山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ファーガソン伝

同治元年(1862年)四月二十九日、清国総理衙門(清国の外交機関)は山東巡撫譚廷襄の「フランス領事トーマス・ティアーニー・ファーガソン)は煙台登莱青道の崇芳に通知,フランス水師提督普尔敦が既に崆峒島に倉庫を建て、『石炭上水一切の器具を保管』したが、いまだ清国当局との事前の明約の無いことを認め、ランス人は『崆峒島を永久租借したく』住民の土地を公定価格で支払うことを望んでいて、約款を待ってすぐに支払うことができる云々と、崇芳に公文書を地元官員に発行してこのことを高知させた」との報告を受け付けた。

崇芳はその島が煙台港に僅か十余里(中国製)しか離れておらず、拒否することは不都合で、その島が寧海州に属するのも顧みられず、また開港の約定にない情況であったが、フランス領事の無礼な要求に同意したことを認めている。

トーマス・ティアーニー・ファーガソン(1818-1890年)は、天主教(カトリック)によって設立されたローマ教の大学を卒業し、1884年に牧師に任命され、イングランドの西教区でしばらく奉仕した。まもなく、親戚のエリザベス・ボウデンがロンドンのフラムに教会を建て、1848年、彼は教会の神父に任命され、宗教書「創世以来信仰簡史」を執筆(しっぴつ)した。1854年、妻のアンナと内縁となり、免職され、1856年にイギリスを離れた。1861年、彼は煙台にやって来て、滋大洋行(ファーガソン会社)を開いた。1862年、彼はカトリック教の牧師を煙台に派遣し業務に当たらせ、また煙台の天主教堂の建設に出資した。

彼は、清朝官商の奥義三昧を深く得ていた。イギリス人として多くの国の領事を務めた。煙台がやっと開港したのは、即ちフランス領事の仕事であった。1874年8月、欧州へ戻りベルギー領事の職に就き、パートナーゴランゲをベルギーの煙台副領事に任命した。1881年ロシア副領事に任ぜられ、1885年フランスとスペイン副領事を兼任。

滋大洋行は名目上は貿易業を営み、1860年代の大豆密輸など、不法な営業にも従事して、いわゆる勝負とも言える。

ファーガソンの商業的な状況はあまり残されていないが、いくつか見るべきものがある。例えば、ファーガソン会社(滋大洋行)は1867年9月、賃借した「芬賽尔」汽船を英国カーディフ港から煙台への試験航海に成功したが、これが英国から煙台に直行した最初の船となった。1868年、ファーガソンは煙台~・維坊の鉄道建設を英国公使に提案したが、実現しなかった。1870年、ファーガソンは煙台山西側の太平湾の北に「ファーガソン桟橋」を設立した。

注:当年八月十三日,清国総理衙門は三口通商大臣と山東巡撫に文書を送り:フランス人が対外開放の街に土地を租借するのは、条文があるので、阻止するのは簡単ではなかったが、崆峒島は税関港(対外開放地)ではなかったので、賃貸(チンタイ)にはよろしからず、そして島々を外国人に貸し与えることは「将来要害の地を永占されるという恐れがあり、阻止しないというわけにはならなかった」。調査の結果、早くは咸豊十一年(1861年)、英国水師(海軍)総兵の伯爵は当該島に「一時滞在)しており、そして5月9日、英国領事馬理生(モリソン)は登莱青道(政府機関)へ通知している、山東巡撫に報告されただけで、清国外交部には報告されていなかった。寧海州知事王贊思が命じられて、清泉寨海口から自ら島々に登って調査した、フランス軍が崆峒島南部の小山“望魚台南麓約十畝に、50以上の部屋のある木造建築物を発見,またイギリス軍が崆峒島西10余里の“担子島”に建物を建て、中国の官民が近づくことを許さないことを発見している。

清国総理各国事務衙門はやっと、フランス公使の哥士耆(Michel Alexandre Kleczkowski)が「山東登州の芝罘島は既にイギリス人により建物や砲台が建築されており、その入り口を占拠している」ので、フランスも付近の別の島を占拠する必要があると清国総理各国事務衙門に話したことが、以前の煙台フランス領事館領事ファーガソンの通知書に「中国がイギリスに一島を与えている」云々とあったこと示しているのを知ったのであった。そして清国総理衙門の事後一年以上たってやっとこのことを確認したという、効率性の低さは言うまでもない。

このような事態になったが、清国総理衙門は、阻止する方法もなく、ただ崇芳の事務処理に間違いがあったと吹聴して、勤務怠慢を奏上するほかに、イギリスとフランスを憚り、あえて交渉することもなかった。このようにそそくさと収拾(しゅうしゅ)する方法はまさに典型的な清国外交であると言えるだろう。