イギリス威海衛初代総督ロックハートの二、三事
イギリス威海衛鸳鸯旗
ロックハートは、香港での在任中、孔子と孟子の教えを知り、多くの儒家(孔孟の教え)の代表を交わしました。ロックハートは、香港で清朝維新派の頭領康有為が彼の世話をしました。
感謝の為に、康有為はロックハートに詩を送るの手紙を書いた。
ロックハートは、彼の人生の前半に学んだ孔孟の教えを、威海衛を治め、支配する為に多くを費やしました。
1905年、福建省の商船が威海衛の岩礁に衝突し、威海衛海西頭村董(村長)車碩学が救助を危険にさらした。福建省に戻った後、船主はロックハートに賛辞を書きました。ロックハートは香港で「拯人于危(人を救う)」という4文字を刻んだサンダルウッド(檀香木)の扁額を故意に注文し、個人的に車碩学の家に送り、威海衛の人々に「人を助けることを喜びとする」という大義がモデルとして、車碩学から学ぶように頼んだ。1916年、威海衛にてある人が井戸へ身を投じて命を終わらせた。その時、50人ものの見物人が輪を成していたが、誰も助けようと身を動かなかった。
ロックハートは其れを聞いて、文を発表し戒めた。「汝ら、其れ程心が冷たくなっているとは。生まれ里は、孔子や孟子の古里である事を耳にしているが、其処は賢人の教えを被っている人ばかりだ。それなのに、良心を隠し、人の危うき所を見て見ぬ振りをして人の命を尊重しなかった。その人助けを惜しむ振りと言ったら、孔子や孟子の古里で生きていく資格すら備わっていないと言いたいくらいだ。汝らは他郷を目指して里を移れ⋯⋯」学生諸君、学を学び、理を悟り、幼い頃より宜しきを以て仁を施し、物を愛する心を育て、勉めて人の命を助けよ。
イギリス人が初めて威海衛に来た時、一度は程度の違いはあれ抗議を受けた。中でもイギリス人の租界の境界線の標識を埋めた時、昼に標識を立てると、当地の住民が夜間にこっそり掘り返したり、租借地を内側に移動したりした。しかし何年も経つと、中国統治の土地の庶民はこっそりと境界線の標識を外側に移動し、自分たちもイギリス人の管轄する範囲に編入しようと試みている。イギリスの役人を県の旦那様、親も同然の役人と見ていた。威海衛行政総督府威海衛初代総督ロックハートと市役人左から、キャプテン・バーンズ、ジェームズ・ロックハート、山東省済南の知府大臣
ロックハートと清朝大臣面会威海衛第一次村董(村長)大会1905年村董大会
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