山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台「聊齋」故事シリーズ

『廃鐸囈」は清代栄成県の文人林培玠の作る所である。

作者は若い頃から文章を以て知られ、70代近くになってやっと陽谷県で教育を司る(つかさどる)小官職についたが、僅か8ヶ月で職を辞して帰農した。帰郷はそれまでに掻集した「巷(ちまた)の聞き書き」を整理修訂して、『廃鐸囈』と命名した。

「鐸」は古代の政教法令を宣布するための鍾であり、ここでは役人を意味していて、「廃鐸囈「は作者が官途に志を得なかった夢話を本書で自嘲しているのである。

書中には膠東地区の魑魅魍魎や、珍見異聞、人々に浸透した因果応報(いんがおうほう)、善悪相応の価値観を多く記して、膠東版の『聊斎志異』と言ったところである。現に幾らか例を取れば、話の筋は奇異な点が少ながらずあるが、読めばかえって人の興味をそそるものである。

一 一筋道は自業自得の道

長島(廟島列島)は山東省から遼寧省へ行く海上の通路であり,古代から頻繁な海運があり、珍聞変事が自然と多い。

乾隆某年の冬、1隻の大船が遼寧省から登州へ運航していたが、突然の風波(ふうは)で、風を避けるために砣磯島への停泊を迫られた。夜中の大風雪(ふうせつ)が、数日持続(じぞく)しので、晴天を待ったが、乗員は海面が瑠璃瓦のような分厚い氷に固まり、船がびくともしないことに驚くことになろうとは予想だにしなかった。

船上には遼寧省で生計を立てていて、年末にやっと帰郷できる貧民が乗っていたが、閉じ込められた船首(せんしゅ)では矢のようにはやる心も、一日千秋(せんしゅう)の思いで、早く氷の解けるのを待たないわけにはいかなかった。しかし天は願いを聞き入れず、天気は更に寒くなった。

そんなある朝、ある大胆な男が船を降り、荷物を背負ってカチンカチンに氷った(こおる)海上を注意深く踏みしめ、速歩(そくほ)で南に進んで岸に到着するのを船上の人々はしっかり見届けていた。

その様子を見て、皆は次々と見習って、一斎に船を降り、旅行装備を手に取り氷を踏みつつ南下したが、数里も進まずに、氷が突然割れて陥没して、百余人は皆海魚の腹の内に埋葬された。

物事が終わると、著者の林老夫子は文末に「一人の力は軽く、百人の勢は重い;軽即易載,重即難勝。

「つまり、一人は軽く、100人は重く、海氷は一人を運ぶが、100人は運ばない。カニを食べる最初の人は、勇気があり、賞賛に値する。百人は一筋に追い求め、大勢の人が押し寄せ、利益だけを見て、リスクを重視しない、結果はため息をつく。盲目の作為はただ自食苦果(自業自得の苦しみ)であり、この規則は現代人にも当てはめる。

二 見利思義

昔の物語は、色々なことを教えてくれる。貪欲で利得(りとく)に専念する者は往々にして意に反し、かえって(欲に)淡泊(たんぱく)で心善き(よく)人に、好いことが起こる。嘉慶年間、黄県(今龍口)にこんな故事がある。
ある年の飢饉に、当地の富豪丁氏、逢氏は助け合ってお粥の炊き出し(たきだし)をしたかったが、必要経費は少なからず、もう一人を見つけ、費用分担をしようとした。
地元の贡生(古代科挙試験制度級別の一つ)は王玉閣と呼ばれ、家庭は中等程度ですが、、良い行いをします。丁、逢2にはこれを利用して彼を揶揄う(からかう)為に彼を見つける。王家は150畝の良い土地を持ち、炊き出しに関与した場合、50畝の土地を売却する必要があります。
まさか、王は一口でイエスと言った。
三人は冬から4月まで続いた。4月が過ぎ、小麦が収穫される前に、貧しい人々はお粥を提供し続けることを懇願しました。丁氏、逢氏2人は、あまりにも多くを費やすと思った後、彼らは同意しませんでした。王玉閣は粘り強くして、貧しい人々は彼に感謝した。
この後、県令(県役人)はこのことを聞いて、彼の義挙を讃える為に一つの扁額を送りました。丁氏と逢氏の二人は、彼らが提唱した事は、お金と力を支え、最終的に王玉閣に功績を認められ、ふんまん(ふんまん)してやるかたない、最終的に悲しみと怒りが病気になられた。しかし、王玉閣家は良いことばかり続き、作物は豊作で、息子の郷試(科挙試験の一つ)もうまくなった。
“見利思義”という言葉は、最初に「論語・憲問」で発見されました:「利益より正義を優先し
,危険に身命を投げ打つ(なげうつ)覚悟があり,昔交わした約束を忘れないならば,完成された人物と言えるだろう。」,現代意味は「財にあったら義の要求を考えることができ,危難にあったら勇敢に命を捧げる事ができ,長いあいだ立ち往生し、平日の誓いを忘れず,完璧な人なることを意味します。」。

三 世路 人欲の険に如く無し

南に向かっている別の船が既に長山島を回っていて、それが登州の海岸に到達しようとした時、それは突然沈んだ。岸の人々は心配そうに見たが無力だった。しばらくすると、生き残った二人が水底から現れて岸に泳ぎつき、すぐに周りを囲んで訪ねました。二人は船上に約百人が乗っていて、全員が高麗人参を集める為に長白山に行ったと言った。彼らは収穫量が多かった。誰もが個人的に隠した。彼らは所有者の発見を恐れて海岸に逃げた。南に行く為に大きなボートを借りた。更に、高麗人参は全て防水シートで包まれており、しばらくの間水が入れない為、人を連れて引き揚げに行ってくれます。
みんなが有利だと聞いて、18人の船員を集めて2人と一緒に小さな船に乗り、沈没船の処について、人々は水に飛び込んだ。でも今回は久しぶりに誰も出てこなかったので、風で船が岸に吹き飛ばされ、20人全員が溺死(できし)しました。
それから一年後、ここに漁船があり、突然海が澄み、海の沈みが微か(かすか)に見えました。それで急いで他の漁船に呼びかけて、船の全員が水に飛び込んで宝物を探しました。しかし、海か突然暗くなり、闇は海底が見えず、これらの人々は再び海に埋葬されました。
朱熹は「世路 人欲の険に如く無し、幾人か此に到りて 平生を誤る。」と語った。お金への愛は人間の本性であるが、一定の限界を越えれば身を滅すのに十分である。貪欲。悲しいこと。
著者 煙台王尧锴