己酉年の肺ペスト(煙台)
1911年1月17日、旧暦の己酉年の師走(しわす)初七日、翌日は臘八節であるが、東北でペストが発生したという、人々を驚愕(きょうがく)させるニュースが煙台で急速に広まった。
このニュースは東北と海を挟んで向かい合う煙台人の肝を冷やしたのは、煙台がこのような打撃を受けるのは一度のみならずであったからであり、1907年に朝鮮で伝染病が発生した時には、流行はすぐに煙台地内に蔓延した。
突然起こったペストの災害は、ロシア・シベリア辺境のダウリヤから満州里を経て、中東鉄道から中国東北に伝わったが、これが東北地区の初めてのペストの大流行であり、また近代中国で初めての大規模な肺ペストの災害でもあった。
この伝染病の爆発は、ロシアがその国内の感染した中国人労働者を強制的に帰国させたことに起因している。ロシアは私利によって、すぐさま管轄の「中東鉄道」の交通を遮断することはなかったので、伝染病は鉄道によって東北の奥地で流行するままに、伝は迅速な蔓延を引き起こした。
清末の東北開発より以後、毎年数万人もの山東人が関東に押し寄せあるいはロシア遠東地区に至ったので、煙台と東北大連、旅順との往来は非常に密接で、東北から戻ってきた人が恐らく病原菌を煙台に持ち込み、煙台から山東省に蔓延したのである。煙台の空気はにわかに緊張してきた。
東海関の監督の責任で、煙台港は上海港の防疫条例に倣っ(ならう)て、緊急に煙台防疫条例を制定し、大連、旅行からの旅客を一律に一週間隔離し、検査で陰性を確認し、上陸が解放された。また貨物の入港も厳格な検査があり、一時期は、港を封鎖する勢いでないかと、人々を不安に陥れた(おとしいれる)。
具体的に検疫を執行する職責を負ったのは東海関税務署であった。
各国の駐煙台領事館は等しくこの規定を執行したが、ただ日本の駐煙台領事館は東海関税務署にたびたび照会を発行して、厳格な隔離検査に抗議した。
なぜ日本人はこのような挙動に出たのであろうか。1904-1905年の日露戦争の後、日本人は山東半島と、遼東半島で大量の利益を擁することとなり、煙台港の封鎖は日本が重視した経済利益の損失を意味するのである。
しかしながら、日本領事の照会は東海関税務署にしばしば拒絶され、税務署は、「厳格な防疫条例の執行は、煙台に対する責任ではなく、全ての山東省に対する責任でもある」と明確に告知している。
この流疫で、死亡の発生が最多な場所は正にこの港の検疫機関であった。
1月26日、大連からおよそ700人の旅客が臨時設置の隔離所に拘留された。このうち、100人の商人が、煙台商会の要請で、政府の命令により、翌日には無条件で放出された。
この他は、主に重労働者で、政府はあくまでもそれを引きとどめて、一週間の隔離期を過ごさせる為に、良好な衣食住の環境をそれに提供した。これらの重労働者はそれなりに喜んだ。だが、翌日には、伝染病が彼らの中に爆発した。この600人の重労働者は死人に混じって枕する(まくらする)こととなる。
世論の圧力で、当局は残りの重労働者を放出したが、これらのウイルスに伝染しているかもしれない人々は、すぐさま帰郷して、その地の病原となってしまった。
隔離検疫は4ヵ月余り続き、4月になって、流行は基本的に安定して来て、1911年5月初旬、青島港の警報解除の後、煙台は徐々に遼東半島方面から来る船の検査を緩和した。
この後、検疫制度は継続して、東海関検疫病院が設立された。
煙台の行政当局と東海関との密接な連携、積極的な応対により、六万人近くの中国人が亡くなったペストは、山東省では最小の範囲内に抑制された。
それでも、当時の煙台の5万人の住民のうち、2000人がこの災難で命を落とした。中でも、最も集中している場所は隔離地区であった。
当年度の貿易の年度報告では、時の税務主任安文が、人員の密集と、空気の流通のないことが疾病流通の主因であることを、指摘している。
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