山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ドースウェイト伝

このイギリスの医者宣教師は本国の清国に対するアヘン貿易を停止するよう呼び掛けただけでなく、禁アヘン部門も設立した。

近代の煙台は西洋キリスト教の各教派が清国で宣教する重要な町であり、英、米、仏各国の多くの教会や宣教師が集中していた。これらの宣教師は煙台で信者を集めるすると同時に、文化伝播や経済活動に従事して、煙台の近代教育、医療衛生、社会公益などの事業の先駆けとなった。

ドースウェイトは清国内土会(シナランド・ミンオン、略称CIM、イギリス宣教師戴徳生設立)の医療宣教師であって、1874年に清国に到着して、初め浙江紹興などで布教したが、1880年に温州で小さな診療所を開設し、病人を無料で診察した、これは温州で最も早い西洋式診療所であった。

南方で湿潤で暑い天気と激務は彼の健康を侵害したので、1882年、ドースウェイトは煙台清国内地会療養院に配置され療養した。健康が回復した後、ドースウェイトは清国内地会が煙台方面を処理する事務を担当した。1882年〜〜1899年の期間、ドースウェイトは煙台に前後して、教会病院本仁病院の創設、禁薬機構アヘン局の設立、赤十字会病院の成立などをした。 ドースウェイト医師

1882年、ドースウェイト医師は芝罘区のニ馬路東端に教会病院体仁病院を設立した。体仁病院は、中国内地会病院、東山イエス聖教病院とも呼ばれ、近代煙台の三教会の一つである。他の二つは、フランスのカトリック教徒によって設立されたカトリックの病院とアメリカの長老派教会によって設立された毓璜頂病院である。

体仁病院には病棟があり、煙台の外国人を診察し、中国人も診察するが、外国人と別々受診であった。

体仁病院には設立後、すぐに評判が高まった。中国内地会の残した記録によると、体仁病院が設立一年目に3,000人の患者を診察して、病棟は39人の患者を受け入れた。1892年までに、外来患者数は9023人に達し、病棟は163人、292件の手術を行った。1893年には、外来患者数は12055人に達し、病棟は125人を収容し、376件の手術を行った。1896年には、外来患者数は23,700人、病棟は216名、856件の手術を行った。

以上のデータから、体仁病院が煙台で非常に歓迎されることが分かった。

ドースウェイト医師は体仁病院での診察のほか、芝罘学校、、中国内地会療養院での医療作業員も担当した。その優れた医療技術や高尚な医徳は社会各国各界から深く信頼された。ドースウェイト医師は体仁病院で病人の治療をしながら、病人にキリスト教の福音を受け入れよう求めて伝道し、病人にキリスト教の宣教資料を配布した。

1887年、病院看護士のドースウェイト博士夫人が亡くなり、その夫人を記念する為、体仁病院は莉莉·ドースウェイト記念病院に改名された。

ドースウェイトは体仁医院で医師として働くほか、禁アヘン広報も積極的に行い、煙台体仁病院に禁アヘン局を設置し、薬物中毒者を収容・治療した。

近代以降、アヘンの大量流入は、清国の一般市民に極大な危害をもたらした。その結果、清国全土で禁アヘン活動が巻き起こり、宣教師達も往々参与した。

一人の宣教師として、ドースウェイトはアヘンが清国に対する危害のあることを見抜いた。温州での医療活動中、彼は清国とのアヘン貿易を停止するように自国に要請した。同時に彼はまた、温州で薬物治療病棟を設立し、薬物中毒者を治療するために親身(

しんみ)を擲っ(なげうつ)て努力した。

19世紀末の煙台は、清国の他の地域と同様にアヘンに毒を盛られた(さかる)。当時、煙台港は、ヨーロッパ、アメリカ、東アジアからの輸入品や、北部地域の様々な輸出品の重要な市場であった。

あまり知られていないが、煙台港は清国北部のアヘンの主要な輸入港でもある。アヘンの大量流入は、煙台の人々に害を及ぼす。統計によると、1878年、煙台アヘンの喫煙者は全人口の半分を占めた。1891年、僅か32,500人の都市である煙台には132のアヘン喫煙館があり、320人の従業員を雇用し、人口の1%を占めた。1901年までに、煙台のアヘン喫煙館は430軒に増え、1,200人の従業員を雇用した。アヘンの蔓延は、煙台で大きな社会問題となった。

煙台に到着した後、ドースウェイト医師は禁煙と薬物リハビリテーションを積極的に推進し、特に「禁煙論畧禁煙局憲章」を設置した。煙台では、多くのアヘン薬物中毒者がドースウェイト医師の治療を受けた。1891年第一四半期だけで、214人のアヘン薬物使用者が禁煙局で薬物治療を受けたと記録されている。

また、ドースウェイトは煙台に赤十字病院を設立し、中国国内初の赤十字病院の一つにした。赤十字病院は、紛争や武力暴力の影響を受けた人々に人道的な支援を提供する社会支援団体「赤十字国際委員会」から生まれ変わった。赤十字国際委員会は1863年に設立され、すぐに日本に伝わった。。1877年、日本は赤十字社と関連する赤十字病院を設立し、既にかなり成熟した戦闘救助システムを持っています。しかし、当時の清国政権と国民はまだ国際赤十字に何も知らなかった。

清日戦争が勃発する前、清国総兵の孫金彪は、負傷した兵士の救助について相談するために、ドースウェイト医師を訪問した。ドースウェイト医師は国際赤十字病院について孫金彪に詳細に説明し、後者のは興味を持ち、1894年12月から総兵の支援を受けて赤十字病院を開設した。

『芝罘学校』という本の記載によれば、ドースウェイト医師は「内地会療養院の東側に‘受け入れ局’が割り当てられたが、療養院は入院、特に手術をする負傷兵の治療にあたった。」

日清戦争中、煙台赤十字病院は、主に威海衛戦場から退却した多数の負傷兵や難民を接収して、また遼東半島からの転院者を治療した。不完全な統計だが、煙台赤十字病院では163人を救ったそうだ。赤十字病院の救助活動は、当時の人々の考え方を変え、中国での赤十字運動の発展の基礎を築いた。

日清戦争の終結後、西洋宣教師の無私の救済治療は清朝に報告され、ドースウェイト医師をはじめ、他10名の宣教師は光緒帝から「双龍」勲章が授与された。嵩武総兵孫金彪も、ドースウェイト医師に「西國扁盧」の四題字を書いた扁額を送り、体仁病院の壁上に掲げて、彼に感謝の意を表した。

1896年3月、ドースウェイト医師の第二夫人は産後の熱病で、まだ四歳の長男を始め三人の児女を残して亡くなった。

1897年3月下旬、ドースウェイト医師は中国を離れイギリスに戻って、母親を亡くした3人の児女をイギリスに落ち着かせた後、1899年4月末に体仁病院に復帰したが、同年10月5日に赤痢を感染し、51歳の若さで死亡した。

ドースウェイト医師は死後、毓璜頂外国人墓地に埋葬され、あれ以来煙台に永眠している。

著者 煙台魏春洋