山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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蓬莱の元代古戦船の故事

1984年3月初旬、蓬莱県は蓬莱水城小海の浚渫(しゅんせつ)故事を開始した。

水城小海は中央の橋を境に南北を区切り、北小海は満潮時に海水を入り込み、干潮(かんちょう)時にはシューズで自由に通行できた。南小海はゴミが山のように堆積(たいせき)して、臭気が天にも漂うばかり、水城小海はすでに廃港であった。県政府は3月中旬から6月中旬にかけて、雨季の到来する前に小海の浚渫を全て完了することを要求している。

当時私は小海浚渫指揮部宣伝課長であった。

4月初めのある日、于荘公社の浚渫に参加していた社員が私の事務室に駆け込んできて、浚渫現場の掘り起こしを、どんな様子か私に見に来てくれないかと頼みに来た。

私はすぐさま小海西南角の第一現場に駆けつけ、作業員に現場の初期作業を指揮した。

最初に見つかったのは、東端で古代の船の船頭の柱で、船底の竜骨が船首(せんしゅ)の浮き上がり柱に繋がった木の部品であった。次に見つかったのは船尾の舵座で、船体から避け(さける)て斜めになった状態で、一体の古代船の雛型が我々の目前に広がっていた。

私はすぐさま上層部報告して、古代船の出土と保護はここから始まった。

蓬莱閣管理処、文化局、煙台文物管理委員会は7人の発掘調査会を組織して、考古学的手順によって整理が進みられた。

この作業は田舎の豚小屋の糞を片付けるようなわけではなく、神経を使うもので、それは層序

に準じて調査し、沈殿層(ちんでんそう)の重なり具合を研究する必要があった。それぞれの層位で出土した器物を分別(ふんべつ)包装(ほうそう)し、断代の根拠とした。

工期には期限があり、我々は残業を余儀なくされた。発掘調査が、船倉(せんそう)の底部に及んで幾らかの器物を発見した時、我々の注意を引き起こした。

初めに見つかったのは、とも櫓(ろ)に散らかった扉と窓であり、後方の船倉からは、凝灰岩(ぎょうかいがん)で作られたた投石(とうせき)用の石球が出土した。


この種の石球の功能は主に敵を殺傷(さっしょう)したり、相手の船体を破壊して、漏水(ろうすい)沈没させる効果を生み出すものである。

中央の船倉には床暖房が残り、前方(ぜんぽう)の船倉では三枚の灰弾が見つかった。灰弾は大体小さな口で、首を細く、なで肩(がた)、太鼓腹、下はやや窄め(すぼめ)、平たい底部の釉藥(ゆうやく)がけの陶器で作られ、大小があり、内部には乾燥した灰が詰められ、口は粘土で閉じられていて、実戦時には風の勢いにまかせて投げ(なげる)られる。一種の敵に対する目眩し(めくらまし)の武器である。船右舷(げん)の前方には投石(とうせき)機用の狭間(はざま)が一ヶ所あった。このほか、元代の古銭や、陶磁器片等の遺物一切を整理している。よってこの船は元代の戦艦であると判断されている。

次に、古船を取りのぞいて、船の構造物を異動する必要があった。

もしそのまま古船を移動するにも、当時はこのような大型の機械設備もなく、場所の制限もあり運ぶ方法がなかった。我々は船の構造に従って分解し、いちいち番号をつけ、蓬莱閣の小広場の樹陰に整然と運ばれた。船の木製部品の配置も学問的で、いい加減に積み重ねず、曲がりや流れに沿って平行に配置し、もしも気ままに積み重ねれば、舟板の湾曲(わんきょく)した部分はすぐ変形し、腐朽(ふきゅう)の厳しい部分はすぐに押しつけて折れてだろうし、更なる一歩進んだ古代船の復元に厄介な問題を引き起こす。

次の一歩は、船の木製構造の塩分を抜き取る作業である。

船は海底の沈殿物に千余年の眠りにあって、大量の塩分が木製部品に浸透していて、もし十分な脱塩作業を施さなければ、文物の破壊を加速して、古船の寿命を短縮(たんしゅく)するのである。

船の木製部品の脱塩の実施は、まず部品を筵(

むしろ)で覆い、その後毛布でくるんで、通風の良い状態の乾燥から防止する。

我々は一月余りの時間を費やして、海水を木製部品に噴射しながら浸透させると、このようなことで木材の塩分希釈(きしゃく)が同期的に進行する。


その後また四か月を掛けて、淡水と海水を半々の割合で混合したもので、塩分を希釈し、また四か月を掛けて、三分のニの淡水と三分の一の海水を噴射することで、やっと残留塩分を排出することができ、木製構造を淡水条件の環境に適応させるのである。最後に我々は保護層を分解して、塩垢を清水で徹底的に漬け洗いして、その後は七日に一回淡水を噴霧(ふんむ)する方法で木材部品を一定の湿度に保てば良いのである。

次に、古代の船の復元と展示である。

蓬莱は当時六ヶ所の造船所があり、多くは新木材で造船し、またあるところはただ修理補修を専門としるだけで、古代船の復元には、どの船大工も経験がなく、最も一塊の腐乱した朽木(くちき)が残るだけなことが、復元をさらに難しくしていた。

文物の復元は必ず本物残すべきで、使用できる木材を総で利用し、そのほかの材料を混在してはいけない。この仕事をする資質のある大工を見つける為に、私は自転車で蓬莱沿岸のあらゆる造船所を駆け回った。

計画の比較を重ねて、最後に馬各荘造船所船厰に決定した。この作業所の設備は比較的揃っていて、経験豊かな熟練工がいて、所長の謝心達を中核として計画の実現の可能性は大きく、要求通りの古代船の復元任務を引き受けるを引き受けることができた。


造船所は完全に装備されていて、仕事の出来も思い通りであったが、この古代船は長さ28.6メートル、幅5.6メートルもあって、このようなばかでかいものの復元と、その後造船所から30余里離れた蓬莱水城陳列館へをしようとすれば、当時の輸送手段や道路状況は要求を満たしていなかった。最後には、陳列館予定地でまず古代船の復元を行いながら、古代船陳列館を建てるという土木工程(どこうこうてい)に決定した。

三か月余り銅鑼太鼓で急かされる(せかす)ような作業で、雄姿に満ちた元時代の古代船が新たに人々の面前に現れた。私が古代船復元の総監督であり、また古代船陳列館の一番の責任者であった。

国宝級元代の古船が再現され、文博界を揺るがし、船史界を揺るがした。上海交通大学、武漢水運学院、大連海運学院、中国社会科学院考古学研究院、中国国家文物局など、40名以上の著名な専門家が参加して、開館に際した蓬莱で古船に関する学術セミナーを開催し、元王朝の古代船の価値に対して権威ある評価を行い、同時に古船の発掘、保護、復元の作業に対してを充分に是認(ぜにん)した。

私は七十を過ぎ。今日改めて古代船陳列館に入り、この元代古船に対面して、幾らか筆を取れたことは、喜びも一入(一入)である。

著者 煙台羅世恒