山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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漢字初の解釈: 認・真


「認」は、『玉篇』に、認は認識なり。これは認知する、識別するの意味である。字形的には「言」は意符であり、堅固で判断することを表し、「忍」は声符である。承認するなどの意味にも発展している。


「真」    、   、   、    は『説文解字』に真は仙人の変形にして天に登るなりという。長生きして不死身の人間が姿を変化して天に上ることを指す。字形的に、金文    は生まれ変わって昇天することを象り、旧字の「眞」に進化したので、許慎『説文解字』は、匕に従い目に従い乚(イン)に従う。八所は所載なり〜目匕は共に人の形を象り、匕は化の省略〜の会意文字であり、変化を表し、残りの発則は飛翔して依るところの風雲を象り、真実、本質、本性などの意味に発展している。『玉篇』に、真は、虚仮ならざるなリ、数うなり。

認真は、事を行うに切実で、なおざりにしないこと。明らかにこれは形容詞であり、真面目な学習、真面目な仕事など、副詞として用いることができる⋯⋯しし、「認・真」は動詞- 目的語の構造の語句であり、どうして形容詞となったのであろうか。幸いなことに「認真起來了(本気でやる)」〜それは真実を追求し、目前の情況を明白にして、真面目に目前の事を熟す(こなす)こと〜のような表現があり、つまり等閑(なおざり)にせず真面目になる事である。

だが、「認」の動作は明白だが、「真」はどうだろう。耳にすることは嘘ばかりで、誰もが金儲けを口にすることはどうしようもなく、目にすることは本物であっても、たった一枚の葉っぱが目を隠してしまう。嘗て当然であったことも今では当然ではなくなり、昔適当でなかったことは今では当たり前のこととなった。人と人と人が社会を構成することは言うに及ばず、真真偽偽、偽偽真真、誠が嘘なれば嘘もまた誠、真偽偽真、偽真真偽、つまり「真理は往々にして僅かな人々の手に掌握される」の言葉のように、大多数の者が真理であると認めていても、それは果たして真理なのであろうか。しかし「認」めるだけでなく、やはり「真」を認識する必要がある。例え真実が不愉快で、真理が人を恐れさせても、聞こえても聞かず、見えても見ず、耳を塞いで鐘を盗むようにバレバレであり、他人を欺く(あざむく)人を欺く方が楽であっても、うそを補正するには更に一万言の嘘が必要なのである。やはり、私見に偏らず、例えその真相が望む者や想像するものでなくても、真面目にその真相を見て、上下探求する必要がある。

だからどうして「認」と書くのか〜音符である「忍」はあるいは物事を認識することへの参与(かかわる)の意味であり、自身の自覚のない主観と当然の焦りを忍ぶことが理解できるのである。