山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ミルズ夫人伝記

120年前、中国初の聾学校である登州啓喑学館が、煙台北部の小さな町、登州(現在蓬莱)の丹崖山の下のバンガローに誕生しました。

煙台市聾啞中心(聴覚障害者センター)学校の前身であり、中国の聾教育が始まりました。

登州啓喑学館は後に煙台へ移転、前後60年間で煙台啓喑学館、煙台啓喑学堂、煙台啓喑学校と改称された。

聴覚が健全な殆どの子供が教育を受ける機会がなかった時代に、煙台啓喑学校は多くの聴覚障害者の子供達の為に斬新な人生を開いて、彼らに「幸せな人生を得て、卒業後は、書写ができ、生計を立て、自立生活し、再び他人に頼ることのない」ようにさせた。煙台啓喑は中国聴覚障害者の教師の為の「黄埔軍事学校」と称すにふさわしい。中国の聾学校の創設者の多くは、皆此処で訓練を受けたのである。煙台啓喑は中国最初の聾学校教材《啓喑初阶》を編修した。煙台啓喑学校は聴覚障害者の女性の子供にも教育の提供を受けることを可能とした。また聴覚・視覚障害のある中国の少女王鳳英も嘗て煙台啓喑学校の教育を受けて,米国人より「中国のヘレン・ゲラー」と呼ばれている。

1884年11月25日、アメリカの少女アニタ・A・JE・トンプソンは煙台にやって来て、24歳上のアメリカ人宣教師チャールズ・ロジャース・ミルズ氏と結婚し、継室夫人になった。

愛の為に来たミルズ夫人は、「中国の聾児も教育を受ける」という才能ある使命を背負っています。

物事は最初から初めなければなりません。ミルズは1862年から登州に伝道し、学校を経営し、地元で高い評価を得ています。

彼は妻と生まれた子供の1人はゲイリーという息子で、3歳の時に病気で聴力を失った。彼の妻は1874年に病気で亡くなる前に、夫が中国の聴覚障害者の子供達の為の教育の機会を作り出すという遺言を残しました。ミルズが息子のゲイリーをアメリカのロチェスター学校に通わせた時、彼は学校の先生であるアニタさんと知り合った。アニタは、異母兄弟である聾の弟の為に聾教育に専念しています。二人は同じ考えを持っており、彼の愛は中国聾教育に夜明けをもたらしました。

登州に初めて到着すると、ミルズ夫人は聴覚障害者の為の学校を設立する準備として、中国語の勉強を急いでいました。

聴覚障害者の子供達を教育するアメリカ人のアプローチを使用して、僅か5週間で、彼女は少なくとも220の漢字から組成の190文句を学び、彼女の中国語の先生を驚かせた。その後、ミルズ夫人は、中国の聴覚障害者の子供達の為の最初の教科書「啓喑初阶」の作成に着手しました。

1886年、ミルズ夫婦の長男が生まれ、学校の準備が遅れました。

子供が1歳の時、彼は重度の下痢を発症し、片目は殆ど盲目で、ミルズ夫人の仕事は再び中断された。息子が回復した後、彼女は学校の準備を始めた。1887年、ミルズ夫人は、アメリカのチェスター聾学校「無声工作者」から50ドルを贈り、入学を開始し、その翌年、学館は登州啓喑学館と名づけされました。

学校の始めに、李三元と劉堂凱の2人学生しか入学しました。ミルズ夫人は、それぞれ「世界の幸運児」と「最初の人」と名付けました。

劉堂凱は急速に進歩し、700語を書くことを学び、1330以上の漢字を認識し,音節の方言の発音の違いを見分けることができます。

当時、中国北部の腸チフス病の流行は、重度の結果、完全な難聴または部分的な難聴につながる可能性があります。ミルズ氏の調査によると、中国には40万人以上の聾者がいるかもしれない。

当時、中国人は聴覚障害者が教育を受けできるとは思いませんでしたが、ミルズ夫婦の説得にもかかわらず、聾児童を学校に通う人は殆どいませんでした。ある時、お金を持つ中国人に聴覚障害者の子供達を学校に通わせるように説得する為に、学館は中国人教師李氏が劉堂凱を中国人金持ちの家に連れて行き、動員した。両親は、劉堂凱が漢字を書き、中国語を理解する能力に驚いたが、劉堂凱が彼らに話しかけ、蜃を通して彼らが言ったことを読むのを見た時、彼らは怒って2人を追い出し、劉堂凱が聴覚障害者の子供であるとは信じておらず、全てが外国人のトリックであると信じていました。

ミルズ夫婦の弛みないのプロパガンダの後、1890年10月までに6人の学生が啓喑学館に在学しました。

ミルズ夫人の学校運営の為の資金は、主にアメリカのロチェスター聾者「無声工作者」組織が年間50ドルから来て、学校の日々の支出を満たすには程遠いです。

生徒数の増加に伴い、ミルズ夫婦は40〜50人収容の校舎を建設する計画で、約5,000ドルの資金が必要です。彼らは再びアメリカの聾学校と聴覚障害者の教育に興味を持つ人々に、資金を求めて訴えました。

ミルズ夫人は、外国人の友人に手紙の中で、「中国の聾者の仕事は、聾者自身によって開始されるのを見たい」と書いています。

神は皆に話す権利を与え、全ての人に自分の仕事を与えるが、聴覚障害者だけが、聴覚障害者の子供達が普通の家庭でどのように孤独であるかを知っています!どのような無力!これは、米国のような土地にも当てはまります。従って、聴覚障害者は、まだ孤独で無力な中国の子供達を助ける為に手を差し伸べる必要があります。

1892年5月、ミルズ夫婦は3人の子供を連れて休暇でアメリカに戻った。当時、啓喑学館には11人の学生がいました。

休暇の2年間、カップルはアメリカを旅し、アメリカ人に中国について話し、中国の啓喑学館について話しました。ミルズ夫人は、より多くのアメリカの聴覚障害者に中国の啓喑学館に注意を喚起する為に、米国を出発して中国に戻る前に、啓喑学館の状況詳述した1万通の援助の手紙を書き。ミルズ夫婦のプロパガンダは、中国の帰国した後、海外から広範な経済援助を受けた後、良い結果を達成しました。アメリカの旅は、経済的、道徳的支援だけでなく、ミルズもアメリカの大きなピーナッツを登州に持ち帰りました。この事件は中国経済にとって大きな意義があり、中国国家全体の生活に永続的な影響を与えている。

学館の仕事が順調に進んでいるのは不幸な事があった。1895年6月21日、ミルズ氏は心不全で66歳で亡くなりました。

学館は非教会資金によって支えられているので、1896年1月31日、ミルズ夫人は、再開の機会を待つ為、学校を閉鎖を得ずいました。

いよいよチャンスがやってきました。1897年、アメリカのロチェスター聾学校の校長であるウェストウェルズ博士の支援を受けて、ミルズ夫人は学校を再開し、長期的な発展の為に煙台に移転しました。

1898年2月1日、ミルズ夫人は14年間住んだ登州を離れ、煙台に出発し、煙台通伸村旅館を校舎として一時的に借り、煙台啓喑学館と改名しました。

しかし、ミルズ夫人が一切を収拾して学校を始めようとした時、不幸が再び降臨した。ミルズの唯一の娘ルーシーが、猩紅熱で突然夭折(ようせつ)したのである。

この衝撃は甚だ沈重で、ミルズ夫人は深い悲しみの中でも、彼女は後退する様子はなかった。愛する娘を埋葬した僅か数日後、いつものように、彼女は学校の準備を始めた。3月、学館は遂に再開して、すぐに7人の学生を受け入れた。

1899年、新学年が到来し、、学館は大きな選択に直面した。学館が旅館を借りる期間は2年であり、期限切れはまもなくであったのだ。

ミルズ夫人は、学館の将来の発展について考え始めた。外国人の友人の助けを借り、学館はすぐに地元の銀行と契約を結び、まず銀行から土地を借り、学館に資金ができたら、土地を優先的に購入できるようにした。

事態は予想外にうまくいった。学館は景色の良い海浜に校地として土地を購入し、1899年11月末、学館は新校舎に移転した。

学館が中国の聾の子供を洋風化しするという噂を防ぐために、ミルズ夫人は中国式を取り入れた建築に決定した。これは学館が初めて準備した自己の恒久的な校舎である。

募金活動:ミルズ夫人は煙台啓喑学館の為に40年近いを奉献したが、彼女が心を最も砕いたのは仕事ではなく、学校の経済状況であった。学校を運営する為に必要な資金について、ミルズ夫人は、中外の友人から少しずつ募金することにほぼ完全に頼っていた。彼女の往来の手紙の中で、学校の窮状を何度も言及している⋯

⋯もはや一ヶ月ごとに固定の収入はなかった⋯私はこの種の変化に適応する為に自身を追い込めなければならなかった。⋯我々が借金に追い込まれるという不安で寝食もままならなかった。ただ座って物を書いてはいられなかったのである。⋯前途が見えない時に、常に何かが起こり勇気を新しく奮起させることを激励した。すなわち資金が次第に減少している時にも、この仕事を放棄したいとは全く考えていなかった。

⋯学校の資金不足で、我々はこの秋はもう学生を募集しないことにした。しかしながら先週、ある教師が私に言うには、我々が募集をかければ、入学したい子供が2人いるとのこと。

私はすぐにはどうすればいいか決めかねたが、最後にはやはり彼らに通知した。結局1人の子供だけが来た。その朝の光景は永遠に忘れられないだろう。その貧しい哀れな母親から子供を受け入れてくれるように懇願され、私はできるでしょうと答えた。でも内心ではこう思っていた。この子の食事が何処からくるのかは、神のみぞ知るだなと。

私はずっと疲れていて、神経がさらに衰弱することに怯えていた。⋯もしこの土地を買わなければ、このように金欠(キンケツ)になることもなかった。しかし学校を経営する為に、土地を買わざるを得ないのである。⋯次の返済期間は1902年1月1日である。

”1902年に始まった 我々の経済状況は非常に厳しい。この状況に直面して、一人が、倒れることを恐れないようにする極大の努力が必要である。クリスマスに集まる援助は僅かに学校維持の一か月分でしかない。現在我々には全く資金がないのである。

このことに注目し、より多くの寄付を募る為に、ミルズ夫人は切実さと感情を込めて、助けを求める手紙を書き続けました。

例えば、彼女は手紙に書いた:“…中国には聴覚障害者の子供が幾人もいて、彼らはとても貧しい子供達を無防備で低い生活から解放し、彼らがまた、本来持っているはずの輝きを放つ為に、寄付を呼びかけています。私達は、あなたが募金活動から楽しい時を過すことを願っています。…あなたが私達の行いに参加して、中国の聴覚障害者の子供達の為に一緒に働くことを願っています。

長期的な苦労と心配は、ミルズ夫人の体をますます悪化させて、彼女は神経衰弱を患った(わずらう)。しかし、休暇で帰国する日でさえ、彼女はまた一時も募金活動をやめなかった。

彼女は中国の生活を説明する100枚以上のスライドを持ち歩き、その力を借りて、外国人に中国への宣教に向かうことを望んだ。彼女の演説は続けられ、毎回必ず“煙台啓喑学館の為に。”という言葉で結んだ。米国休暇の最後の33日間(1906年初)で、彼女は29回の講演を行い、40通以上の手紙を書き、幾つかの会見を受け入れた。その間、幾つかの公共の福祉活動に参加し、その忙しさは見張るものがあった。彼女はまた、ルーズベルト大統領に紹介され、ルーズベルト大統領は彼女の中国での行いを高く評価した。

1923年、70歳近くになったミルズ夫人は名誉ある引退をした。美しいキャンパス、教務棟、二つの住まいと中国のほかの都市で次第に発展してきた聾教育、これら全てが、ミルズ夫人が人生の全てをかけて始めた事業である。煙台当局はミルズ夫人の中国での38年近くに及ぶ仕事に最高級の賛辞を送り、「中国聾教育の先駆者であり、自らの魂の全てをこの仕事に捧げた」と彼女を讃えた。

ミルズ夫人は自分がまだ十分にやりきっていないと思い、煙台の学校を中国人に引き渡さず自ら管理を続けた。

退職したと言っても、ミルズ夫人はまだ中国の聾の子供達や自らの38年に及ぶ聾教育を気にかけていた。1924年、ミルズ夫人は学校に戻り学生達と会った時、公開の手紙を書き、手紙の末尾(まつび)を、親しみを込めて次のように結んでいる。「私は中国の聾の人の為の仕事を遺産として皆さんに残します。皆さんが継続(けいぞく)していただけることを願っています!」

1929年4月19日、ミルズ夫人はアメリカで死去した。享年76歳だった。

編集:劉秋芳 孫桂華 趙冬梅