ロシア軍艦拿捕事件
1904年8月10日、日露両艦隊は旅順口で海戦を行い、その夜、敗北したロシアの魚雷船「レシトロニエ」が煙台港に逃れた。
翌日の朝、煙台日本領事の水野氏は、ロシア軍艦が煙台に逃れたと東京に報告した。水野は煙台知事何彥升に会い、24時間以内にロシア軍艦を強制する為の措置を講じるよう中国に要請しました。この時、煙台に駐留するのは、北洋艦隊代統、広東南澳鎮総兵薩鎮氷だった。ロシア軍艦が煙台に逃げ込み後、薩鎮氷は問い合わせに人を送ったロシア船長は、船はもはやロシアの旗を掲げない、戦争も参加しないと述べ、関連する規則に従って中国に引き渡すに合意した。しかし、11日午前11時、小村外務大臣は水野氏に「日本の方針は、旅順から逃れたロシア軍艦に対して、各国領事に事前に通知し、迅速に攻撃を開始する」と伝えた。「11日午後8時、日本の駆逐艦2隻が煙台に到着し、日本の艦長が水野と行動計画を協議する。12日未明、日本の軍艦「朝潮」の10人以上の兵士がロシアの軍艦に強制的に乗船し、ロシア軍艦に降伏を要請し、その後衝突した。午後3時30分ごろ、ロシア軍艦の兵士が前部弾薬庫を爆破した。船体が傾いて日本の軍艦に支配され、ロシア軍艦の将校と兵士が海に飛び込んだ。
薩鎮氷は、日本の軍艦がロシアの軍艦を煙台港から引き摺り出すのを止めようとしたが、日本の軍艦は無視した。
中国の中立港でロシア船を力ずく乗っ取る日本の行為は、中国の主権と中立権を著しく侵害し、国際法だけでなく、中国の中立権を尊重する約束にも違反している。
煙台日本領事の水野は、煙台知事何彥升に「この動きはやむを得なく、特に謝罪する」と述べた。同じ種類の兄弟は、許しを祈ります。
1904年11月16日の朝、別のロシアの駆逐艦「ベスト・ロプネ」が煙台港に逃れた。
清国は直ちに交渉に向き、中立規則に従って処理するよう要求し、艦長は午後8時までに返答すると述べた。清国の交渉の後、ロシア軍艦は最終的に清国に武装解除することに合意した。当時、海は風と波が強かったので、夜は静まり返った後、武装解除を決断しました。その夜7時、ロシア軍艦の乗組員はボートで軍艦を出発し、その後、軍艦が爆発しました。翌日9時間頃、ロシア軍艦が沈没し、煙突の一部しか見えなかった。その後、日本側の要請により、ロシア領事は、中国側がロシア軍艦の人員と武器を制御することに同意した。日本は軍艦を派遣したが、何にもしなかった。1905年1月2日の朝、ロシア4隻の軍艦が煙台港に入港した。
水野は、ロシア軍艦と人員を制御する為に、清国側に交渉することを知った。煙台知事何彥升は、ロシア領事に連絡し、返答を待っている間だと述べた。煙台は清国の軍艦を既に停泊していないが、ロシア軍艦の軍縮は税務署(税関)の責任である。水野は直ちに国内に報告し、この件に対応する艦隊の派遣を要請した。午後3時頃、ロシア軍艦の将校と兵士が船から清国軍の海防大隊に移送され、船から武器の一部が取り外、清国側は水野領事にこれらの処分を伝えた。午後8時、日本の軍艦3隻が煙台港に到着し、艦隊司令官の藤本は水野領事と協議の上、ロシア軍艦を一時的に監視することを決定した。1月5日、清国の許可を受け、日本の藤本司令官は、領事館の職員を装って、私服でロシアの軍艦を検査した。その後、日本の軍艦は煙台から撤退した。
芝罘歴史文化研究会から資料提供
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