山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ウィリアムソン伝

     一、アレキサンダーウィリアムソン1855年9月24日、アレキサンダーウィリアムソン(Alexander Williamson)は夫人イザベル(伊莎貝尔)を伴って山東省煙台に到着、二人は最も早く煙台に到着したキリスト教の宣教師であった。

当初、ウィリアムソン夫妻は煙台を拠点に、伝道活動、学校運営、医療活動に従事した。ウィリアムソン夫妻は煙台西方の通伸村に13畝の土地を購入し、イギリス式の教会と住居を建て,荒地を開き道路を引いたほかに、更に煙台市と通伸村に各一ヶ所病院を建設し、学校を開いて、煙台の現代医療と文化事業の発端となった。

ウィリアムソンは常づね(つねづね)馬に乗って煙台付近の市街や農村に伝道に出かけて、口を覆う顎髭(あごひげ)を蓄えていたので、人々は彼のことを「髭のウィリアムソン先生」と読んだ。彼は初めずっと煙台で伝道に当たったので、人々は彼が来ると「煙台ウィリアムソン」と読んだ。

それ以来、ウィリアムソンの活動は上海に広がり、その内容は伝道から文化活動へと移った。これらの活動には、主に翻訳、出版、学校運営が含まれる。

翻訳の面では、ウィリアムソンは、中国の著名な学者、李善蘭と共同で、近代中国で最古のの植物学翻訳「植物学基礎」を翻訳し、西洋植物学の知識を比較的システム的に紹介し、中国近代植物学の形成と発展に一定の影響を与えた。

著書に関しては、彼の著した「格物探原」は最も大きな影響を与えた。「格物探原」で紹介された新しい概念は、当時の中国人が世界を客観的に理解し、世界を変えるのに役立った。

学会方面の運営でウィリアムソンは前後して“益智書会”と“広学会”を設立した。

益智書会(後に「中華教育協会」に改組)と「広学会」は、宗教、政治、科学に関する書籍を多数編集・出版した。キリスト教を普及しながら、西洋近代の自由と民主の観念を極力広めた。のちの戊戌維新と清末新政は広学会の啓蒙の直接的な結果と言えよう。

アレキサンダーウィリアムソン夫人イザベル・ウィリアムソンは煙台で主に慈善活動に従事した。彼女は貧窮な女子学校を設立し、30人以上の女学生を招いて、教会から住食を提供した。

イザベルはこの女子らを我が子のように愛した。

煙台長老派教会の信者劉滋堂は、1937年の「ウィリアムソン博士の記憶」で次のように書いている。「ウィリアムソン夫人は慈善活動を行い、貧しい人々に会うごとに、必ず施しをし、孤児や未亡人は、里親(さとおや)として受け入れたので、従って、学生や教友は彼女を慈母として奉仕した」と。

社会的慈善活動に従事したほかに、ウィリアムソン夫人は「中国古老大道」を現し(著作)、1880年代に山東省の煙台と山東半島を旅行した夫婦の旅行について紹介している。著作は西洋女性の視点から、清朝末期の山東省の社会生活の様相(ようそう)を描く。

     二、ポール・H・キング

ポール・H・キング(Paul H.king,1853-1938)は、イギリス人で、アレキサンダーウィリアムソン夫妻の娘婿であった。1874年に中国税関に入り、47年間税関で勤務した。初め中国税関倫敦事務所に勤務し、その後中国へ来た。

汕頭、九江、天津、煙台などの税関業務を歴任した。1897年に上海副税務司に昇進し、1900年以降は粵海(広東省)税関税務司で勤務,中華民国時代には閩海関税務司を就任した。ポール・H・キングは中国滞在中、直隷総督兼北洋大臣の李鴻章に高く評価され、清朝末期と民国時代には、「双龍宝星」と「嘉禾」勳章を授与された。

1889年、彼は東海関税務司の補佐を務めた。この期間に、彼と翟汝舟は煙台で、中国で初めての体育教科書「幼少期の運動」(益智書会出版)を翻訳した。梁啓超先生は当書について「体操を説明する方法は、中国の『易筋経』と似ているが、なお良いものである。」と評価している。当時の山東登莱青兵備道道台兼東海関監督盛宣懷が序文を書いている:“誠得是書以引而進之,運用熟則手足多暇,氣体固而神智自生,体用兼備,有開必先,異日干城御侮之資,將于是乎?”

1924年、ポール・H・キングは「中国税関・47年の経験」を出版した。

本書は、現代中国税関の「国際官庁」における著者の個人的な経験と、その間に彼が経験した一連の近代中国歴史風雲を記している。これは、中国近代史の研究の為の重要な参考資料です。

ポール・H・キングの夫人はマーガレット・キング(別名ベロニカ・キング)であり、ウィリアムソン夫妻の一人娘です,1881年に上海のホーリー・トリニティ・チャーチで結婚した。

マーガレットは、現代の貿易港の外国人サークルで著名な作家であり,しばしば新聞で中国問題について書き、ディン・シャオリアン、インセンド、ミン・エンビン博士、ティモシーリチャード博士、ジョン・ジョルダン卿、チャールズ・ダニエル・テンニー博士など、中国の西洋人と並んで有名な作家です。マーガレットは1886年8月に早死にした。

     三、チン・ルイ(ルイ・マグラス・キング)

ルイ・マグラス・キング(Louis Magrath king,1886-1949)、ポール・H・キング夫妻の末息子であるチン・ルイとして知られています。1886年に九江で生まれ、最初は芝罘学校で学び、次にイギリスで学びました。

1905年に19歳で、彼は中国での英国政府の外交官に加わり、第一次世界大戦に上尉の階級で参加しました。その後、成都の英国総領事館で働き、成都のニ任の英国総領事館代理領事を務めました。

1920年代頃、チン・ルイは「英国のチベット事務において無視できない役割を果たした」。1913年、英国の「成都総領事館」が康定に支部を開設しました(当時は打箭炉と呼ばれていました)。成都の英国総領事館のの特別補佐官として、チン・ルイの本当の使命は密かに四川省とチベットの交界地区の軍事情報を収集することでした。チベット問題を処理する際の英国政府の参考資料として使用されています。

チン・ルイは外向的で、中国語は流暢で、打箭炉(康定)にいる間、彼はチベット語を学んだ。その結果、チン・ルイはイギリスのチベット事務の専門家になった。チン・ルイは康定でおよそ5年半職務に就いた。

1922年、チン・ルイは成都でチベットの高官の娘仁欽拉姆(リンチェン・ラモ)と結婚した。この結婚は、中国とチベット人の間で最も初期の結婚であると言われ、民国初期のチベット社会では、かなり衝撃的な事件であった。

彼はチベット人に同情して理解していて、そしてまたチベットに対する中国当局の考え方を熟知(じゅくち)していたので、チン・ルイは「自分の意見では、チベットは、(イギリス)政府が巨大な外交コストで、より広大な辺境を確保する価値はない」と、考えていた。

チベットを放棄するというこの見解は、当時のイギリス官吏、特にイギリス領インドの官吏によって排斥された。更に、「外交官は外国人女性と結婚と結婚してはならない」という英国政府の規則に違反しているとしたので、チン・ルイは職を離れ、早期退職をせざるを得なくなった。

1925年、彼はリンチェン・ラムと娘を伴い中国を離れ、イギリスに定住した。

チン・ルイの中国に関する主な著書は3冊ある。

1912年、僅か26歳の彼は匿名(とくめい)で倫敦で「真実な中国@:-北京居住者著」という本を出版し、書中で中国人の野蛮さ、狡さ、偏見、体格の悪さ、入浴の不備、堅苦しい付き合い、女性の魅力の無さを中傷している。しかし後に事態ははっきり異なって来た。彼は西藏や康定で地元の人々に返って暖かく迎え入れられた。

1926年から1927年にかけて、チン・ルイはリンチェン・ラモの口述に基づいて「西藏風俗志」を執筆し出版した。

その後、彼は「動蕩の中国ー個人研究」を書いた。この2冊の本の中で、チン・ルイは康定地域の文化やチベット人の生活を西洋の読者に紹介し、康巴文化の促進に重要な貢献をした。この2冊もまた、チベット研究の重要な書籍である。

それぞれ人生の異なるウィリアムソン家族三代の人たちは、清朝末期から民国まで70余年間、中国で異なる職業に就き、それぞれ中国社会に深く関わっていた。

中国社会体系の辺縁を彷徨う(さまよう)西洋人として、彼らは「よそ者」の視点に立ち、中国人及び中国社会を間近(まぢか)で観察し、そして中国の社会を改造することを試みた。

ウィリアムソン家族が残した著作は、今日では中国の近代社会と歴史を研究する為の、豊富で貴重な第一資料を提供していることに疑いはない。

煙台魏春洋  編集