰国したので、秦、趙両国の言語に通曉した。紀元前246年、12歳の嬴政は即位して秦王となった。紀元前236年、秦王嬴政は自ら国政を開始して、広く各国からよくできる人士を招いて、秦国の「客卿」として担当させた。有効な統治を実施するために、秦王嬴政はまず専門学者を組織して児童言語の啓蒙教材を編集したが、彼は趙高に『爰歴』、胡毋敬に『博学』、李斯に『蒼頡篇』を作らせた。この王にして基礎教育の発展を通して、秦国は秦隴方言を中心に、各国の語句を融合して言語を作って普及した。
紀元前224年六国統一から紀元前209年の崩御まで、秦の始皇帝は僅か15年間のうちに、中国の文字を統一を成し遂げたが、この統一の系統はそれ以来2,000年余り沿用されて来た。残念な事には、言語に関しては、秦の始皇帝の時代から2,000年を経過しても、中国大陸では本当の統一はまだ実現していない。秦朝の消滅後、江蘇沛県(ハイケン)の亭長劉邦は漢王朝の建国皇帝となった。沛県は楚国と魏国との間に位置する。劉邦は魏国に生まれ、ひたすら楚国の言葉を喋り、楚国の歌を唄うのを好んだ。劉邦に従って天下取りをした大臣の多くも楚国北部、魏国南部の出身で、野蛮な中国風が混在していた。彼らの話す言葉は西周時代の『雅言』に由来する魏語であり、同時に純正とは言えない楚国の方言も混じっていた。「南北混在の方言」というべきであろう。
漢は秦の制度を継承し、言語文字の分野では秦の始皇帝の統一の大事業を深めた。秦の始皇帝は、基本的な識字教育と、文字統一を草創したが、文法の句形や、文章の格式までは統一しておらず、この作業は漢代の文化人に完成が委ねられた。漢代初期の人が書いた文章は、明清民国の人のように複雑ではなかったが、「之乎者也」などの語気助詞の使用方法が正しいかどうかを気にすることもなかったので、他の文字を書いて読者を笑わせるように心配もなかった。前漢初期の書き方は今日の我々と変わりがなく、基本的には「文語」と「口語」の区別がなかったので、口語で書いていた。学識の広遠な人は熟語や古典を文人ぶって使用したが、大多数の人は、自分の感情を何でもかんでも書いた。前漢初期には二種類の異なる文体が流行した。『楚辞』から発展した『漢賦』が、司馬相如を代表とする抒情的な散文世界を統一した。しかし実用的な文体は、司馬遷を代表とする先秦時代の簡潔明瞭な散文の衣鉢を継承している。この点から、いわゆる「漢語」とは、楚辞を精神とし秦の賦を形体とすると見られる。秦代の人が定めた漢字を使用して、「沛県方言」を話し、楚国の「離騒体」文学と先秦時代の散文を書いた。
漢代の文学作品は、『詩經』を代表とする「雅言」と、『離騒』を代表とする「離騒体」の影響を二重に受けている。いわゆる漢時代初期の文学作品が使用している動詞は基本的には詩經と変わらないが、その人が常用した「兮」の字をよく使った。例えば劉邦が使った『大風歌』の「大風起り乎 雲飛揚す、威 海内に加わり乎 故郷に帰る。安んぞ猛士を得乎 四方を守らしめんと。(乎=て)」である漢代から南北朝時代まで、古老の「乎」字は漢語に常見される語気助詞となり、古代漢語によく見られるようになった。劉邦が皇帝となって、江蘇、安徽、河南、山東の四省が隣接する一帯から前漢の開国功臣が集まり、彼らの話す言語が初期の「漢語」となったがこれが漢代の「中国語」の源流となった。
前漢の文学家楊雄は、中国の歴史上最初に各地の言語を系統的に研究した作家であった。彼は『方言』を表し、中華大陸の方言を以下の七つの地域に分類した。現在の西北、西南地方の秦晋、隴冀、梁益の一区画、伝統的な中華平原北部の、周鄭韓、趙魏、宋衛の一区画、現在の山東省に相当する斉魯、斉東、青徐をの一区画、現在の河北地区に相当する、燕代、晋北、燕北、の一区画、伝統的な中華平原南部の陳楚江淮の間を一区画、現在の湖北、湖南両省に相当する、荆楚を一区画、現在の江蘇と浙江二省に相当する呉越を一区画とした。前漢中期の区分と言っても、基本的には春秋戦国時代の情況に一致している。漢代と現代の方言の区域は完全に重なるわけではないが、区分の範囲はほぼ同じである。現代と最大に異なるのは、湘江流域と錢塘江流域のほかには、前漢時代には長江以南の大部分の地域は未開発であった。現在の福建、江西、広東広西両省、雲南貴州などの省はまだ人家の少ない「瘴煙(湿気た気候)」の地区であり、現在の閩、贛(こう)、粤(エツ)の方言は当時(の区分に)は存在しなかった。
1995年に、考古学者達は新疆・民豊県の尼雅遺跡で国宝級の文物を発見しました。それは、漢朝の武士の織錦の腕章で、「五星出東方利中国」という八文字が刺繍されています。この八文字は『史記・天宮書』から引用されており、古代の「五星」は歳星、荧惑星、填星、太白星、辰星、即ち現代で言うと木星、火星、土星、金星、水星を指しています。この腕章と一緒に出土した他の絹製品には、「延年益寿長葆子孫」や「安楽如意長寿無極」、「千秋万歳宜子孫」など、古今通用の吉祥の祝福が刺繍されています。
秦朝から初めて、中国は政治的には「大一統」の傾向を保っていましたが、歴史上は內憂外患により何度も分裂や再編成がありました。この「分久必合 合久必分」という状態は、地域間の言語交流にも新たな問題をもたらしました。ほぼ各時代で、中国の領域には多種多様な方言が存在していました。例えば、歴史上の長江流域には少なくとも「呉音(ウー音)」と北方の「京腔(北京語)」という2種類の公用語が存在していました。
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