山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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モーリソン(Morrison )伝

馬理生(Morrison )は煙台開港史上最重要な人であることは言うまでもない

英国人は、煙台山に新しく建設した道路にMorrison 路と命名した(中国語では嘗て“履信路“,現在は”歴新路“という)。この道路の英文標識は、現在煙台市博物館に収蔵されている。

1858年6月、イギリスとフランスは清国政府との「天津条約」で、登州など10カ所を貿易港とすることを明確に規定した。

1861年初頭、駐清国公使馬理生(Martin C.Morrison)は、領事館と開港の準備の為に登州を訪れ、まず山東省の内陸部を視察すると、川が狭く水も浅いので、大きな船が通行できないと認識して、遂に登州沿海を開港地として選んだ。3月5日、馬理生は済南を行抵して、7日、山東巡撫文煜と相見し、その後登州に到着し煙台山下の太平湾まで徒歩で調査した。1861年5月になって、清国政府は煙台を貿易港に改定した。これより、煙台(Chefoo )は150年の壮大な歴史が始まった。

中国近代史にMorrison という名の有名人が多いです。最も有名なのはロバート・モリソン(1782ー1834年)で、彼自身は中国名馬礼遜に翻訳した。モリソンは1807年に中国に来てから広州で死ぬまで、中国の25年間に、多方面で創造者としての功績があった。

中国でのキリスト教の新教伝道の開山祖であり、また、中国ロンドン教会の創設者でもあり、また、聖書の最初の翻訳者でもあり、中国最初の漢英字典《華英字典》や中国語月刊誌《察世俗毎月統紀伝》を出版し、中国の古典《三字経》《大学》等を英訳したなどなどである。ロバート・モーリソンの息子はジョン・ロバート・モーリソン(1814ー1843年)、即ち馬儒翰と呼ばれていた。

中国・澳門で生まれ、モーリソンの元妻マリーの第2子(長男夭折)で、中国語に堪能で、16歳(1830年)の広州で英国の実業家の翻訳を務め、1833年に「中国ビジネスガイド」を出版した。1839年、林則徐は広州でアヘンを押収し、中英交渉は頻繁にに発展し、英国の文書の殆どは馬儒翰によって翻訳され、その後南京条約が締結されるまでアヘン戦争に参加した。1843年、香港立法院議員兼香港政府の秘書を務めた馬儒翰は、マラリアで香港で死亡した。

馬理生(マーシャン・C・モーリソン)(1826ー1870年)、馬礼遜の次男、馬儒翰の異母兄。関係資料によると、馬礼遜の元妻は1821年6月に亡くなり、1824年11月にイギリスのエリザベス・アームストロングと結婚し、1826年に家族をあげて中国に戻り、その後4人の子供をもうけたが、馬理生は澳門で生まれ、1833年末まで澳門で生活して母親についてイギリスに帰国した可能性が高い。

馬理生は20歳の時に福州領事館の通訳としてイギリス政府から任命され、1855年、中国駐在の商務監督官兼通訳に任ぜられた。

翌年、広州の英国副領事に異動し、1858年に厦門領事、同年12月に福州領事に異動した。

馬理生は、著名というべき地理史書「外国史略」の著者であり、魏源の有名な「海国図誌」は「外国史略」から60ヶ所も引用している。一部の人々は、馬理生の中国語能力に疑問を呈し、彼の中国語レベルで「外国史略」を書くのは不可能だと考えているが、実際には道理の無いことである。「西方漢学経典訳叢 中国ユダヤ人」では、彼が1850年10月、厦門の紳商達によって、外国人が労働者を売買したとして非難するチラシが作られたが、その英語翻訳者もまた馬理生であった。1857年にロンドンで出版された「Robert Fortune:A Residence Among the Chinese 」は、「広州の英国副領事馬理生氏は、中国語の程度が非常に高い」と明記している。馬理生は煙台で10年近く領事を務め、1869年11月に退任し,1870年にイギリスで死亡した。

編集:芝罘歴史文化研究会