米国兵士と青島人の酒文化
1945年8月に日本が投降した後、米軍は青島に進軍を開始した。まず9月16日に、9隻米軍艦が青島港に到着し、青島駐在の日本海軍の武装を解除した。ついで10月に、アメリカ海軍陸戦隊第6師団が青島に上陸したが、これはアメリカが中国で前例のない軍事力であった。
中国に対する影響力を強固する為、中国への軍事介入の柔軟性を維持することは、この軍事力の真の使命である。1946年5月13日、アメリカ西太平洋艦隊は2隻の空母、3隻の巡洋艦、8隻の駆逐艦で青島に到着した。午後4時、アメリカ海軍の兵士は桟橋に上陸した。1946年6月、西太平洋艦隊総司令部が青島に配置替えとなった。同年11月、国民政府とアメリカは秘密協議を締結して、青島は正式にアメリカの軍事基地となった。
米軍は青島での駐留期間に、当地の官民と多くの味わい深い交流を残した。米軍は「石炭と食塩の交換」方法で、海路を日本から青島へ石炭を輸入し、そして運輸艦を国外から青島に食料を運ぶ為に割り当て、青島の食糧とエネルギーの不足問題の助けとした。
同時に、青島市政府は米軍の市内での住宅問題を解決する時に気前良くした。戦後72棟の建物が撤収され、そこから、23棟がアメリカに分配されて、かつ多くは市内で最も広く、快適で壮観な建物であった。
この他、市政府は多数の米軍海兵倶楽部を建設し、その総数は海軍の各単位に所属する住所、兵舎、ガソリンスタンド、物置き場の数量の4分の1に相当した。浜辺の東海ホテルと海に面した回瀾閣は、米軍が独り楽しむ休暇の場所であった。
アメリカの大軍が青島にのさばった時、当地の中国商店の目には、このアメリカから来た「外国人」は、皆羽振りの良いお兄ちゃんに見えた。
米兵のことを言えば、彼らはもともと日本が投降したらすぐ帰国したかったのであるが、結果は異国に留まるざるを得ずに…酒や娯楽で憂さ(うさ)を晴らした。カフェ・、ダンス・ホール、バーなどアメリカ人好みの娯楽施設が栄え出した。
1946年には、青島のカフェは一気に400余りに増え、少なからずミュージックホールはその好みに合わせて、「ハリウッド」などの看板を掲げた。
青島駐留期間に、米軍は当初世間体に気をつけ、軍の規律も良かった。良い状況は長続きせず、米兵はすぐに酒食好みの、好き勝手なことを起こす本性を表しにした。人力車夫を殺傷(さっしょう)し、港湾局職員に暴行するなどの事件が次々と発生して、当地の中国警察とも衝突が相次いで発生し、この種の衝突や傷害事件は当地の民衆の不満と反米感情を引き起こした。
外部勢力として、もし高慢な態度で、強引(ごういん)に当地の物事に介入すれば、当地の住民の抵抗の発生を免れ得ない(まぬかれえない)。いかなる紛争も、善悪を問わずに、錯綜(さくそう)する複雑な政治闘争では、皆変形し、外交摩擦の火種となり、不満が漏れ拡散する可能性がある。
1949年5月、米国政府は国民政府の敗北の確定を見て、遂に3年以上青島に駐留していた米海軍を青島から撤退させることを決定した。それ以来、青島にのさばる外国兵隊は無くなった。
上記の特定の歴史的期間に起こった歴史的事件は、多くの専門家によって書かれた多くの文章からもっぱら描写(びょうしゃ)したものである。我々は特に米兵が青島での生活の為に選述(せんじゅつ)した『青島ガイド』に関心を置いている。
この小さなガイド本を通して、アメリカ人の眼中の青島を見て、アメリカ人の目を通した当時の中国社会と人文文化を垣間見る(かいまみる)ことができる。
本の扉には、ガイドは1946年8月1日の出版で、ガイドには米兵の英文姓名を中国語に翻訳するサービスも提供されている。中国の名字を持つことは多くの米兵にとって中国の都市生活の開始になじむ為に好ましいものであった。
編者はガイドを米兵を「アメリカの同志」と呼んで書き始め、概ね旧日本軍を打ち破ったことにより、米中は同志共進とした。当時、皆旧日本軍を共に打ち破った喜びに浸っていた。この喜びに支払う代価は悲惨なものであった。
青島駐留の米軍陸戦部隊司令官のクレメン准将(じゅんしょう)もガイドに序文(じょぶん)を書いている。彼の青島に対する評価は、古色蒼然(こしょくそうぜん)として面白い街である。彼は部下たちに青島でHave a good time!(楽しい時)を得ることを願った。
アメリカの同志:
前書き
この冊子の目的は、外国人訪問者、特別な我々の友人や、同盟国、合衆国(がっしゅうこく)軍隊の為に青島全ての案内の役に立てることです。第一部は市街と周辺部の本質的な案内を提供します。第二部では外国人客に興味のありそうな場所のほとんどの名称と住所を提供します。彼らは家や家族、友人や最も会いたいと思う人々から離れ、自分の選んだ職や平時の趣味に帰ることを願い、まだ精神に斬新な全ての危険と苦難の戦争の記憶とを、何か精神的に私生活の難問を取り去る少々の気素晴らしと娯楽とを、この外国の都市でも求めます。
1946年5月1日、編集長
北中国の青島にて、 ジェームズ・T・キアン
この青島ガイドで、最も意義ある一文は、作者がアメリカ軍官として隊員と中国人の設けた宴席に出席する時に、必要な注意すべき細かい点で、六つの参考点の提言を提供している。この翻訳では各旅行者が、孔子の故郷である山東の、酒文化が実に大変重んじられていることを、見い出せるのである。
実際、これも一種の基本的な家庭教育の礼儀に過ぎず、中国独自の形式的あいさつで、現在まで青島の酒宴に留まっているものである。だが、ある種伝統的な家庭教育と礼儀に過ぎず、現在の若者はもうあまり知らないし大して重んじてもいない。それが一種の進歩なのか、はたまた後退なのかは分からない。
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