山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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1933年の煙台海岸のアメリカ兵

1933年の煙台海岸のアメリカ兵:米兵の生活はふしだらで、日本兵とは趣が異なっていた。

米国フィリピン艦隊は、毎年五月になると煙台へ避暑に来て、盛時には2〜30隻、少ない時で10隻あまり、九月に天気が涼しくなると離岸し始めた。水兵一人に月80ドル、中国の銀洋300元で以上が支払われて、中国の中級将校の収入に等しいか、またはそれ以上であった。彼らは選びすぐった精英であったが、彼らの生活は不規律であった。ダンス、飲酒、遊妓、球技、海水浴、歌唱、それは彼らの一日の生活習慣である。月給(げっきゅう)は、丸ごと煙台に費やし、「今朝の酒は今朝飲み切」って、彼らはいささかの貯え(たくわえ)もしなかった。給料は三日もせず使い果たしたのであった。煙台の夏が繁盛したのは、一部は各国からの避暑客が多かったのもある一方で、また一部アメリカ人の散剤(サンザイ)によるものであった。西洋人は、東洋人よりも飲酒を嗜み(たしまみ)、イギリスしかり、フランスしかり、ロシアしかり、皆アル中(アルコール中毒)なのであり、アメリカ人も飲酒は大変普遍(ふへん)的で、減酒禁酒が、アメリカの重要問題の一つとなっている。米兵も酒好きで、一飲みすればたちまち酔うのであった。煙台でよく見られるのは彼らが酒場や娼館から出てくると、キャップをかぶって、歌を口ずさみ(口ずさむ)、大変酒臭く、千鳥足で、ふらふらとまた別の娼館に入っていく様子であった。彼らのような放蕩(ほうとう)でふしだらな生活は、日本兵の生活とは、大きく異なっていた。日米が太平洋戦争することはなかったが、もし太平洋戦争が勃発していたならば、アメリカのこのようなふしだらな兵卒(兵卒)でもって、日本の厳しい訓練に堪え規律に固められた軍隊には対抗できなかった恐れあっただろう。

煙台海水浴場は、もとより世に有名である。煙台海水浴場は煙台山の東南1キロ余りの場所にあり、長さ約1キロある。日曜日ともなれば、海水浴場に来る人はとても多く。人数は千人に迫る。

中国人と西洋人が混雑する中、アメリカ水兵が最も多く、多くはロシア娼婦や中国娼婦を伴い一緒に遊泳し、また通常の夫婦も子供を連れてきた。遊泳が終わると、男女はビーチに、仰向けであったり、うつ伏せであったりして寝そべり、また球技や、ポーカー、果物を食べ、ビールを飲んだり、それぞれまちまちで、一つとして同じものがなかった。ビーチには果物やビールを売る浜茶屋があり、日除けをかけて、天日を避けて、人を休ませた。たくさんの西洋人が、シャワーを終えると、その下で飲酒に興じた。

1933年、煙台海岸のアメリカ兵にはアメリカ人の下品なタトゥー(刺青)であるタトゥーが流行っていて、アメリカ人はこの隆盛を意にもせず、ここで多くの米兵は、彼らの方や胸元の各所に、鳥獣花卉人物などなどの形状が刺青(いれずみ)されているのが見られた。私は嘗て彼らの身辺を仔細に観察したが、蝶を刺すもの、また罵倒,美女のの顔から、少女の姿、または蜘蛛の巣を刺し、孔雀、毒蛇,龍の爪などのもんを、あるいは胸。あるいは胸全面に、またまるで背に柄物の着物をまとったようである。

著者 煙台張宜中