山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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110年前の水泳競争(煙台)

芝罘学校、正式名中国内地会学校(シナランド・ミシオンスクール,略名CIM)は1881年煙台の東海浜に創建され、外国人子供達を専門に募集した、清末から民国に至る中国で唯一でただ一ヶ所の純粋なイギリス式の寄宿学校であった。

当校は古典文化と宗教教義を重視する一方、イギリスの名門校が体育教育を重視する伝統にのっとり、フットボール、ボール、水泳、クリケット、テニス、ホッケーなどのスポーツと遠足を数多く行って、学生の体育成績に結び付けた。

芝罘学校の校誌《芝罘マガジン》は、1908年のクリスマスに創刊された。その1909年10月号と1910年2月号の現場記事には、当校に関する海辺の水泳競技が記されている。

この競技は、1909年8月20日(金)に開催され、芝罘学校が主催した。煙台に駐在のイギリス大東電報会社とイギリス和記洋行の賛助で、男子校の六名学生が参加し、コースは領事館山(煙台山)より芝罘学校北側のビーチの、全長5マイル(約8Km)であった。このコースの直線距離が1.8kmであるのを考慮すると、その間に何度かの折り返しがあったと推測される。 報道記事によると、「当日午後の14時45分、六名の参加選手は領事館の龍王廟から、事前に桟橋に停泊しているボートで、沖合の汽船に集結した、この汽船は競技で学校が使用する為に和記洋行が貸与されたものである。」。

15時、競技は正式に開始された。「六名の選手は汽船の甲板から海に飛び込み、定められたルートで東へ向かった」。

参加選手の安全を確保するのと、応援の為に、学校はそれぞれの選手にボート満杯の男子学生を配備してそのあとに付けた。

「明らかに、此のボート上の男子学生も参加選手のように「勇猛果敢に戦い」たかったが、惜しいことには選抜戦で、資格を得ることができずに、ただ後方から声を上げ、最も有能なチアリーダーとして働くのであった。」

報道記者の羅達·格蘭傑は、「このような後ろから追い立てるように応援する方法は必ずしも励みになるわけでもなく、期待に反して、かえって競技者にプレッシャーを与えるものである。ただ幸いなのは、ボートのエンジンが飛び散らかす波しぶきは選手への干渉をなんら与えなかったことである。

だがしばらくすると、羅達·格蘭傑の心配は当たり、一名の選手が強すぎるプレッシャーに、試合を放棄してしまった。

この時「その他の選手達は水に入る前後の不調合を乗り切り、ようやく遠泳の状態に入っていた」。五人目の選手には実力差があり、次第に四名の選手と距離が開き、体力が持たず試合を放棄して,後続のボートに引き上げられた。他の四名の選手は弛みなく(たゆみなく)、泳ぎ続けた。

時間の推移(すいい)に伴い、コースは既に半ば(なかば)を過ぎた。「前方の選手を追うのに尽力したので,また二名の選手が体力消耗で競技から抜けた。」

羅達·格蘭傑は「残りの二名の選手が競技会を順調に終えるかという疑問を生じる」に至っていた。

彼女の心配は不必要であり、この時既に3時間がたっていたが、彼らは依然、岸からそう遠くない大海中で奮闘していた。

夕暮れが迫ったころ、「ハンス・フォカルが始めに僅か3フィートの海中から立ち上がり」、「数分後ガーディナー・テイラーも水面から現れた」。前後三時間半の内に、両名の選手は芝罘学校創立以来最長の水泳記録を樹立したのでこれ以前に学校の遠泳競技のコースは通常2マイル、例外的に3マイルであったが、5マイルの長距離の競技を成し遂げたのは、全く常軌(じょうき)を逸し(そらす)たものだ」とレポートに触れている。

競技中は、スポンサーと和記洋行のその汽船は海上で忙しくていたのは、語るに充分である。主催者は行き届いた心遣いで、競技中、熱いコーヒーやデザートを用意して、いつでも参加者に暖かいサービスを届けられるよう、準備した。参加選手たちにとって、この特別なサービスは、「彼らは激しく厳しい水泳のレース中に、片手に汽船から垂らさ(たらす)れたロープと,片手のコーヒーカップを啜り(すすり)ながらの、数分の小休憩を取ることを喜んで」大変受け入れられた。

優勝者と準優勝者は海岸で温かく迎えられた。

「拍手と叫びの中で、スポンサーの大東電報会社のサンダースさんとソーパーは、それぞれ優勝者と準優勝者に特別なトロフィーを授与し、2人の選手は大きな励ましを受け、受賞者に感謝しました。記事の最後に「長距離レース、特別なトロフィー、質の高い物流支援が、この大会のハイライトとなり、全ての参加者に忘れられない思い出を残したことは間違いではありません」と書きました。

芝罘学校は、スポーツ活動の実施に細心の注意を払い、当時の煙台社会各界(全ての部門)から注目を集め、社会団体、特に国民が運営する学校を模倣し、ある程度は、煙台におけるマススポーツ活動の繁栄の種を播いた。

写真は、芝罘学校が様々なスポーツ活動を行うシーンです。

著者 煙台韓沂樹