山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海衛ランドの前世

と力を合わせ日清戦争で清国が敗戦した後、李鴻章(1823-1901年)が特使として派遣され、日本との「中日講和条約」(馬関条約)を締結した。

その後、ロシアはドイツとフランスを連合して、日本に対し、遼東半島の占領を断念するよう要請した。これは、近代史における有名な「三国干渉」事件である。光緒22年(1896年)、清国はロシアと「中露密約」を締結した。光緒24年(1898年)3月、清朝はロシアとの「旅大租借条約」を締結し、旅順と大連の二つの港をロシアに貸付(かしつけ)、イギリスはロシア勢力の拡大を阻止する為に、清朝に威海衛の租借を要求した。清国の公文書に依れば、イギリスの威海衛租借は分析と計画、及びに列強との協商交渉を経て、清国との威海衛租借交渉が進められ、威海衛をイギリスの勢力範囲に加える為に、清国へ「威海衛租借専条(特例)」の署名を強引(ごういん)に迫った。

清国は日清戦争で敗北し、当時の最強の北洋艦隊が大打撃を受け、、ほぼ全軍が殲滅した。日本軍はこの状況を利用して威海衛を占領、清国は中日講和条約の調印に追われました。この協定に署名した後、ロシアは直ちにドイツ及びフランスと力を合わせ、日本に遼東半島への帰還を強制した。また、ロシアは日本に対するの賠償金として清国に借金をした。ロシアはこのことで清国に対して大いに感激して、「ロシアと連携して日本を抑制する」という考えを持ったので、李鴻章はロシアに赴き《中露密約》を調印した。両国は連合して日本の勢力拡大を排斥を声明して、ロシアは中国東北地方(満州)を通過して海参崴(ウラジオストック)へ至る鉄道を建設することができた。

《中露密約》調印で、西洋列強が中国から土地を分割しようとする波が押し寄せ、彼らはそれぞれに、鉄道の建設権を主張し、影響力の範囲を分割する為に、清国に港の租借を申し出た。始めに、ドイツが膠州湾の租借を要求し、清国との《膠澳租借条約》

に調印した。その後、ロシアは旅順、大連両港の租借を要求し、清国《旅大租借条約》に調印し、東北地方(満州)がロシアの勢力範囲に陥った。ロシアのこの動きはイギリスに緊張を引き起こした、実際、ロシアが清朝に旅順と大連の租借を申し出た時、イギリス政府は反対を表明した、当時、イギリス政府もこの問題について協議していて、議論は、ロシアが大連、旅順を租借した場合、ロシアに対抗する為に、イギリスが威海衛を租借する許可を迅速に要求すべきであると結論づけた。イギリス国駐北京公使竇納樂(Claude Macdonald)は、清国とロシアとの間の条約について英国政府に報告し、イギリスはその後、ロシアと絶えず疎通(そつう)をはかり,そして、ロシアが旅順、大連を占有しない場合、イギリスはまた、直隷湾内のどの港も占有しないと公言したが、しかし双方は意見が分かれ、合意に達する方法がなかった。最後に、イギリスは、中国北部海域の支配権がロシアの手に落ちるのを避ける為に、威海衛の占領を決定した。

当時、清国税関総税長官赫德(Robert Hart)は、この件について、清国がロシアの圧力に抵抗する為に、英国は威海衛租借を許可する必要があると考えていると発表した。

当時、ロンドンにあった「倫敦中国協会」も、イギリスが渤海湾での権利を守り、北京でイギリスの威信を回復する為に、イギリス政府に威海衛を占領するよう強く促した。香港歴史博物館がかつて出版した《甲午(日清)戦後:租借新界及威海衛》展覧図録で、ロシアが清国から旅順、大連を租借する以前に、ロシアと清国とで租借条約を締結しようとしていることを知っていて、イギリスは、この動きは渤海湾の均衡を損ねる(そこねる)と認識し,武力阻止をも惜しまないと考えたが、その後、閣議討論で威海衛を租借して対抗することに決定した。

以上のことなら、イギリスの威海衛租借の、主な動機と目的は、ロシアの旅順、大連両港租借を強いたことに対抗し、中国北部でのロシア勢力の拡大を阻止し、イギリスの中国での権利を拡大する為に、威海衛租借を決定したロシアとの均衡を保つ所以(ゆえん)であったことが分かるのである。

イギリスが威海衛を租借することを決定してから、清朝に交渉を申し出る前に、イギリスはまず日本政府に会い、日本にイギリスの威海衛租借を支持することを知らせてるという手順が計画された。

日清戦争の時、日本軍は威海衛海域で清国北洋艦隊を滅ぼして、その後威海衛、劉公島地区を占領した。日清戦争後、日本は清国が戦債(せんさい)賠償を、予定通り支払うよう、威海衛を占領していたのである。そこでイギリスは日本の疑念や誤解を避ける為に、駐日英国大使の薩道義(E.Satow)を通じて、英国の威海衛租借に関する態度と意見について日本政府に問い合わせている。日本政府は、清朝が威海衛を維持することは望んだが、日本は中国の独立の助けとなる国家の占有することに反対しなかった。従って、日本は原則的には、英国威海衛租借を反対しないが、清朝が補償金を支払うまで待ってから,日本軍は威海衛から撤退し、英国は再び清朝と威海衛の引き継ぎを行うのが適切だと考えた。

日本はロシアとの均衡を保つ為の地理戦略や考慮で,中国北東部(満州)でのロシアの勢力範囲を奪おうとしていて、イギリスが抗ロシアの旗印を挙げて威海衛を租借した時、日本はイギリスととても早く、日本が清国の賠償を得た時、日本軍が威海衛を撤退することの諒解を達成した。日本は清国の賠償を得た後、威海衛に駐留した軍隊を撤退し、清国は接収した威海衛、劉公島地区に官員を派遣して接収工作に当たらせた。

日本の同意を得てから、イギリスはドイツの支持を求めることに転じており、当時、既に、ドイツは膠州湾を占領していたて、そして、山東省をその影響力圏とみなしていたので、英国が威海衛を租借する為には、ドイツとの協議が必要であった。

イギリスでは、山東省におけるドイツの権利の争奪(そうだつ)や侵害を意図しておらず,そして,イギリスは、威海衛を租借した後、当地または近くの租借地からその他の場所に鉄道を連結しないことを書面で宣言し、ドイツもまたイギリスが清国から威海衛を租借することを認めた。

イギリスは日本とドイツの後押し(あとおし)があり、すぐさま北京に駐在するイギリス公使竇納楽(Claude MacDonald)は光緒二十四年四月十七日に清国総理各国事務衙門に電令を送った。その内容はイギリス政府が当国の船舶を停泊させる港として、威海衛の租借を正式布告するもので、その事由は清国がロシアの旅順、大連を租借することに同意したことをイギリスが認識した上で、ロシアが清国北部を掌握することを避けるために威海衛租借をしなければならなかったからである。竇納楽はロシアが清国で通商することにはイギリスは反対しないが、ロシアが旅順を租借して、軍艦を停泊させ、通商には使うことがなかった。ロシアが旅順を租借しなかったら、イギリスは清国北部の海域のどこにも港を租借しなかったが、しかしロシアはロシアが旅順を租借すると主張したので、イギリスは威海衛を租借せざるを得なかった。イギリスはこうすることで、“清国の広大な境域内を,何にもよらない自主の名で、長く堅実に保つ”ことを希望した。

竇納楽からの通牒で知ることのできる。イギリスが威海衛を租借する必要とは「清国北部の海域におけるロシアの勢力拡大は、清国におけるイギリスの利益と地位に影響を及ぼすので、従って、イギリス軍艦の停泊港として、また ロシアを牽制する軍隊を駐留する為に威海衛租借が必要であること。竇納楽は威海衛を租借する主な目的は清国を手助けして“何にもよらない自主の名で、長く堅実に保つ”こととしていて、それは非現実的な弁解である。竇納樂は清国が租借に同意しない場合には,イギリスは武力を惜しまず、即座に戦艦を威海衛付近海面に派遣するとまで行っている。

光緒二十四年五月十日、総理各国事務衙門はロシアは旅順・大連港を租借し、イギリスは「東方通商」を理由に山東威海衛租借をする予定で、清国北部海域でのロシアの発展を抑制できると朝廷に報告した。総理各国事務衙門はまた、イギリスをロシア勢力の拡大に抵抗する為に利用できるかもしれないとの見解であったので、竇納楽(クロードマクドナルド)と威海衛の租借について交渉し、電報で駐英国大臣羅豊禄とイギリス外交部との協議させて、最終的に合意させた。双方の議定した威海衛の租借期間は《中露旅大租約》とほぼ同じで、総理各国事務衙門はこの条約は清国の主権に大きな損害を与えるものではないと認識している、そして、清国は海軍整備の為、イギリスとドイツに戦艦を発注し、威海衛に停泊させ、英国海軍軍官に訓練を申請することができるようにした。総理各国事務衙門は、彼らとイギリス政府の人員とが、長きにわたり交渉し、租借条約の妥協に至ったと奏上して、特別の租借条約と境界原図を皇帝の御覧と批正の為に献上した。

光緒皇帝が総理各国事務衙門の奏折(公務書)を承認した後、光緒二十四年五月十三日(1898年7月1日)、清国は慶親王変劻、総理各国事務衙門大臣廖寿恒を派遣して、竇納楽と北京にて中英の「威海衛租借専条」を署名した。

この条約の下では、清朝は威海衛とその周辺の海を25年間英国に租借せざるを得なかった。

英国は、劉公島と威海湾内諸島、威海衛湾沿岸から10マイル以内の土地を借りる。更に、東経121度40分の東海岸とその周辺の沿岸地域では、英国は砲台を建設し、軍隊を駐留させなければならない。署名後、北京で英国を代表して交渉して竇納樂公使は、清朝が中国水師(海軍)の再編を支援し、英国海軍の将校をインスタントラクターとして派遣し、威海衛で清国水師(海軍)の船員を訓練した、と総理各国事務衙門に語った。英国政府は、国益を損わねない場合、英国は威海衛港の中国の船員を訓練し、訓練業務をコーディネートする為に将校を派遣し、中国艦隊は威海衛港に停泊することを喜んで支援する、とイギリス政府に報告した。

租借に関する専条(特例条約)が締結された後、竇納楽は総理各国事務衙門に、威海衛の英国租借に関する通知を威海衛に掲示し、威海衛沿岸の10マイル以内と湾内群島は英国の管轄にあり,清国当局は威海衛城内に管轄を持つ、城内の様々な部門で管理を受け続ける可能性がある,けれども、租借地域の防衛に支障をさげない。英国政府は砲台、駐兵営、病院を建設することができる、と地元住民に知らせておく。この通知は、租借に関する特例は、お互いに利益を保護し、調和を図る為に、両国の国家条約によって合意される、と結論付けに終わった。地元の軍隊、住民などは、この問題を一体に認識する必要があります。英国側は、「中国の全ての規則(習慣)は干渉せず、産業を役人に移転させる圧力を断ち切ることも、理由もなく事件を繁殖させるか、または騒動を起こさなら、法律に従って管理すべきである」と保証した。英国は、租借地内の清国内政を干渉しない、地元の人々の産業を妨害しないという通知は、善意の表現であるように思われるが。実際には、この通知は、最も重要なのは、威海衛は既に英国の管理下に入り、清国も他の国も、威海衛ランドの利益に干渉したリ、侵害したりしてはならないと宣言した。

イギリスは威海衛租借の交渉過程で、実際には、大きな問題に遭遇することもなく,清朝はと西ヨーロッパ列強による、租借の進行に反対や妨害もなく、イギリスの威海衛租借は順調に進んだと言える。イギリスの威海衛租借は、清国北部と清国北部の海域の安定を維持し、ロシア軍の勢力拡大を抑制する為のものであった。このように表面的な理由は、最もなものであったが、清国もまた、ロシアからの圧力に対する英国の抑制を利用したかったので、威海衛をイギリスに貸し付けたのであった。実際、当時清朝の国力は弱く、不振(ふしん)で、西ヨーロッパ列強が中国で利権を争うのに逆らう(さからう)力はなかった。日清戦争で利権を失ってから、清朝は日本に対して他国を結集したく、「三国干渉」で遼東半島を返還された後、李鴻章をロシアに派遣して、双方は「中露密約」に署名した、清国はロシアと連合して外国の侵略を食い止めようと、あれこれ接触を謀ったがロシアに放棄されたので,清朝はまたドイツとイギリスに頭を下げ、「膠澳租借条約」に署名し、中英の「威海衛租借専条(特例)」に署名した。この歴史的な事実は、清国が「異国を持って異国を制する」という政策を効果的だと誤算したという証明である。李鴻章のような親露政策や、徐景澄の親独主張は、清国領土が占領され、権利が失われたという事実は避けられないが、当時の列強の間では、弱い清朝の利権を守り戦端を開く上で、「異国を持って異国を制する」方法の失敗が、相変わらず異国の制しているということを証明しているのである。

中英の「威海衛租借専条」締結後、イギリスは威海衛と劉公島を占領した後、多くの紛争や混乱が発生したが、イギリスにとってそれは些細なことで,租借地域の占有の事実に影響を与えず、清朝もまた事件の為にイギリスとの紛争を繰り返すのを嫌がった。いずれにしろ清朝は中露密約締結後、西欧列強は入れ乱れて惟を模倣して、ドイツが膠州湾,ロシアが旅順、大連,英国が威海衛,フランスが広州湾を租借して,清国を捥ぎ取る(もぎとる)波が押し寄せ、その利権は深刻な損失を被り、清王朝の危機が目前に陥っていた。