山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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フラー伝

煙台近代の開港後、多くの西洋人が商売や伝道活動に従事した方その内の1人のイギリス人は「尋常な道を外れ」宣教師から商売に転向し、19世紀中後期の煙台で最も成功した西洋実業家の一人になった。彼は宣教師ウィリアム・ロバート・フラー(1834-1894)で,嘗て煙台で繁栄を極めた傅利洋行を経営した。

フラーはイングランドのチェルムスフォードシャー出身で、イギリスのフリーメソジスト教会の宣教師であった。1864年10月、彼は医療宣教師として寧波に派遣され、寧波のメソジスト教会の寧波駐在代表を務めた。

メソジスト教会は循道宗、ウェスリー、監理宗と称し、現在は再びメソジストとメソジストの名で知られており、1738年、イギリスのジョン・ウェスリー(1703-1791年)と弟のチャーリー・ウェスリーによって倫敦に設立され、元々は聖公会の一羽で、後に独立した。メソジスト教会は上層社会に偏った国教聖公会や中流階級や実業家に偏った長老派教会やバプテスト教会と異なリ、貧しい下層階級の労働者に福音を伝え、下層社会を重んじる社会的観点から、社会改善を出張し、「内心の平和と喜び」を求めるのは即ちこれ幸福であると出張しておリ、メソジスト教会は一種の民間人した宗派と言えよう。

フラーは、寧波で地元の最初の西洋医学クリニックを設立しました。しかし、すぐに、フラーは寧波の湿った暑い気候に適応しなくて病気になった。1865年頃、彼は妻でハリエット・ペック・フラーを、温暖な北部の沿岸都市煙台で療養しました。

煙台の快適な気候環境とより多くのビジネスチャンスは、彼を深く惹きつけたようで、またウェスリー公会は社会改良を主張し、「内なる平和と喜びは幸福である」を追求するという宗教的観点に感化した影響から、フラーは煙台に着くと毅然としてウェスリー公会伝道部を脱会した。それ以来、彼は宣教師から実業家へと変身した。1865年から1894年まで、フラーは煙台で30年近く暮らし仕事をした。この間、フラーは医薬品、建設、ホテル、船舶供給など、様々な企業を設立した。これらの会社は皆傅利洋行(W.R.フラー&Co.)に属するほんの一部である。傅利洋行は他分野にわたる総合的な企業であると窺える(うかがえる)。

フラーが煙台で設立した最初の会社は芝罘大薬房で、主に西洋薬品を販売していた。

フラーが煙台で設立した次の会社は建築会社であった。建築はフラーの主要な業務である。煙台開港後は大量の西洋人が長期に渡り煙台で居住、工作したので、不動産業が開港後の煙台に巨大な発展余地があることを鋭敏に発見し、そこで初めての西洋建築の会社傅利洋行を成立し、西洋風建築の設計、建築に従事した。資料が不足で、現在発見されている文字資料によるフラーの設計建造した建築物は崆峒島灯台、威海衛成山頭灯台、聖安徳魯(セントアンドリュース)教会とは非常に少ない。

崆峒島灯台は、フラーが煙台で設計、建造した最初の西洋建築である。崆峒島灯台は煙台市芝罘区崆峒島北山にあり、1866年から建造、1867年5月1日に完工した。初め「盧遜灯台」(当時の東海関代理税務司盧遜にちなんで名付けられた)と言いは、後に「煙台灯台」と改名された。1905年煙台山灯台が完成すると、「崆峒島灯台」と改名された。灯台は円柱形で、白と赤の2色の横紋で装飾され、石積建築。灯台は、台座、塔体、灯室など四つの部分に分かれて、高さ10メートル、台座高さ3メートル、周長15.5メートルの、9階建ての彫刻された御影石で作られた。台座に開かれた長方形の南口は、高さ1.7メートル、幅1.15メートルで、扁額石に横書きで「A.D.1886」と書かれている。この灯台は当初、登莱青道により建設が提唱されたが、最終的に全工程は大清税務関総税務長官ロバート・ハートの支援を得て、合計2,700ポンドで完成した。技術的には、崆峒島灯台は当時最も先進的な灯台であった英国領事は貿易報告で「20里以上先でもはっきり光が見えた」と述べた。崆峒島灯台は煙台貿易港の最初の航海標識の一つとなった。 フラーのもう一つの建築の傑作は、海岸路の聖安徳魯(セントアンドリュース)教会で、これは煙台海岸の一つのランドマークとなっている。

1875年2月15日、「倫敦与中国電訊報」によると、聖安徳魯教会は初め中国の建築により建造がうけおわれた(請け負われた)が,様々な理由が始まらなかった。そこで、英国教会がフラーの建設会社に建造を請け負わせたのである。1874年、聖安徳魯教会は完成した。建物は、イギリスの居留民だけでなく、英国領事館の職員によって高く評価され、のちに、近代の西洋人(主にイギリス人)が煙台で集まり、礼拝する重要な場所となった。

傅利洋行の会社にはまた煙台の近代で最も豪華なホテルの一つ傅利飯店(シービューハウスホテル)があった。

傅利洋行は今日の海岸街東端北側に位置し、南側は海浜飯店(ビーチフロント)である。傅利ホテルは1900年頃海浜飯店と合併して、1931年芝罘倶楽部を再建した時に解体され、その地は芝罘倶楽部の一部分となっている。海浜飯店は嘗て煙台近代史上重大な歴史事件を見てきている。例えば、1895年の馬関条約の煙台協定の儀式、孫文の1912年の煙台旅行などである。1900年の義和団運動の時、大量の西洋人が煙台に避難してきた。ある西洋人は「私が出かける唯一の場所はミス・フラー姉妹が経営する海浜飯店(ビーチフロントホテル)だけである」と記憶している。彼女らは寧波ウェスリー(ギルド)宣教師フラーの娘で、この宣教師はしばらく前に亡くなっている。ある事情を私が彼女らに話した時、すぐに「彼女らを皆連れてきなさい、彼女らが落ち着く場所が見つかるまで、ずっとここにいなさい」と答えるのであった。1882年頃、フラーはまた煙台で康斯特尔丁公司(コンスタンティン・カンパニー会社)を設立した。これは煙台を往来する船舶に物資を補給する会社である。

一年余りの努力で,1880年の頃、フラーの傅利洋行は煙台の外国人商社の逸傑となって、煙台での医薬、建築などの領域を独占していた。

フラーはこれにより煙台大富豪(商人)と呼ばれた。彼の豪華な別荘は煙台海岸路の中ほどにあり、煙台山から一マイルほどであった。フラーの別荘の前面は美しい花園となっていて、中には数百種類の珍奇な観賞用の果物や花草が植えられていた。当時アメリカの宣教師ヴィス(1829--1893)が煙台で西洋果物の試験栽培を進めていて、フラーの花園から西洋果物の苗木(なえぎ)移植された。また「煙台海関史概要」中にも「フラーは煙台山に平屋があり、面積1,694畝。1892年に東海関より、建物と土地価格洋円3116両で買い取った」とある。フラーは煙台で巨大な影響力があり、アメリカ政府もこのイギリス人には注意しており、1889--1894年の間、アメリカ政府はフラーをアメリカ人に注目しており、1889年--1894年の間、アメリカ政府はフラーをアメリカ政府駐アメリカ駐煙台領事館副領事に任命していた。当時、一般にアメリカ領事館を兼任する西洋人西洋人は皆アメリカ政府から手当てがあったが。財大氣粗なフラーにはその手当てゴミくずのようなものであったが、アメリカ駐煙台副領事として、亡くなるまでの数年間の義務を果たした。

1894年9月14日と1898年6月5日、フラーと妻ハリエットは相次いで煙台で亡くなり、夫妻は煙台の外国人墓地に埋葬された。

フラー夫妻が次々亡くなると、煙台の巨大な傅利洋行(フラー会社)産業も、2人の娘伊迪絲(エディス)と富勒によって売却または譲渡(じょうと)されてしまった。1898年、エディスは有名な英国の写真家ジョン・ハンティンと結婚しました。富勒は生涯未婚で、煙台会文書院で教鞭(きょうべん)を執った。1922年、富勒さんは煙台を出てイギリスに戻った。嘗ては煙台で一時隆盛であったフラー会社と風光明媚なフラー一家が、煙台に別れを告げた。

煙台 魏春洋 作品