山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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「西洋教授」ウィリアム・ラングは秀でた才能と学識があったのに、なぜ退去を余儀なくされたのであろう。



古来、帰化した外国人は、天子の「遠人を懷柔する」という恩徳を堅持するための、表札代わりの飾り道具であった。同一の仕事で帰化人が本国人の技術経験より素晴らしくても、統治者はやはり彼ら帰化人を自分のものとは看做さないであろう。

実際、西洋人に対するこのような態度は、歴史的にも珍しくはない。それはさておき、清朝末期、中国は全面的に世界と接触して、政治、経済、軍事の多方面に顧問とする西洋人を見つける必要に迫られたが、清国朝廷の西洋人に対する態度は、実際何と言って良いのか分からない。結果朕の朝廷と西洋人顧問はみな気まずい思いで離れることになったが。その中でも北洋水郡の西洋人教官は最も典型的であった。今日はその話をする。


1872年、清政府が初めて派遣した30名の留学生です。これらの留学生達の運命もまた嘆かわしいものでした。

内外の戦場で連敗をしても、清国の統治者は外交事務を模倣し、海軍を備えることを始めなければならなかった。然し海軍は船を買うだけでは済まなく、その複雑な機械は専門家が操作し、軍艦での布陣や戦争は、陸上戦とは全く異なり、やはり専門家が行わなければいけなかった。しかし、当時の清国北洋海軍は、上から下まで誰もが近代機器も理解しておらず、海上戦を知らなかったが、どうすれば良いのか。西洋人を見つけるしかないのである。

当時、北洋水師の大部分の軍艦はイギリスから購入されました。その過程で、イギリス海軍中佐のラングは仕事が手際良く、態度がプロフェッショナルでした。また、イギリスから中国までの長距離航海で、数隻の軍艦を率いて何度も半分以上の地球を横断した経験があり、李鴻章に深い印象を与えました。1882年、李鴻章は3年間交渉した末、イギリス海軍省を説得して、ラングを北洋水師の教習として招聘することに成功しました。その役職は「副提督銜水師総監督」であり、通称は「総查」です。


ライブ総査

北洋水師の提督である丁汝昌は騎兵出身で、海戦に全く詳しくありませんでした。そのため、北洋水師の軍艦の整備やメンテナンス、訓練や演習、各種規則や制度は、実際には総査のラングがゼロから構築しました。もちろん、ラング以外にも外国人教官を招聘しましたが、ラングの官位は最高で、責任も最も大きく、北洋海軍への貢献も最大でした。

ラングは総査の職を長年務め、中法戦争の際には規則により辞任を余儀なくされましたが、それ以外は中国に滞在していました。彼は職務に精励し、彼を知る人々は「ラングは終日船務に精通し、一刻も暇もなく、要を足す時も窓から旗語を送っていた」と語っています。これは、どれほど仕事に熱心だったかということでしょう。丁汝昌も、「西洋人の水軍での実績者は、ウィリアム・ラング総査が第一位であり、人間もまたラングが一番であった」と語っている。


北洋水師官兵

ウィリアム・ラングは日常北洋艦隊の将兵を引き連れ真剣に訓練し、将兵の管理に対しては厳格であり、将兵が休暇を申請し離船することは大変困難であった。彼のスタイルの影響で、軍中には「丁軍門(丁汝昌提督)を怕(おそ)れず、就いては琅副将(ラング総査)を怕る」という言い方が流行って、誰も過失しなかった。


ウィリアム・ラングの在任中、北洋艦隊の訓練水準は最高に達した。1888年、北洋艦隊は将兵を選抜して彼の指導で、有名な「致遠」号巡洋艦を含む何艘かの新しい軍艦を引き取りに、英国とドイツに出向いた。彼が軍隊を率いた行程中で、北洋艦隊の軍紀は厳粛で、訓練は的を得ていたので、ヨーロッパ各国に大変深い印象を残した。

彼のこういう功績は、清政府も注目し、醇親王奕譞が北洋艦隊を視察した時、ウィリアム・ラングの訓練の効果に大変満足し、特別に二等第三宝星勲章を授与し、また提督の称号を授与したので、それ以後李鴻章はウィリアム・ラングに発給する電報に、「提督銜琅威理(ウィリアム・ラング提督)」あるいは「丁琅両提督(丁汝昌とラング提督)」の称呼を良く使った。このようにして、ウィリアム・ラングの名は丁汝昌と併称されている。


ラング総査と致遠艦の士官達の撮影

しかし、ウィリアム・ラングの仕事の態度は堅実で、訓練は厳格、北洋艦隊の中国人軍人は上級から下級まで、自由散漫が習慣化しており適応しないので、時間が経つにつれこのような骨身を惜しまない訓練は、果たして中国海軍を掌握したいと考えているのではと彼を疑うようになった。

これも全く根拠がないとは言えないが、北陽艦隊総査の座はイギリス以外の国家も争奪していることは知っておく必要があるが、当時の中国税関の長官のイギリス人ロバート・ハートもウィリアム・ラングを推薦する一人であり、彼は、「フランスとドイツ、アメリカはみな中国海軍のリーダー権を取りたがっているが、私は海軍をイギリス人の手に掌握したく、中国もウィリアムを欲しがっているので、早く彼を中国へ来させて欲しい。」と言っていた。

この事からイギリス人がウィリアム・ラングを派遣した動機は、それほど単純なものではなかったことがわかる。だが当時中国以外でも、日本も西洋人を顧問に招聘しており、海軍を例にすれば、日本人はフランスのエンジニアと、イギリス人の指導者を招いていた。フランスの海軍造船技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーは日本に長年居留し、フランスのブレスト海軍造船廠の様式で日本に横須賀海軍工廠を建設している。


アーチボルド・ルシアス・ダグラスは1842年にカナダのケベックに生まれ、1856年ケベック高校を卒業しイギリス海軍に入隊して服役した。1873年、イギリスは日本政府の将兵でイギリス海軍顧問団を派遣した。ダグラスは副艦長兼司令官の身分で一行33名(内兵士は16名)を率いて訪日し、月給400米ドルで、海軍兵学校の教務主任を務めた。また彼は日本にサッカー(フットボール)も伝えている。

イギリス海軍のダグラス少佐は海軍兵学校の学生自ら教授したが、その受講生には未来の海軍大将日高壮之丞と山本権兵衞がいた。またそれだけではなく、一冊の学校規定や基礎課程、専門理論、海上実践の比重と分布の規定を起草し、また機関を増設する学校を建議し、日本海軍の卒業遠洋航行の伝統を創設した。自ら諸々は、日本人はこの西洋人が工廠を開き、学校を経営し、教材を修訂して日本海軍を掌握しようとしているとは考えていなかったが。なぜ大清帝国はこんなに偏屈になったのであろう。

はっきり言えば、これは深刻の海軍上層部がウィリアム・ラングに対して不満を持っていたからである。大清海軍は近代式の軍艦を装備したが、本質は官僚主義であり、このような役所では専門技術よりも忠誠が遥かに重要であり、ウィリアム・ラングのように疑似一辺倒で、人情世界に無縁で気の回らない人は、大清帝国の官僚達には気が置けない部分があったのであろう。

ウィリアム・ラングは自分が海軍内での絶対的発言権を大変重視していたが、そうしなければ自分の条例は貫徹されたかったからであるが、それでは一体北洋艦隊の指揮権は誰にあるのであろう。これが李鴻章の悩みどころであった。李鴻章の海軍運営は、実のところ部外者の誰の手にも染まれない、自分の手中に指導権を置きたかったのである。ウィリアム・ラングがこのようにしたのは、李鴻章に体裁(ていさい)が悪かったからである。しばらくすると、李鴻章はウィリアム・ラングを嫌悪(けんお)するようになっていた。

北洋艦隊の中国将兵は専門技術はウィリアム・ラングほど強くなかったが、上官の気持ちをあれこれ推量することはウィリアム・ラングよりも大変優れていた。彼らはそれぞれの理由で、ウィリアム・ラングの強度な訓練に適応するしかなかったが、最初は敢えて腹立ちを口にしなかったが、後には李鴻章の考えを斟酌(しんしゃく)して、意識無意識に関わらず訓練中に西洋人労働者を困らせたり秘密あるいは公然にウィリアム・ラングに面従腹背(良い顔をしながら裏切る)をした。率直なウィリアム・ラングがどうしてこれが受けられようか。雷のように腹を立てたが、職業意識から仕事にとどまっていた。


丁汝昌

このように、ウィリアム・ラングと艦隊に積み重なった矛盾は終に1980年に全面爆発した。

この年いわゆる「撤旗事件」が発生した。北洋艦隊は香港に出越冬に入った時に、提督の丁汝昌は数艘の軍艦で南シナ海を巡視した時に提督旗を降ろして、総兵旗を挙げていた。その場のウィリアム・ラングは、これはどういう事だ、私と丁汝昌は共に提督ではないのか、副職(副提督)であっても、貞徳に変わりないではないか、丁汝昌が去れば部下の総兵は私を無視するのか、と激怒した。

ウィリアム・ラングは李鴻章に電報を打って訴えたが、李鴻章は北陽艦隊の規定には提督一名で、いわゆる「副職」はないとほのめかせた。これでウィリアム・ラングは、その場で辞職を提出し仕事を辞めた。李鴻章も引き留めることなく、すぐさま彼の辞任を受け付けた。遂に北洋艦隊の海軍は精通した外国人教官はこのように中国を離れてしまった。


李鴻章

ウィリアム・ラングが辞職し中国を離れると、北洋艦隊には深刻な影響を与えた。彼はイギリスに帰ると、彼が中国で受けた恥辱をあちこちで公表したので、大事件となった。イギリス外交部は中国滞在のイギリス籍顧問の撤退を考慮し、同時に中国海軍の受け入れを中止を宣言した。ウィリアム・ラングは辞職したが、北洋艦隊に西洋人がいなくなったわけではない。しかしこれらの西洋人の軍人階級は大変低く、海軍知識の理解も極限されていて、どの角度からも北洋艦隊の中国軍人をコントロールする力もなかったが、彼らの人格はウィリアム・ラングと比べて雲泥の差であった。


ドイツ人ヘンネケンは、陸軍大尉で、中国の海関税務司の徳璀林の娘婿。1894年に李鴻章の招きにより花翎総兵の身分で北洋艦隊に入隊し教官兼副提督となった。

1895年北洋艦隊の敗戦前夜、軍中の西洋人はヘンネケンのような元陸軍軍人で海軍の知識のないものや、酒乱れで有名なタグボート船長のマクルアなど、名誉をばくちに賭ける冒険家と大差がなかった。

このような状況の下、北洋艦隊の訓練は緩く、戦闘力は著しく下降(かこう)した。相対的に、敵対する日本に対応する外国人顧問はずっと礼儀正しかった。明治時代を通して、日本海軍には前後98人の外国人を雇用しており、フランソワ・ヴェルニーや、ダグラスなど有名な外国人以外にも、工部大学校の艦船動力専門家ウエストや、海軍大学教官のイングルス大佐も含まれている。

1890年に最後のイギリス人教官が海軍学校を離職してからも、多くの外国籍の専門家が日本に定住して、日本の当局への知識の貢献を継続した。日本海軍は、体系的な建築様式、客観的問題対処、間違いのない雇用方法を重視して、雇用した外国人から予想以上の収穫を得ている。この両極端を比較すれば、日清戦争で大清帝国が不甲斐無く大敗したのも、心外ではない。

実は、ウィリアム・ラングの境遇は中国では例外ではない。中国は外国人の指導技術と文明が必要ですが、様々な理由で外国人の雇用に全力を尽くす勇気がありません。この背後には専制王朝の官僚体制と強すぎる民族の劣等感があります。ラングは以前、清朝が洋銃隊を利用して太平天国を鎮圧し、ラングの以後、小駅で兵を練った袁世凱もそうだった。また軍隊建設で「カーブで追い越し」したいし、軍隊の整訓を専門技術が優れた西洋人に渡すのも不安で、西洋人が「我が族でなければ心が変わらない」と心配しています。これは抜け出せない奇妙な輪だと言わざるを得ない。