山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ロックハートの『山東紀行』(2)小清河

4月22日水曜、我々は朝の6時半出発し、午後6時45分に小清河の河口〜羊角溝(今属寿光)に到着した。


羊角溝にロックハートを迎えた役員


ロックハートを迎えた騎兵隊

趙先生と羅先生、李先生の3名の代表はそこで我々を迎えてくれ、巡撫は8名の護衛を派遣して我々を済南まで護送させた。岸上では兵士の一団と一騎馬隊が我々を歓迎したが、この騎馬は灰色の駿馬上の勇姿が颯爽(さっそう)としており、濰県の梅総兵の命令によって来ていた。総兵官府は濰県に設置され、この梅総兵は近年の義和団の騒乱中にイギリスの家族を救助したのでイギリス政府が金時計と金の首飾りが贈られた。

李先生と羅先生の二名の代表と私は以前にお会いしている。李先生は巡撫の通訳として昨年私を訪ねてきている。彼はかつて天津の海軍学校で学び、戦時中に武勇を表した。李先生は英語がうまいばかりでなく、ドイツ語を熟知していた。

羅先生は亡くなった清朝駐英国大使羅豊禄の甥っ子であり、嘗てグリニッジの海軍学院の学生で、天津の海軍学校で教鞭(きょうべん)を執った。威海衛で彼は私を2度訊ねて来て、英語が大変うまく、見知らぬ仲ではなかった。

趙先生の御年は両代表の父親であり、モンゴル人であり、漢文学の素養もあった。ヨーロッパの言語には精通していなかったが、ヨーロッパ人との交流は長く、ロバートハート卿とも一時期交流があった。

各代表はその利権の範囲内で力を尽くして我々の旅行を愉快にして、最初より最後まで至れり尽くせりの面倒を見てくれ、我々は大変感激させられた。

羊角溝に撞着(どうちゃく)すると、そこに停泊するここと芝罘間の貿易で往来するスワイヤー・グループの汽船を見つけた。また羊角溝の行く途中に、我々は何艘かの小型の日本汽船にも遭遇しているが、スワイヤー同様に、『内陸水域規定(Inland Waters Regulations)』に照合して港湾交易に従事して、現地人を満州内に運輸している。長年多くの山東人が満州で鉄道を建設し、建築を始めたので、大量の山東人が労働力として吸収されている。

1902年の芝罘の状況報告は、174,326の当地の旅行者が港に運ばれ、173,993名が外国汽船で出かけたことが明らかである。また内陸運河の旅行者は42,000人を超えたが、主にイギリスと日本の汽船が運行した。付表の1からは、『内陸水域憲章』下で、この2年で港湾貿易に増加が明らかになっている。この種の貿易に関係する港湾のは羊角溝や莱州、登州、虎頭崖、山東北岸、鴨緑江河口の大東溝がある。これらの港からは大豆や麦稈真田(藁帽子の材料)、絹糸、繭、ムシロを輸出した。芝罘からの主な輸入品は、綿製品、綿糸、灯油、小麦粉、マッチなどである。

4月22日の夜は我々は「靖海」で眠り、23日早朝に羊角溝から上陸した。我々を迎えに来た代表と税関を管理する職員に迎えられ、兵士の一団と梅総兵の騎馬兵は海岸にいた。

職員と飲茶をしながらの歓談の後、我々の荷物は「靖海」号から小船に遷され、この小船は我々を載せて小清河を遡上(そじょう)して、午前11時に我々の第二運航が始まった。


小清河の船隊

我々の小艦隊は10艘で編成されていた。私が乗ったのは中国の伝統的な屋形船で、そこには寝室とリビングのふた間があった。後方の前方の甲板には坐って雑談する十分な空間があった。可動木板の下は我々の二名の兵士と私の従者が夜間の睡眠に使われた。

船上の艱難辛苦に耐えた船長はこの船団のオーナーで、既に73歳であるが、精力満点であった。奥さんは6歳若く、食事もせず愉快に舵を切っている。また彼の子や孫娘も三名とも船員である。


船長及び家族と船員

中国の船員は天性楽観的で、天気の良し悪しに関わらず、旅客を出来る限り快適にする。最も楽観的なのは私の(乗っている)船の船長と船員で全く疲れ知らずであった。どんな苦労も彼らのユーモアの天性は影響しなかった。もし風がなくても、「タグボート」「櫓漕ぎ」が彼らのその日の仕事で、船員たちは「引く」のと「歌う」ことを止めず、歌う時は知っている歌や即興で歌って自分たちを元気づけた。三人の船員は船長の家族ではなかったが魅力的であった。彼らの名には民俗的な特徴があり、一人は「搬不動運べないという意味」で、生まれた時に洪水があり、母親は自分の抱えて逃げることもできなかったそうである。もう一人は「筐子(箱)」。この箱は片端に底が無く、物が滑り出してしまう。彼のお兄さんは亡くなっていて、この名は彼が兄貴同様に長生きできないことを言っているが、これは神様の憐れみを呼び起こして、長生きできることを期待しているのである。今のところこの名は機能しているようだ。三人目の船員の名は「対耳」。彼の両ミミには同じ黒子があり、それを誇らしげに見せてくれた。

4月23日木曜日の午前11時に、我々は小清河を遡上した。480里、即ち160マイルを航行して、4月27人月曜の未明の3時30分に黄台橋(小清河の済南の埠頭)に到達した。ここは済南から8里の距離である。

途上我々は日中航行し朝食と昼食時には碇(いかり)を下し、夜中は停泊した。

一艘の船が厨房と食糧補給に使われた。この兵站船はその他の船を超越していたので、何度も人を派遣して留める必要があった。




小清河風光

小清河に沿って進んだ2日間の天気は曇りで雨も降った。幸いなことにこの運河の最も面白い所に達すると、天気は晴れて来て、はっきりと両岸の景色を眺めることができた。残りの旅程は明るく魅力的な天気であった。


高苑県知県との撮影

3日目の4月25日の土曜日は、沙河明かりを落としていたが、高苑県(今の高青県)の知事が我々を迎えた。巡撫は済南から騎馬隊を派遣し、我々を済南府まで護送した。我々には専用の乗り物が用意され、船旅に疲れた時には運河に沿って馬で進んだ。我々も沿岸の情況をより把握することができた。

およそ16年前、盛宣懐(せいせんかい)が山東省の登莱青道台に赴任した時、小清河を運河として改造された。羊角溝から出発し、最初の5〜6マイル流路は大変荒涼としていて製塩が主要であった。続く両岸の地域は景色も絵画のようで、特に済南に近づくと、見渡す限りの緑の畑と豊かな農村で、際限のない平原と田園は、我々を東洋でなく西洋に居るのだと錯覚させた。

102里の運河は潮の満ち干の影響を受けている。河口では満ち潮は1〜2フィートである。冬季には全河道が凍結し、雨季に下流で氾濫すると、河水は4フィートに達するので、吃水(きっすい)3フィートの小型船ならば河口から236里の沙河に至ることができる。中国人は現在この運河の河道を、汽船が済南まで運航できるように、水深4.5フィートに浚渫する計画を立てている。2艘の浚渫船を準備中である。

清朝政府が運河を改良する目的は、ドイツの膠済鉄道の貿易ラインから独立した一線を発展させることであった。報道によれば、ドイツ人は鉄道建設当時運河の存在を知らなかったが。現在彼らは運河の改良に投資して支配権を取得しようと躍起になっているが、中国人は「イタチが鶏に新年の挨拶をしているようで安心できない」と心配すると共に、運河の支配権を自らの手中に保留することの重要性を十分に意識していた。

済南でテイラー(Tayler)氏にお会いした。彼はイギリス海軍予備隊に服役し、何年も前に中国税関に入り、日中鴨緑江の戦いで中国海軍と共に作戦した。現在は上海で港務長官と法廷巡査を兼任しており、黄河と小清河の現在の情況を検査して報告を作成するように、巡撫から済南に招かれている。彼は我が黄河の現在の情況は満足なものであるが、それは黄河が安全な情況であって、小清河の改良の計画が成功が保証されものであって、甲殻が決壊すれば必ず運河の氾濫を招くものである。彼は最良の計画は黄河の排水システムを作成することであるが、黄河水系は常に氾濫し、黄河沿岸の済南の濼口港の岸辺は水流が強く、黄河が内陸の河道として本当に役立つのかは疑問であると考えた。現在の黄河の流速は4ノットであり、この流域の平均水深は10フィートであり、転回個所では40フィートになる。黄河の氾濫では、「河川敷と小清河の間の200平方マイルの土地に、砂泥が6フィートも沈澱(ちんでん)した。周知のとおり、清朝政府は大量の資金を黄河の決壊と堤防強化の修繕治水に投入してきたが、その資金は汚職官僚の懐(ふところ)に収まってきた。何人もの水利技術者がレポートを巡撫に提出しているが、一人として満足のいく総合改良計画は採用されていない。

山東省政府は、運河を出来るだけ早く整備することを望んでおり、私に対してすぐに掘削(くっさく)作業を開始する意向であると語りました。疑いの余地はないでしょう、この水路の整備は内陸貿易の成長に寄与するでしょう。しかし、済南から青州を経由して芝罘に鉄道を敷設すれば、この省で最も裕福な地域を開発することができ、また明らかにドイツがこの省の貿易を膠州に向けるのを防ぐでしょう。

済南で聞いたところによると、日本の芝罘領事は巡撫と会談し、日本政府にこの鉄道建設の特許を取得しようとしていますが、巡撫はあまり日本人を気に入っておらず、彼の提案を検討する気はないようです。もし鉄道が芝罘まで敷設され、それから威海衛まで延伸されるなら、この港の商業発展は大いに利益を受け、急速に進展するでしょう。


一般市民

運河の旅の間、私達は皆から熱烈な歓迎を受けました。船が停泊すると、いつも興味津々で私達ヨーロッパ人を取り囲む人々がいましたが、巡撫の保護の下で旅行する私達を見て、粗野な言葉は一言も聞かれず、皆きちんとした態度でした。これは中国のほかの地域とは鮮明な対照を形成しました。他の地域では、「人々はヨーロッパ人を囲み、侮辱(ぶじょく)的な言葉と共に石を投げつけることが良くありました。