山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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ネビウス人生の最後の記事

ネビウスは、近代に中国に来たアメリカ長老会の宣教師である。

彼は1854年に中国に来て、当初は上海、寧波、杭州で伝道し、1861年に登州府治の所在地蓬莱に移転し、1871年に煙台に移住した。1893年、ネビウスは煙台で病死、享年64歳であった。ネビウスは煙台に20年以上寄寓(きぐう)し、多くの面で現代の煙台に大きな影響を与えた。その影響で最も意味深いものはアメリカのリンゴを煙台に導入し接木(つぎき)に成功したことで、のちに煙台リングは遠近に有名となった。

上記はネビウスの煙台での最後の2年間の事であり、また彼の人生最後の時の記述である。

煙台滞在中、ネビウスは何度かアメリカに休暇に帰った。1890年は、ネビウスの最後のアメリカ帰国となった。

今回の休暇は2年近くに及んだが、ただし彼は一刻も中国での伝道作業を忘れなかった。ネビウスは1892年2月4日の母親への手紙に、「既に休養は大変長時間となります。私は中国へ戻って、そこでの仕事を継続すべきだと感じています。親愛なるお母さん、私はまたあなたとお別れしなければなりません。私にとっては、これは最大の試練なのです。ただ私の生きている限り、私の必ず成すべきことなのです。私はすぐ戻ってくることができますから、その時までは私たちは離れるということはありません。」と記した。実のところ、ネビウスはもう、彼が出かけると、また再び母親に会うことは叶わないであろうことをはっきりと認識していた。それでこの夏は、彼は可能な限り母親に寄り添う時間をやりくりして、母親に心ゆくまで親子団らんの喜びを尽くした。

1892年の9月初、ネビウスはニューヨーク州の自宅から離れ北上し、ヒューロン湖とスピリオル湖を経由して、転々としながらバンクーバーに到着、そこから中国行きの船に乗った。9月18日、ネビウス一行は「クイーンチャイナ(中国皇后)」号に乗り込んで、彼らの最後の中国行きを開始した。

1ヵ月余り海上に揺られて、彼らも上海に到着した。上海で幾日か停留して、その後乗船は煙台に向かった。強烈な台風がずっとネビウスの乗った船について北上していた。10月13日六週間長旅を経て、彼らは煙台に到着した。

たくさんの中国の友人達が早くから埠頭に迎えに出て、輿(コシ)を担ぐ(かつぐ)力者や彼らの荷を運ぶ使用人も早くから傍に待っていた。半時間の後、彼らは離れて二年経つ家の南楼に戻った。この日は陽光も麗しく(うるわしい)、庭にはキク、バラ、シオンなで色々な花が色を競い,燦然と咲き乱れ(さきみだれる)ていた。隣人らの細やかな世話で、ネビウスの住まいは整然と整理されていた。近所の人々は次々に挨拶と歓迎の言葉を述べた。この時ネビウス一家にとっては、ここは天国でしかなかった。ネビウスの煙台での最後の生活はこのように始まった。

アメリカを離れる前から、彼の心臓には正常ではない状況が出現していた。家に戻った後の喜びと幸福と、目前の色々な仕事のストレスは、ネビウスの心臓には危うく受け入れ難く、心臓病の悪化の兆候は突然であり変化が段々と明白になって来た。だが彼は依然として陽気で、精神的に奮起していた。数週間して、彼の体は段々良くなって来た。

1890年の上海宣教師大会で成立した一委員会は、『聖書』の北京官話(公用語)訳と校正班を専門に担当したが、ネビウスは幸いにこれに参与した。彼は官話に対して特別な関心があったので、この仕事に関与することができて大変喜びを感じていた。ネビウスの体調は良くなく、もはや各地の郷村の布教場を訪問するような疲れる仕事には適合しなくなっていた。だが彼は、『聖書』翻訳のこの仕事はまだ完全に任を熟す(こなす)ことができると思っていた。そして『聖書』を深く研究することは、彼にとって非常に刺激的なことであった。何ヶ月もの間、彼はずっと自分の書斎で翻訳作業に専心した。9月末、ネビウスは基本的に自分に分けられた翻訳任務を完成した。10月初旬から、彼は翻訳班の別の委員会の翻訳の原稿を校正した。

1893年4月、ネビウスの弟はアメリカ西海岸から兄の家族を訪ねてきた。弟の体も余り良くなく、彼は海上旅行や生活習慣の変化が体の回復に対して助けになるのではと期待していた。

40年来、彼ら兄弟は滅多に会うこともなく、異国で今回彼らが会うのは得難い機会であった。時や場所が変わっても、兄弟二人の詩歌に対する好みは全く変わっていなかった。静かで気持ちの良い幾つもの夜を、彼らは一緒にシェイクスピアや、バイロン卿などの詩を朗読したり暗誦(あんしょう)して過ごしたあるいは彼らは一緒に湾内へボートを漕いで出たり(こぎいででたり)、またあるいは海辺の崖下(がいか)に行きバーベキューをしたが、このような野外活動が多くなかったのは、時間もネビウスについて言えば大変貴重で、たくさんの仕事が彼を待っていたからである。

1893年春、ネビウスは南棟の屋根を全面改修した。彼は、この家が少なくとも20年は大改修をしなくても使用できるようになったと思った。彼がこのようにしたことは、他人の面倒を省か(はぶく)せてあげたかったからである。彼は、いつ彼がここに住むことができなくなるわからないことを知っていたからである。

この年の夏、各地の宣教師が煙台に雲集して、ここでの祈祷集会や伝道会議への招きに参加した。多くの活動は皆ネビウスが自ら準備したものであった。

事前の手配で、1893年秋、ネビウスはヨークソンを伴って各地の伝道場や教会を訪問しなければならなく、それに前後して維県で行われた一回の差会会議と青州府で行われた山東宣教師会議に参加した。

10月18日、この日は水曜日であったが、ネビウスはいつにまして繁忙であった。午前中、彼はまず領事館区に出かけ重要会議に参加した。午後も、彼はまた再びそこに出かけなければならなかった。家に戻った少々の時間で、絶え間なく訪問者と面会するほか、暇を見繕っ(みつくたう)て、外出訪問時に必要なカバンの整理をする必要があった。夜には、ネビウスは夫人の居間に来て彼女に寄り添っていたが、ネビウス夫人はこの時重度の気管支炎を患っ(患う)ていたからである。夜もずっと,ネビウスの元気は良く、会話も高揚していて、少しも焦燥(しょうそう)や不安の様子がなかった。しかし、ネビウスは疲労を心底に感じていて、彼は昨年病に名なった時よりも疲れを感じていた。

二日目の朝、ネビウスは体に少々不調を感じた。朝食後、彼は二階に上がり妻に、自分は大変疲れているようなので、御祈りの前に少し休みたいと告げた。夫人は彼に手を貸しベッドに上げ、布団を被せると、彼をしばらく休ませた。だが彼はまもなく妻の部屋にやってきて、力なくソファに座り込むと、すぐさま腕時計を妻に渡して、妻に自分の腕を測らせた。彼の脈拍(みゃくはく)は断続的で、非常に弱く、あるいは測るさえできなかった。夫人は大変心配であったが、ただ彼に医者を呼ぶべきかどうかだけを訪ねる以外に、言葉がなかった。彼は同意した。しばらくすると彼は立ち上がり家の礼拝室で朝の祈りを捧げた。朝の祈りを一緒に捧げたのは、ベインブリッジ嬢、ジャクソン先生と家内の使用人、そして幾名かの中国人信者であった。前日、ネビウスは「テサロニカの前書」の前半を朗読し、解釈したが、今日は彼を情を込め真に迫ってこの部分を解釈し終えると、最後はいつものように祈りを捧げた。

ネビウスは部屋に戻ると、ディスクの傍らに腰掛け休もうとした。しばらくすると、ダウスウェイト医師が来たので、ネビウスは身を起こして入り口に迎えの出た。そして彼らは一緒に書斎に来た。この時ネビウスの顔色は大変悪かった。ダウスウェイト医師は彼にソファにしばらく横たわるように進めた。彼は「いや、やはりあとで妻の部屋へ行こう。」と答えた。ダウスウェイト医師は彼に「夕べの睡眠はどうでしたか?」と尋ねると、彼は「大変良くて、いつもより良かった」と答えた。彼はディスクの上のものを簡単に片付けていたが、笑いながら振り向くと、唇(くちびる)を何か言いたげに動かしたまま、突然体ごとゆっくりと前倒し(まえだおし)になって落ちた。

この時、ネビウス夫人は2階でダウスウェイト医師を階下に迎えに行く準備をしていた。突然、彼女は、まるで椅子がひっくり返った音のような、尋常でない音を聞いた。

彼女は急いで二階から降りてくると、夫がディスクの前の床板の上に仰向けに横たわり、ダウスウェイト医師は茫然と彼の傍らに座り込んでいのが目に入り、我が目を疑った。ネビウス夫人は「これはどうしたこと?」と尋ねると、ダウスウェイト医師は「ネビウス先生は疲労です」と答えた。ダウスウェイト医師の意見を求めで、ネビウス夫人は急いでブランデーを探してきて、彼の傍に跪い(ひざまずく)て、彼の頭を胸前に抱え、優しく彼の名を読んだ。だがネビウスに少しも反応がなかった。ネビウスの安らかの面持ちを見ると、ネビウス夫人は彼女の親愛なる夫が既に彼女から遠く離れ去ったことを理解した。

ネビウスの葬儀は、10月20日(金)の午後に挙行された。初めにコーベットとダウスウェイトのリードで、人々は教会でネビウスのために祈りを進めた。その後スコット司教とグリーンウッドがネビウスの葬礼儀式を執り行った。コーベットは、講話でネビウスに高い評価を恵与(けいよ)して、心のこもった祈りを伝えた。最後に、人々は二首の讃美歌を共に歌ったが、その一つはネビウスが生前最も好んだものであった。この日は、天気が温かく穏やかで、人々が送って来た生花がネビウスの墓地を埋め尽くした。

煙台の霊園は毓璜頂の西斜面に位置している。何年も前に、ネビウスは自分のための墓地を高い斜面に土地を選んでいた。現在ネビウスの多くの友人が皆ここに眠っている。

そして彼が生前植えた樹木は成長して大変良く茂っている。ネビウスの墓は生花でびっしり取り囲まれており、墓前には墓碑が立っている。墓碑の背面には中国語が鐫刻され、正面上には英文が刻まれていて、碑文は「ジョン・リビングストン・ネビウス。1829年3月4日、アメリカ生まれ,1893年10月19回、芝罘で逝去(せいきょ)。敬虔(けいけん)で、忠実な、献身精神に満ちた宣教師。四十年来、彼は持ちゆる愛の全てを中国人に捧げた。

著者 煙台 王海鹏