山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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160年前の芝罘、登州見聞録

1863年、イギリス陸軍中佐、王室のエンジニアのジョージ・バティエ・フィッシャーが、第二次アヘン戦争に関する回顧録「中国での3年間の個人的な記録」を出版した、これは1857年12月29日、イギリスとフランスの連合軍が広州を占領してから、1860年8月に天津を占領するまでの、三年近くを記録しており、著者はエンジニアとして、戦争を経験した経歴から、路上の見聞に及ぶまで、日記を根拠として整理した、第二次アヘン戦争に関する重大な資料である。注目すべきは、この本は、芝罘と登州の上陸後の見聞と二枚の画像を記録していることである。 1859年6月、英仏連合軍が大沽口攻撃で大敗した後、フィッシャーらは7月14日から21日まで芝罘と登州に船で到着し、主に補助的な支援を調達したが、本書では、芝罘の風土や人情について多くの文字数で紹介し、登州の概況や経歴についても多少記録を残している。

1859年7月14日、フィッシャーらは芝罘に到着し、港内に停泊するイギリスをはじめ数隻の商業船が港に停泊している中で、英国の商船が、主にアヘン貿易に従事しているのを発見している。上陸後、フィッシャーは、それが貿易の場所であり、一人の兵士の姿もなく、ただ遠くの岩上に詰所(つめしょ)があったが、中は誰も居なく空っぽで、遠くに見えた槍などの武器は、実際には皆壁に描かれたものであった。

海辺の町は小さく、大きさ長さ約600ヤード(550メートルほど)の方形で、港の重要性に見合うほど大きくない。ここの貨物は町に保管されず、すぐに田舎まで運びされた。

町の家屋の建築は比較的精巧で、一般に石造りで、また黒レンガもあり、屋根は瓦か海藻で葺かれている。町には至る所にロバと馬が居リ、内陸部への主要な輸送手段であり、一般には荷物を麻袋に入れ、その麻袋を鞍に掛けた。町の多くの人家の前には飼馬の為の石槽があり、ある意味スペインの小民宿のような感じである。

町で販売されている果物や野菜は種類が多く、リンゴ、桃、アンズ、プラム、ザクロなどや、また未熟なブドウが販売されている。

プラムは美味しく、梨は見た目が良いが、非常に硬く、加熱して食べる必要があり、アンズと桃の味は比較的悪い。野菜は多種多様で、イギリス人に大切な野菜やジャガイモを除いて、ほとんどすべてある。フィッシャーらイギリス人は何頭かの牡牛(おうし)を買いたがったが、地元の人間にはその牛はもっぱら耕作に使うので売ることができないと答えている。地元の人々は彼らに幾らか羊を売ったが、一頭の値段は一枚か半枚のイギリスの貿易銀ドルであった。家雞は10羽1ドル、鶏卵は100個1ドル、ロバは一頭30ドルであった。

フィッシャーは、芝罘の港は船舶の停泊に最適で、当時の気候も悪くもなかったというが、ただここで冬を過ごしたイギリス人は、北風の頃はとても寒く、最低気温は華氏12度(摂氏零下11度余)、海岸から40ヤード(36メートル余)沖までの海水は皆凍って言いたという。フィッシャーは、鍛治屋(たんやや)が石炭で鍛造しているのを見て,石炭がどこから持ってきたのか尋ねると、鍛冶屋は田舎の山からだと言っが、ここでは石炭は鍛冶屋が使うだけで、生活の暖には使われず、衣服を重ね着するだけであった。フィッシャーは、ここでは多くの家が燒土炕という床暖房で暖を取っているのを見ている。

芝罘から半マイル離れたところには、奇妙な古い町があった。ここは嘗て城壁によって囲まれていて、現在では四基の寂しげな門を除いて殆ど何も残っていない。ここの様子は、フィッシャーに、昔海水が古い街のあたりまで広がっていて、後に海水が後退して、新しい街の商業的な需要(じゅよう)が立ち興った(おこる)のだと推測させた。

ある日、フィッシャー一行は、いくつかの果樹に囲まれた小さな村を通過して、付近の山に登った。

海に寄り添った土地は平坦で乾燥しており、あまり豊かではなかったが、開墾率は高くて、トウモロコシ、エンドウ豆、そのほかの豆類で満ちていた。海辺では貝類を潜水で漁る(あさる)当地の人間が、太陽に晒され肌が浅黒くなっているのを観察した。彼は一方の人間が色黒で、また一方で店の中にいて外に出なくて生白い小麦生地のようなの人がいるのが、全く信じ難かった。

フィッシャーらの船は7月18日午前9時に芝罘を離れ、同日午後5時に登州府登州港に到着し錨(いかり)をおろし停泊した。

フィッシャーは登州府には二つの城壁に囲まれた町があり、一つは海岸から約半マイルにあり長い城壁は海岸線と平行していた。もう一つの城壁の町は海に面し、陸地に向かって伸びている。二つの町は、L字型を形成していたが、中間が渓流で分離していて、一緒に接続していなかった。港は、船が風から避難し、貨物を積み降ろすのを容易にする非常に狭い桟橋で、外側の都市に接続されています。港は郊外と連なり、船が風を避けて貨物を積み降ろすのに便利な小さな埠頭があった。断崖の上に立つ寺院からは港湾盆地と町の大部分を俯瞰できた。(著者注:フィッシャーの説明から、海に面する町とは、現在の蓬莱閣と周辺の建物を指し、海岸から離れた町とは真の登州城であり、船が停泊する港は水城にあたる。)

フィッシャーと、船長、医師、通訳のアキンスと一人の中国人召使(めしつかい)を含む5人の乗組員が上陸しました。

城門が見つからなかったので、城壁が崩壊して、簡単に登れる所を見つけ、5人は城壁を登り、馬道に沿ってあるいた。芝罘の友好的な経験とは異なり、5人はすぐに群衆に囲まれ、押し合いとなり、進めなくなった。双方は殆ど口論となり、フィッシャーは、「イギリス一行はなるべく冷静を保ち、彼ら(町の人間)にこの旅行の目的が礼節を以て登州の役所を訪問することで、また何頭の牛と羊を購入することを希望し、そして一行に武器もなく、彼らを傷つけることはないとよくよく説明した」と言っている。だがしかし、この説明も意味なく、人が群がる(むらがる)ほど、押し合い圧し合い(へしあい)となった。警報の銅鑼(ドラ)が鳴り出し、イギリス人を見つけた城壁上の兵隊が旗を掲げて駆け寄って来た。フィッシャーら一行は知事が場内に居ることを知らされ、城内に入る門を指差して彼らに見せてくれた。

フィッシャーらは役所(知府)を訪問することを決めて、馬道を降りて、城門に向かったが、そのあとには好奇心の強い現地人がぞろぞろついてきた。

町に入り、いくつかの通りを抜けたが、町の人々は怪訝(けげん)な顔つきで、数人は足を止め話しかけてくるので、そのまま進むのもぞんざいにできなかった。その時夜の7時で、役所を訪ねるには遅すげて、また城門が閉じられて船に戻れなくなるなり、またこのまま進んだら、戻る前に真っ暗になる可能性があった。そして、大沽口の戦のあとでは、役所の人間が彼らに対してどういう態度に出るのかわからなかった。また、フィッシャーの召使が、現地人に交じって聞いたのは、イギリス人を処置する命令が出る前に彼らを取り押さえるかどうかと相談していたことである。総合的に考えて、イギリス人は召使を役所に向かわせて、明日午前に再訪することを告げさせ、フィッシャーらはそそくさとその場を離れ船に戻った。

二日目の午前中、イギリス人は、家畜を購入したい旨(むね)、昨日受けた非友好的な扱いの不平を手紙にしたためた。通訳のサー・トーマス・フランシス・ウェード(Sir Thomas Francis Wade,1818年8月25日ー1895年7月31日)は送信に行ったが、上陸後は人々の怒号(どごう)阻止され、誰も手紙を預かってくれなかった。ヤトマは彼らが手紙を送信できない責任であえて受け取らないものと考え,手紙を託さず船に戻った。

その日の午後、フィッシャーと船上の四・五人のエンジニアは上陸したが、腰にピストルをつけて上着で隠していた。

彼らは町のやや西側から上陸し、町を見下ろす小山に登った(著者注:今の田横山か)。当地の田園部は見かけは良かったが、芝罘同様に水不足の問題があった。殆どの河川が干上がっ(ひあがる)ていた。城壁の外は狭く細い街になっていて、城壁内は比較的大きく周囲4ヤード(6.4キロメートル)である。城壁には四基の城門があり、僅かばかり大きい役所と寺院がある。それなりの樹木もある。城内にはまた3・4層の崩れた建物が修繕中であった。北側の城壁は最大35フィート(10.5メートル)に迫り、全体的に良好(りょうこう)な状態であった。フィッシャーを驚かせたのは、芝罘周辺の路上ではよく見かけた群れなす荷を積むロバを見かけたのに、ここでは数頭の馬が草を食んでいる以外に、何の交通手段も見かけないことであった。

数人が数頭の牛を買えないことを心配しているところに、急に40頭の羊が追われながら城内に駆け込んでゆくのを見かけて、イギリス人は慌てて追いかけると、羊の群れからはぐれたが、最後に丘裾(おかすそ)の洞窟に居る一群れの羊を見つけた。

イギリス人は、ここが町から比較的離れていて、町の人々に見つからないことを喜んだ。羊飼いの仲間が警察に通報しに町へ戻るのを防ぐために、彼らは一人の見張りを高いところから、何か危険があったらすぐに連絡するように見張らせた。フィッシャーは、とても平穏に牛飼いと値段を算段したが、羊飼いは頑固で、金額の多少に関わらず、一頭も買うことができなかったと書いている。この時フィッシャーに同行していた屠殺(とさつ)人は、一つは飢餓(きが)、一つは習慣で、(交渉中にも関わらず)その中の肥え(こえる)た羊一頭を引き倒して、同行のイギリス人も新鮮な羊肉の需要を感じて、屠殺人に五匹の肥えた羊を選ばせた。羊飼いはそれでもまだ静かに抗議をして,黙りこくって、またイギリス人が羊を船に運ぶのも手伝う事もなかった。イギリス人は羊を一頭一頭船に運ぶ支度をしたが、その作業中、同行の一人のイギリス人のピストルが地面に落ちたのを、羊飼いが見つけてからは、一言も言わずに,黙々と船上へ羊を運んだ。イギリス人は羊飼いを船上に留めると、16元を支払ったが、価格は芝罘の時よりずいぶん弾ん(はずむ)だ。

この時イギリス人は知府(知事)が寄越し(よこし)た手紙に、

牛何頭必要かという問いに、イギリス人は8頭と答えたが、知府は3頭の面倒を見るだけで、ほかに話はないとあるのを見つけた。

イギリス人はもう一日待ったが、ほかに収穫はなかった。

フィッシャーは、地元の人の交流は全く原始的で、イギリス人は一般に艀(はしけ)を使って陸上と連絡するが、必ずしも通訳が同行するわけではなかったという。

地元の人は交流する意思のある時に、紙などを書くものがない時には、火打石で平たい石か石板に文字を書いて、人に持たせて乗船させた。フィッシャーは、あの時の強引(ごういん)な羊の買収を除いて、イギリス人が勝ち取った現地人の好感度は、最初に到着した時よりも、次第にマナーがあるように思った。

7月22日、イギリス船が廟島群島の砣磯島に到着した。同年九月始め、イギリス人が上海へ戻る時に、また登州府と芝罘で接岸した。

フィッシャーは登州府で現地人がとても友好的なのと、そこの葡萄も安くて美味しいのに気がついて、称賛している。芝罘では、イギリス人は砂糖と小麦粉を買い、その後9月14日に上海に到着した。

著者 煙台 鄒新明