山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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芝罘特別任務班と吳佩孚

1904年日露戦争直前、日本軍参謀本部は中国国境内で多くの特別任務班を設立した。

こうした臨時に設立した情報機関は大量の諜報部員を派遣し、ロシア軍に対し偵察、破壊と襲撃撹乱を実施して、陸海作戦に支援を提供した。

その中で煙台の芝罘に開設した特別任務班は、袁世凱による密偵の中国側軍人が加わり、その中で後日北洋の名将となる吳佩孚(煙台蓬莱城里出身)がいる。早くも1902年始め、日本参謀次長田村怡与造少将が中国に来て遊歴し、一時保定市に至り直隷総督袁世凱を訪問して、中日の軍事情報領域強化の協力に応じて双方が共同でロシアに抵抗することを協議した。同年6月28日には日本の駐在煙台領事館の武官守田利遠大尉は保定市に赴き、北洋大臣の軍事顧問立花正一郎少佐と日本公使館武官梶川十一郎少佐と共同で袁世凱を訪問して、既に日中が達成した合意に基づき軍事秘密協議を確固として定めた。

軍事情報協力に関する協定は、東北・山東省の直隷総督署による情報偵察を守田大尉に委託(いたく)することを規定している。

これらの地域に派遣された中国情報要員は、煙台に駐留する守田が一元的に指揮し、双方が入手した情報は守田に集約され、総合的に分析され、情報共有され、参謀本部と直隷総督署に送付される。連絡の便宜上、袁世凱、立花少佐、守田大尉、日本大使館武官室と直接、臨時の暗号電報を送った。日本はまた、中国側が派遣した将校に対し、芝罘(煙台)、奉天(瀋陽)、ハルビン、琿春、青島など、それぞれ1人の中国中尉を駐留場所を決定する。この密約の実施は、日露戦争の終わりまで続いた。

直隷総督署から派遣された16人の軍人は、煙台領事館の武官守田大尉に報告した後、殆どの将校が東北三省(旧満州)に潜伏し、吳佩孚は煙台に駐留した。

軍事機密協力の為、双方の連絡は非公開で行い、長い間、エネルギッシュで機敏な吳佩孚は、守田の最も信頼できる清国情報将校となった。

日本の記録によると、奉天の戦いまで、東北地方と山東地方に16人の中国将校が配属され、日本の特別部隊の作戦を密かに支援していた。

うっかり身元を明かしてしまった場合は、ロシアに影響力を与えないように、離任した将校のふりをして中国政府とは関係ないことにしていた。1902年8月、吳佩孚は保定陸軍測絵学堂に入学、翌年優等で卒業し、北洋督練公所参謀処に配属され、年末に芝罘特別任務班に派遣された。

日露戦争中、守田が率いる芝罘班は、情報偵察任務に加えて、日本の第二軍が遼東戦場で民間船を募集するのを助けた,ロシア軍の後方補給ラインなどを破壊し、遮断する。1904年6月初旬、彼らは岩礁に衝突して立ち往生した水雷駆逐艦を捕獲した。参謀本部の命令により、1905年5月、戦闘地域に連絡する地方団練人員は、80人以上のゲリラ部隊を組織し、忠義軍と名付けた。日本第2軍が上陸した後、この忠義軍は第3師団に所属し、鉄道と橋を爆破し、電線を切断し、ロシア軍の前線偵察に入り込み,日本軍が前進した後、治安維持に従事し、両軍が遭遇した場合でも、日本軍の戦闘を支援した。後、参謀本部が満州義軍を組織し、忠義軍は同年8月に解散した。守田の芝罘班は、同時に設立された北京特別任務班、参謀本部特派諜報班と比較して、その記録は並外れた(なみはずれる)ものであり、戦後の守田は少佐に昇進した。

日露戦争に先立ち、芝罘特別任務班は、既に遼東半島の偵察任務を開始した。

1904年1月21日、守田大尉は、参謀本部の福島安正少将から、「山東省の有識者や遼東半島の馬賊グループと連絡を取り合い、中国苦力をロシア軍による使用を阻止する為にあらゆる努力をする」と命令を受けた。2月5日、児玉参謀総長から「満州全域のロシア軍の武器庫と食料庫を燃やす為に、馬賊グループを最善尽くす」と指示された。“守田は以前、金州に駐留する王日成、汝南沁、営口に駐留する程克昌らを召還し、爆破装置を準備し、試験し、準備を整えた。しかし、2月6日、児玉参謀総長は再び訓令を下し、ロシア軍を妨害や襲撃する為に馬賊グループを使って守田に指示した。守田は展開を変更し、部下会議を招集し、吳佩孚と日本籍中国人高山に依頼した。翌日、吳佩孚は、渤海湾で活動する海賊のリーダー王凤山を特定し、守田の芝罘班は、彼の合意に重い報酬を与え;ロシア軍が捕獲し、処刑した場合、30000圓の弔意金を遺族に支給した;だから、まず、王凤山に300圓の銀洋を支払い、行動の必要性を調達する。2月9日、児玉は襲撃計画を中断する命令を下した。この時、日本軍は戦前の準備に焦点を当て、ロシア軍が使用する幾つかの通信ケーブルを遮断した。煙台領事館海軍武官の森義太郎中佐は、佐世保から派遣された2人の海軍技術者を指揮し、煙台と旅順の間の海底ケーブルを切断した。

煙台と旅順と海を隔てて、戦争が勃発した後、ロシア海軍は厳重に警備され、陸路と海路もアクセスが困難でした。守田は旅順方向の偵察に力を入れている。

これに対して、吳佩孚は、秘密捜査官を「清国水師の提督薩鎮氷が率いる北洋艦隊に密かに乗船し、渤海湾沿岸を航行し、大規模な敵情偵察を行う」ことを提案した。袁世凱は局外中立を理由に守田の申し出を断った。吳佩孚はまた、スピードボードで旅順港を急ぐと、ロシア軍艦がゆっくり追いかけにくく、すぐに中国島に転進され、煙台に戻ると提案しました。ロシア軍は1日で数回驚き、情報をも得る。守田はこの策略をし、何度も試みた。

日本第2軍は5月初旬に遼東貔子窩に上陸した後、守田は中日混合諜報隊を編成し、合計48人、16人の清国将校が参加し、5月に遼東に潜入した。复州(瓦房店)、普兰店錦州一線では、ロシア軍の前線で軍事状況を偵察し、その間に50隻の民間船を収用し、第2軍との戦闘に引き渡した。吳佩孚は優れたパフォーマンスを持ち、しばしばベンダー、ラヤン映画、そのほかの人員として行動し、ロシア軍の配備と移動を監視、収集し,彼の冷静で思慮深い諜報(スパイ)の才能を示しています。この役の中で最も賞賛されたのは、諜報隊が漁村を集合地として発見した,地元の村人達の助けによって、機動性、巧みな運用して、ロシア軍によって発見されないか確認する為に、そして彼らの行動を確実にした。6月24日、守田は大本営訓令の電報を受け、翌日煙台に安全に戻り、誰も脱線しない。これは、北京特別任務班である横川分隊が黒龍江省で任務を遂行した結果、崩壊したのとは対照的です。

煙台に戻った後、守田班は、山東半島と遼東半島の間を密かに航行する民間船(ロシア軍側)の迎撃に焦点を合わせました。

ロシア人は一般的に清国の民船を雇って資材などを輸送する為に多額のお金を払っており,守田班はそれらを捕獲する為に強硬な取り締まりや金銭で買収するなどの様々な措置を講じました。例えば、10月には船主の刁佩斌が率先して降伏し、ロシアからの委託品を引渡しました。その中から、ロシア皇帝が旅順要塞の司令官に出した詔勅が押収され、山県有朋元帥が個人的に表彰を行うほどでした。満州軍司令官である大山巌も、守田班に褒賞を授与しました。煙台に駐屯している間、守田班はロシア軍の後方から情報を得る為の独特な方法を持っていました。彼らは、中国東北三省(旧満州)から煙台港を通過する旅客を利用して貴重な情報を入手しました。この工作は岡野増次郎と吳佩孚が任されました。

遼陽会戦前、吳佩孚は10人の諜報隊員を率い、錦州を中心に活動しました。その秋、吳佩孚は新民屯に向かう途中、ロシア軍に逮捕され、地図や公文書を携行し、奉天刑務所に拘禁された。

ロシアは、日本のスパイとして彼を認め,清国政府を脅迫(きょうはく)しようとした。吳佩孚は自白を拒み、死刑を宣告された。ハルビン行きの列車の中で、鉄嶺の近くでジャンプします。帰隊後、東北三省(旧満州)で諜報活動を続ける。

吳佩孚はクロパトキンの本部に潜入し、本部の使用人を担当してことがあって、沙河会戦のロシア軍は南下する報告し,1904年9月から10月にかけて起こったこと。

戦後、天皇陛下は参謀本部総長の大山巌侯爵を通して、吳佩孚に一枚の「六等单光旭日勛章」を授与して、それに情報戦の功績を表彰しました。

日露戦争における情報戦争の経験は、吳佩孚のその後の軍事活動に大きな影響を与えた。

この17ヶ月の海陸の大戦は、空前の規模であった。多くの新しい発明され、装備された武器や技術は、初めて実戦で使用された。「中立国」の下級将校として、過去の戦いの全貌を垣間見るのは難しく、従事しながらの情報偵察も補助作戦であったが、吳佩孚は戦地の最前線に深く入り込む機会を利用して、日露の交戦の特徴を間近で観察し、有益な啓発を得た。吳佩孚と並んで戦った岡のを増次郎は、後に書かれた「吳佩孚」の伝記で「日露戦争の時、旅順包囲戦、南山得利寺などより開戦の時、彼は常に日本軍の作戦方略を気に留め、戦争の経緯を詳しくノットに書き、その後、学堂で学んだ戦術を参考にして学んだ」と回想している。吳佩孚が学んだ軍事知識は戦場で証明され、疑いもなく彼の軍事の視野を広げた。

吳佩孚は,芝罘の特別任務班に派遣された後、良好な軍人素養と出色の情報量に本領を現した。日本人は彼を「穏やかですなお、挙動をなおざりにせず、人と交わるに、円滑にして角を出さず、仕事の処理は功に焦らず虚名を追わず、自信を持って是をするを恥として、中国人が一般にすぐ『「沒法子(子=できない』というところを、彼は慌てず『有法子(=できるよ)』と答えた」と称えている。日本の同僚は彼を「慌てない有法子さん」と読んだ。岡野増次郎は、吳佩孚との初対面を、彼は店の丁稚のような灰色の木綿を着ていたと回想する。当時、煙台山近くの簡素な旅館に泊まっていて、守田の住宅は西沙旺から遠く、十余里(4キロ)もあったが、吳佩孚はいつも徒歩で通った。岡野は、また、吳佩孚が住んでいた旅館で、「ぼろぼろの小さな部屋は、夜一人が横たわるだけの広さで、電灯もなかったが、一向に気にかける様子がない」のを親しく見ている。吳佩孚の勤勉さと責任の強さは、日本人に、特に守田に深い感銘を与えた。

前世紀初頭の「庚子国変」では、開平武備学堂で研究した吳佩孚は、天津の北塘に駐留する部隊に戻り、8カ国連合軍と戦った経験がある。

その後、部隊は撤廃したが、吳佩孚は一度も身を寄せるところがなかった。光緒28年8月になり、北洋大臣直隷総督袁世凱の門下に頼って、武備師範学校に入った。彼の実戦経験は、日露戦争とは比較にならないが、幸い二度軍事学校に入り、歩兵操典,戦術戦法、野戦勤務など、多方面の軍事知識と技能を学んだ。今回の東北(満州)偵察の派遣は、全くその一生の軍旅事業の基礎を築く得難い機会であった。

日露の陸上作戦に関しては、日本軍は、「以寡擊众、以弱勝強」、その陸軍の戦術の柔軟な使用と積極的な攻撃と大いに関係している。

例えば、ロシア軍は「防衛としての攻撃」、抵抗に先んじて反撃し、疲れ果てた日本軍(遠方からやってきて)と戦い、その後、敵ギャップを探して突破;日本軍は予備隊を置き去りにし、全部隊を戦場に投入し、正面攻撃を行い、ロシア軍の両翼攻撃を迂回する意図がある。日本軍は「少数部隊で多数部隊を包囲する」が、戦略的に危険であるにもかかわらず、正確な情報に基づいている。ロシア軍が間違った判断と対応をするちと、日本軍はロシア軍の弱い翼を激しく攻撃し、全局を掌握します。日露戦争では、日本軍が実施した迂回、通り抜け、分割、襲撃などの戦法は、近代戦争の経典的なケースです。また、日本軍は、奇襲、夜間攻撃、近接戦闘を得意とし、情報戦に重きを置き、中国軍に重要な啓発を与えた。

吳佩孚は、その後、一人前の将軍となり、直皖戦争、湘鄂戦争、第一次直奉戦争を指揮して、迂回、通り抜け、奇襲の戦術を巧妙に用いて、不意を突いた、機敏で変化に富んだ富んだ戦争指揮の才能を現した。直皖戦争に於いては、吳佩孚は自ら主力攻撃を率い、敵の大本営の不意を突いて直撃し、その「心をゆすぶる戦い」は、直ぐに相手の防衛線を崩壊させた。吳佩孚は「常勝将軍」の名を獲得し、その経典的な戦いは、多くは堪能な「進攻作戦」に由来して,そして、第2次直奉戦争や北伐戦争の失敗などは、多くは相手が主導権を握り、自陣と堅城の守備が不利な時連鎖的に失敗に終わった。戦争の勝敗を決める要因は複数あるが、吳佩孚のよく攻めよく守れないことともまた関係がある。

注意すべきは、中国国内での日露戦争は、満清政権を屈辱と困惑させる不義の戦争である。

中国東北三省(満州)は戦争に巻き込まれ、生命と財産の損失は膨大であり、無力な中国人は国を恥じ、将校である吳佩孚は、この奉仕に参加したにもかかわらず、この経験に深い悲しみと誇りを抱いていない。けれど、彼の軍事生涯にっとって大きな影響を受けた。

芝罘歴史研究会 出品