山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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徐鏡心伝(革命的な巨人)

徐鏡心(1874〜1914年)、名文衡、字子鑑、学名鏡は、山東省徐福故里の近く(黄県黄山館館前後徐村)に住んだ学者の家族で生まれました。

青年求学

子供の頃から、彼は勤勉で大胆でした。14歳の時、彼と彼の兄弟とクラスメートは招遠羅山班仙洞に遊びに行きました。洞窟は羅山の頂上の下にあり、誰もそれを登ることを敢えてしませんでした。そして徐鏡心は素手で頂上に上り、「古代人立马吴山、此亦第一峰也!」。仲間の旅行者はショックを受け、大胆になりました。


青年時代の徐鏡心と従兄弟徐鏡古

20歳の時、徐鏡心は秀才を登録、膳生を受けた。すぐに、彼は科挙を放棄し、西洋で有用な知識を探求し始めました。

1901年毓才学堂に入学し、日本の友人である倉谷箕蔵と出会う。この間「慨然于清延之窳敗,革命思想潜萌于中(革命的なアイディアがその中に潜んでいた。)」

1902年、彼は山東大学に入りました。1903年初頭、彼は早稲田大学で法律と政治を学ぶために日本に留学しました。

革命を参加

1905年の夏、張継の紹介でを通じて、徐鏡心は東京で孫文に会いました。孫文は「器其豪迈」「一見傾心(一目惚れした)」7月、孫文は同盟会を設立する準備をし、徐鏡心は同盟会の創設者の一人でした。8月20日、中国同盟会を設立され、徐鏡心が中国同盟会北部支部責任者兼山東分会主盟人に任命されました。北部支部は煙台に設立され、魯、晋、陝、直隷、モンゴル及び満州の八つの省と地域の管轄下にあります。7月下旬の同盟会設立から12月初旬の中国帰国までの僅か4カ月で、徐鏡心は猛烈な勢いで山東省の留学生の中から優れた才能を探し出し、46人の同盟会会員を育成し、山東省の革命運動の発展のための基礎力を育成した。

帰国して学校を経営する

1905年11月、日本は「清国の留学生を取り締まる規則」を公布したが、中国の留学生は一斉にボイコットしたので、徐鏡心は謝鴻燾、陳紀雲らの同盟会会員と憤慨して帰国した。1905年末に、徐鏡心は実家の製油店を明け渡して、山東省最初の西式学校「明新学堂」を開校した。
1906年春、謝鴻燾等の人と煙台西郊の通申岡で「東牟公学」を開校し、革命取引の展開によって、同盟会会員を発展させ、革命組織を強化した。僅か半年で、同盟会会員は全省に広がった。

徐鏡心(後右二)帰国前に、先生とクラスメートとの撮影
山東の革命党の人間が創設した新式の有名な学校は70校あまりあり、数字的には同盟会の力量は江浙、二湖地区を遥かに上回った。この新式の学校は革命思想を広め多くの革命人を育てた。

満州へ赴き

1906年8月、孫文の委任を受け取り、革命運動に出た。奉天に出向き『盛京時報』の編集主任となり、「講演主義で、豪傑と結納(交流)」して、革命緑を大に発展させた。1907年4月になると、徐鏡心は東北三省の各界で同盟会会員300名余りに発展させ、これを基礎として、「同盟会遼東支部」を設立した。彼は宋教仁と吉林省で植林会社を組織して、内密に蜂起を計画した。残念ながら、事は政府に察知され、東三省総督徐世昌が逮捕を密令したが、吉林の警察署長連承基が救出を計り、虎の口のような危険から逃れた。
1908年の秋、奉天の地方官吏が過酷な徴税を強要するのに反対して、徐鏡心は同盟会遼東支部幹部達を率いて、全市内の商人や人民を動員して勇壮な全面ストライキを展開して勝利を得た。
徐鏡心は4年間に渡り長白山黒竜江間に大変効果的な政治的動員を進め、東北の革命情勢は沈黙静寂から次第に声を上げ、最終的に全中国に渉る武装蜂起の本流の中に巻き込んでいった。

滬上(上海)へ応援を求める

1910年の秋に、徐鏡心は帰郷して、革命機関として「黄県農会」を創設した。1911年夏に、済南で劉冠三、杜佐辰と共に「戲由改良社」を創設し、革命活動を展開した。武昌蜂起の後、彼は済南で各界と連携して力量を増し、山東の独立を促進し同時に煙台同盟会の独立対応を打電で命じた。だが頑固な封建勢力が彼に危害を加えようとしたため、滬上へ逃れて実行支援を求めることを余儀なくされた。

孫文、徐鏡心の撮影
11月、滬上に出かけて孫文に面会し、革命の方策を求めたが、孫文は「何のために来たのか、山東のことは君自身が処理するのみである。」と言った。徐鏡心は更に上海都督陳其美と、まずは煙台を拠点とし、その後登州を取得し、済南を狙い、かつ期日を決めた実効援助をする、山東戦略を協議決定した。11月24日、徐鏡心は「民智を啓発し、組合の政団(政治的団結)を趣旨として、各省の同志を連絡を取り「中華民国共和急進会」を創設した。30日、組織は山東同郷会を開催し、席上七つの取り決めを通して、「上海軍政府との折衝(せっしょう)」、軍艦を北上させ清朝の北洋航路を遮断して、北邦各所と気脈を通じること。」を決議した。また「青島の劉冠三(青島共和急進会の責任者)に征西の協力を電報」した。

登州と黄県の奪回

12月6日、徐鏡心は煙台に戻ると、「北部共和急進会」を組織し、迅速に革命勢力を拡張し、煙台の独立を完全に防衛した。その後王伝炯は反動勢力の制限で、局面を逆転するため、まず登州と黄県の奪回を決定した。
大連では、連承基、鄭天楚の援助を得て、銃器700丁を購入し、兵員400人余りを募集した。1912年12月15日、徐鏡心は隊を率いて一挙に登州を奪回を果たし、「山東軍政府」を樹立し、革命軍を団結するために、徐鏡心は大都督の職を辞任し、参謀長を担当した。

徐鏡心、倉谷箕蔵、張静斎の撮影
11月17日、北馬、龍口を克服するため、黄県に発兵した。徐鏡心は革命軍を率いて黄県城西の九里点、北馬鎮、黄山館などの地で清軍に数度戦勝し、一月近く血みどろの戦闘を繰り広げた。2月1日、上海軍司令の劉基炎は腹を立てて兵を率いた。2月7日午後、黄県城は清軍に包囲されたが、城内の革命軍は兵力も軍備も不足し、徐鏡心は武器が精良であり兵が10倍の清軍に、僅か300人で抵抗した。11日、援軍が黄県城に到着する前に陥落し、徐鏡心は兵を率いて撤退した。13日に革命軍は再び黄県を奪回し清軍は逃走した。2月15日、南京の臨時政府の通達が黄県に到達し、共和の成立を宣言し、戦争は終結した。徐鏡心が率いた登州と黄県の奪回蜂起は、当時長江以北では最大規模であり、最大に影響した反清蜂起であり、「気勢赫赫で、全国を震動し」て、「帝国制度を葬り去る最後の戦い」として知られている。

徐鏡心の手搞『光復登黄戦事紀実』
1911年の辛亥革命で、徐鏡心は北方で、南方の黄興と呼応して、前後10回の武装蜂起をして、清朝の腐敗政治に厳重な衝撃を与えた。
歴史では、「徐鏡心は山東の盟主としてばかりではなく北方の指導者としても同盟に参加した。満州族の根本から討つために満州(東北)へ行き、登州へ下って首都の背後から打った。囚われた朝廷は恐怖に慄き、志士は日和見して、時おり「南黄北徐(黄興と徐鏡心)」と言って褒めた。

孫文に同行する

1912年3月、袁世凱は臨時大統領に就任した。8月、同盟会は国民党に改組し、徐鏡心は魯支部理事長を担当した。9月、孫文は煙台から北京に行き、南へ帰り山東を視察したが、徐鏡心が全行程を同道した。孫文は済南で山東の同志や各界代表と会見し、演説を発表した。
青島に居た期間、徐鏡心はやはり孫文先生に同行して、青島特別高等大学、三江会館を視察し、広東会館では青島中華YMCA代表と面会し、歓迎者達と記念撮影をした。

徐鏡心(左一)、孫文と労山を観光
1912年10月1日の午前中、徐鏡心、劉冠三らは孫文に同道して労山を遊覧した。労山の頂上に登り、雄大な景色を眺めた孫文先生は心頭感動し目前の景色を指さし語った。「中国人として、私は今自由な人間として楽しんでいる。何十年も海外を漂泊して、よく祖国の美しい山河を夢見たものです。私はそれが私夢よりどんなに美しいのかをようやく理解した。専制政治を排除したら、みなで民政の建設に力を尽くし、人民全てが永遠の平和と安全を受け入れることを永っている。」
徐鏡心は孫文先生に近より、小声で、「先生、あなたの意見では、我が党が現在の政治局面の元で、どのようの方法を取るべきだとお考えですか。」と尋ねた。孫文はしばらく考えて「私は個人的には、現在の情況では、我が党は野党に転じて、実業界と各界に入り込んで、民生や人材に集中し、組織を強化し世論を、掌握し、政府を監督するしかないが、我々が本当に強大な力量となり、その後に選挙を通して組織に権利を獲得し、三民主義の社会の目的を達成留守には相当の時間が必要であろう。」と答えた。

袁世凱への書簡

1913年春に、徐鏡心は国会の参議議員に就任した。北京へ行った時、袁世凱が徐鏡心と面会した時、「中華民国は国民が創立したもので、国民が振興し、私を補佐してくれるので、国民のために尽くすだけである。」と言った。
徐鏡心は袁世凱に、「総統は、皆の使用人であり、国民は主人である。使用人には自分の意思がなく、主人の行動によって行動し、自身が行動することはない。総統がこうすることができれば、中国は治り、そうでなければ中国は混乱する。治れば全国は休まり、乱れたら総統の幸福には繋がらない。」と忠告した。袁世凱は、「昔は子鑒(徐鏡心の字名)の噂を聞いて、今では子鑒を見習える。」と感歎を禁じえなかった。また甘粛の都督を餌として徐鏡心を買収しようとしたが、厳しく釘を打たれた。

1913年3月、宋教仁が袁世凱に暗殺されると、「人々は義心満々」となり、周辺の仲間は徐鏡心に、「あなたはリーダーなので、身を危険に置かず一刻も早く離れるべきだ。」と進めた。彼はあの昔のように「私が行ったら指揮や革命は誰がするのだ。」を言った。彼はしっかり北京に止まり、袁世凱と闘争を妥協せずに針鋒対決した。1913年4月、袁世凱は五国銀行から大きな借款を受けた。徐鏡心は『泰東日報』で『袁世凱の違法な借款の不動の証拠の宣言』を発表し、袁世凱に対して弾劾(だんがい)を公開した。記事は「袁氏の禍は、民権を蹂躙し、以て中華の秩序を乱すべく、是は中華民国の罪人」であるので、「袁氏を弾劾せずして、以て中華全国に謝すことなしえ。」と指摘している。
1913年9月、憲法起草委員会委員に当選した。11月初め、袁世凱は法律顧問の日本人有賀長雄に『共和国憲法持久策』を作成させ、中国は共和国体制に不適当で、帝政と称して世論を作り上げ、見聞を混交していると吹聴した。徐鏡心は即座に『順天時報』に有名な『有賀長雄と憲法持久策を駁(ばく)す』を発表して、正面から攻撃した。この文章は、よどみなく古典を引用し、逐次反論し、有賀長雄は「法学界のろくでなし」、袁世凱を「共和制の悪虫、国家の反逆者」であると非難した。

喋血共和

袁世凱を非難する一方で、徐鏡心は胡漢民、李烈鈞、柏文蔚と気脈を通じ、秘かに武力での袁氏討伐を計った。また広東の任侠(にんきょう)の鮑化南を招いて、袁世凱を刺殺するチャンスを伺った。然し図らずも袁世凱に察知されてしまった。袁世凱は血相を変え、総統府の秘書課と、軍政執行処で偽政を捏造させ、1914年3月15日に徐鏡心を逮捕投獄した。獄中で袁世凱はあらゆる勧誘で、徐鏡心ある丸込みを図ったが、無駄に終わった。続いて厳刑で、一月の内に、徐鏡心は過度の拷問「針金で骨を突いたり首つりされ、脇の下下をろうそく炙(あぶ)る」「三種の刑具と目隠しを五種の刑を揃え」「針を10枚の爪に刺し、油で皮膚を焼く」ことを10回以上も受けたが、死ぬほどであっても屈しなかった。

劉冠三、丁仏言、山東旅京同郷会会長の周健龍などが救援する様々な方法を試したが、どれも成功しなかった。
1914年4月14日の朝、徐鏡心は刑場に連行された。途中気は確かに、恐れる様子もなく、沿線の民衆に革命の大義とを演説し、袁世凱が陰謀に乗じて皇帝を称する醜悪な行為は全人類の唾棄するところに通じ、「周囲の男女は声を失い涙」したが、最後は高らかに「革命万歳」と叫んで、静かに息を引き取った。享年41歳であった。


1917年徐鏡心追悼大会祭聯

歴史書には、「袁世凱は三角と為るを謀り、革命党は必ず己を撓(みだ)すと知れリ。先ず其の巨子を屠戮(トリク)し、以て党を滅ぼし国を盗らんと思う。二年(1913年)三月、宋教仁には上海に難に遇う。その明年、徐鏡心は京師に就義(正義のために身を滅ぼす)す。」と記す。宋教仁、徐鏡心は同盟会の革新的な骨幹であり、孫文は二人を、優秀な部下として大変尊重し、いつも「南宋北徐」と称賛して、仲間を鼓舞していた。
1917年、大総統黎元洪は(亡くなった徐鏡心を)称揚し、厳粛に記念を追悼し、親族への弔意を優先して、遺骸を北京から本籍へ移送する命令を下した。
1936年、国民党中党委員会常務委員会は、徐鏡心に陸軍大将を追贈し、国葬を行い、烈士墓を済南千仏山辛亥革命烈士墓苑の最初の墓として改葬することを決定した。中央遺族年金委員会は特別年金5,000元を授与した。
徐鏡心の文武の知略は「奇を懐き異を負い、鋭く有為を欲し、また人の敢えてせざる所を為すに勇み、これを憾むに禍福も稍や瞬ならざる、」であり、「革命巨人」「革命の流れの北方の舵手」「北方の革命勇者」と称賛した。彼は中国北方、特に山東と東北地区の民主主義革命時期の象徴的な人物であった。