山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台教会病院ー毓璜頂病院の誕生の物語

近代で、最初に煙台(山東省の経済中心都市)に来て医療伝教活動を始めたのは、アメリカからの長老派教会の牧師です。

1861年煙台が開港して以後、西洋の商人がどしどし来続け、西洋の伝教士もまた多いにいとまなく来た。

こうした西洋の伝教士は煙台で教会堂建設や学校設置以外、更に伝教を利用し医療行為を行い、以て煙台での西洋文化の拡大の影響を為した。

最初に煙台に来て伝教と医療行為を行ったのは、アメリカ長老派教会のD.M.マッカーティー牧師である。1862年彼とその夫人は煙台に来て、アメリカ長老派教会の煙台伝教基地を立ち上げた。

彼は才気溢れ、善行を説く人であった。

彼は嘗てニンポーその周辺地区にあって、14年の長きにわたる医療布教活動を行い且つ十分成功を収めた。

だが彼は煙台で3年間いたが、適切な場所を見つけられずに薬局を開き、あるいは無料で医療と薬を提供して人々を引きつけ診察した。この後彼は煙台を引き上げた。

これは当時の中国において、特に北方の中国人が聞こえるのは皆外国の伝教士の負の面に関する情報だからである。彼らが西洋の宗教に対して想像するのはこのようなものだ:男女の幼い子を騙して攫い、その精髓を取り丸薬を製造する、“男の子の腎臓を割り、女児の乳を割き、目を剔り、子宮を取り出し、乳児を一緒に煮る”。人々は外国人医師が処方した薬を怖がり、それは譬え命取りでなくても、人を惑わせる薬物である或いは恐ろしい災難をもたらすことを只恐れた。多くの場所で看板を張り、人々が全ての防犯措置を採り井戸水を検査して外国人が毒物を投げ込まないように警告した。同様に家長に、彼らの子供達が外国人に縛される(ばくされる)危険を警告した。

煙台に於ける宣教教会は、1864年にハンター・コルベット牧師及び其の本妻に引き渡された。後に米国長老派教会により毓璜頂病院が建てられだが、これは正に中国人が次第に西洋医学を受け入れる時期となる。

この病院に関しての緣起話は、コルベット牧師の第3番目の婦人であるハルエット・サザーランド・コーベット(蘇紫蘭)が営んでいる薬局事に遡る。

蘇紫蘭は専門的に訓練を受けている看護婦で、1901年に毓璜頂にて小さな薬局を営み、それが毓璜頂病院の模型であった。

1906年、 ハンターコルベットは休暇中に煙台に近代的な正規病院を開院する計画を積極的に計画した。

彼の努力により、2年後、ペンシルベニア大学の医学を卒業したオスカーF・ヒルズ夫妻は、病院を建設する為に煙台長老派教会によって送られた。慎重な準備の年後、近代的な病院は、その規模を見始めている。新しいトップ病院は、ロバート・W・ダンラプ氏、A.プリムローズさん、訓練を受けた中国人看護婦師が支援します。ジョンズ・プロギンズ医学大学の医学博士で、プリムローズ氏はアメリカプロテスタント連合病院のスタッフです。

病院の完成を記念して、煙台アメリカ長老派教会は1914年6月30日に開所式を開催しました。

6月30日は病院開業祝賀式典の日です。早くから千人以上の中国代表と多くの異なる国籍のお客が病院に来て、この重要な時刻に立ち合いました。式典に参加したお客は先ず病院を見学しました。専門家が手配したガイドが随行の元、人組また人組の客が病院の隔離病棟を見学し、看護婦師宿舎及び汚水処理設備を見学した。この病院はアメリカの最新建築様式の構造を採用しました。病院は2本の自動汲み上げ深井戸を有し、優良品質の水の充足を提供して、薬局は各種類の薬品を供給する。病院の引水設備は見学者に多大な興味を引き起こした。ガソリンエンジンは水を三つに強大なタンクに給水圧縮機は水流を駆動し、水道管を通して病院の各部屋に送る。更に病院の暖房設備は人々の興味を引き入れた。それは病院内の必要な場所には何処へでも熱量を輸送できます。

女性宣教師と中国人女性のキリスト教信者の案内の下で、女性見学者は女性専用治療エリアだけでなく、病院の全ての施設を見学できた。見学者は皆、西洋式患者治療の方法を理解したいと望んでいた。

この病院の立地は非常に理想的であった。それは毓璜頂西洋人墓地から遠く離れており、高くそびえる石壁が1万6千平方米強の病院を取り囲むように保護していた。病院の外来棟は3階建てで、病床数は100床。薬局棟は二階建てであった。いずれも良質の石材で建設されており、人々に重厚で堅固な印象を与えた。

病院の外来棟の北にある広い廊下は、海抜約100フィートで、煙台市全体を見渡せます:煙台市の石積みの建物、コンパクトな赤いタイルの屋根の家、煙台港の二つの比較的遠い灯台、芝罘湾の真珠のような島々⋯美しい煙台港は、イタリアのナポリ港に匹敵します。外来棟の大きな廊下から南を見ると、大きな果樹園が幾つかの小さな村を囲んでいます。1000フィート以上の大南山の丘の中腹をは、煙台市と沖積平野を囲む円形劇場のような精巧な梯田と葡萄畑があります。冬には、スイスのアルプスの山々のように見えます。雪が山全体を覆う時、それは完全にヨーロッパアルプスの素晴らしい外観です。

1936年の「中華年鉴」が言うには、中国の20数省区には教会附属病院が426箇所ある。30年代にはおよそ35%の中国人エリート分子が受けた教育は教会教育で、90%の看護婦師はキリスト教徒で、70%の病院は教会が運営するものだ。煙台は言うまでもなく更に中国各地も無論そうで、最も良い三甲病院の前身は殆ど教会附属病院です。煙台の煙台山病院はフランスカットリク教会附属病院、威海の市立病院もフランスカットリク教会病院です。