紀元前232年、新王嬴政は再び趙を攻めた。
秦軍は二手に分かれた。
北路軍の統帥は、王翦であり太原から狼孟を取り東の番吾へ進攻し、鄲の背後を打った。
南路軍の統帥は楊端和であり、鄴城より北上し、漳水を渡って邯鄲へ進軍した。
諺に、兵来れば将が攩(う)ち、水来れば土掩うこという。秦軍の気勢は堂々と響いたので、趙王は感慨無量であった。
軍事的には、李牧がまだいるので趙軍は一戦ができた。経済的には趙国では突如の旱魃が発生し、作物が枯死し穀類の収穫は困難となっていた。政治的には秦軍の間諜が朝廷の到る所に居リ、形勢不安定で、人心は恐々としていた。
趙国の内外の苦境を鑑み、趙王は李牧に戦争を長引かせない、一発決戦の、力ずくの速戦を求めた。
李牧は趙王の意図は以心伝心であり、いわゆる彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず(間違いなく勝つ)であった。
戦場の形勢を根拠し、趙軍は邯鄲の南に漳水と趙の長城を頼れば、秦軍の速勝は難しいだろうと、ブレインストーミング(集団発想)を開始した。李牧は南守北攻の方法を採用し、優秀な兵力でそれぞれ敵人を突破する戦略方針を決心した。
命令:
1、司馬尚は長城の漳水一線を堅く守って、後援を待ったが、趙軍の野戦部隊が到来するまでは、一歩も後退できず陣地に待機した。
2、李牧は騎兵の主力部隊を自ら率いて、遠距離を進攻してくる秦軍に反撃し、王翦の潰滅を待って迅速に長城沿線の後援に戻り、南路で楊端和を包囲した。
秦と趙の両軍は番吾付近で遭遇した。
将軍李牧はいつもの瞑目、意に介さす、疑うこともなく、目の邪魔にもならないことを改め、立ち上がると軍を指揮して猛攻し、町のごろつきが好んだわんぱくな拳闘で、王翦の率いる秦軍は手が間に合わず、四散して逃亡した。
北路の王翦の秦軍を潰滅した李牧は、馬蹄を止めることなく軍を邯鄲へ返し、迅速に司馬尚と合軍し楊端和を攻撃した。
南路の秦軍は北路の王翦が撃退された知らせを得て、李牧に敵わないと知ると、接触しただけで、撤退して敗走した。上党などの地の秦軍もばらばらと逃走し、応戦することもなく、秦軍の三度目の進攻は失敗を告げた。
番吾の戦いでは、趙国のために得難いほっとする一時を作った。
しかし趙国は国力の限界であり、遠くからの追撃反撃する力もなく、邯鄲を守りしばらく自衛するしかなく、この戦いは一部の潰滅戦に過ぎず、秦軍を包囲して戦滅することはできなかった。
この秦趙両国の交戦で、趙国は最後に重大な勝利を取得した。
名将李牧は秦趙両国の国力がかけ離れた条件の下、何度も秦軍に戦勝し、更に価値を高め、白起将軍に続く新時代の軍神の名に愧じなかった。
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