山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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米国兵士と青島人の酒文化

1945年8月に日本が投降した後、米軍は青島に進軍を開始した。まず9月16日に、9隻米軍艦が青島港に到着し、青島駐在の日本海軍の武装を解除した。ついで10月に、アメリカ海軍陸戦隊第6師団が青島に上陸したが、これはアメリカが中国で前例のない軍事力であった。

中国に対する影響力を強固する為、中国への軍事介入の柔軟性を維持することは、この軍事力の真の使命である。1946年5月13日、アメリカ西太平洋艦隊は2隻の空母、3隻の巡洋艦、8隻の駆逐艦で青島に到着した。午後4時、アメリカ海軍の兵士は桟橋に上陸した。1946年6月、西太平洋艦隊総司令部が青島に配置替えとなった。同年11月、国民政府とアメリカは秘密協議を締結して、青島は正式にアメリカの軍事基地となった。

米軍は青島での駐留期間に、当地の官民と多くの味わい深い交流を残した。米軍は「石炭と食塩の交換」方法で、海路を日本から青島へ石炭を輸入し、そして運輸艦を国外から青島に食料を運ぶ為に割り当て、青島の食糧とエネルギーの不足問題の助けとした。

同時に、青島市政府は米軍の市内での住宅問題を解決する時に気前良くした。戦後72棟の建物が撤収され、そこから、23棟がアメリカに分配されて、かつ多くは市内で最も広く、快適で壮観な建物であった。

この他、市政府は多数の米軍海兵倶楽部を建設し、その総数は海軍の各単位に所属する住所、兵舎、ガソリンスタンド、物置き場の数量の4分の1に相当した。浜辺の東海ホテルと海に面した回瀾閣は、米軍が独り楽しむ休暇の場所であった。

アメリカの大軍が青島にのさばった時、当地の中国商店の目には、このアメリカから来た「外国人」は、皆羽振りの良いお兄ちゃんに見えた。

米兵のことを言えば、彼らはもともと日本が投降したらすぐ帰国したかったのであるが、結果は異国に留まるざるを得ずに…酒や娯楽で憂さ(うさ)を晴らした。カフェ・、ダンス・ホール、バーなどアメリカ人好みの娯楽施設が栄え出した。

1946年には、青島のカフェは一気に400余りに増え、少なからずミュージックホールはその好みに合わせて、「ハリウッド」などの看板を掲げた。

青島駐留期間に、米軍は当初世間体に気をつけ、軍の規律も良かった。良い状況は長続きせず、米兵はすぐに酒食好みの、好き勝手なことを起こす本性を表しにした。人力車夫を殺傷(さっしょう)し、港湾局職員に暴行するなどの事件が次々と発生して、当地の中国警察とも衝突が相次いで発生し、この種の衝突や傷害事件は当地の民衆の不満と反米感情を引き起こした。

外部勢力として、もし高慢な態度で、強引(ごういん)に当地の物事に介入すれば、当地の住民の抵抗の発生を免れ得ない(まぬかれえない)。いかなる紛争も、善悪を問わずに、錯綜(さくそう)する複雑な政治闘争では、皆変形し、外交摩擦の火種となり、不満が漏れ拡散する可能性がある。

1949年5月、米国政府は国民政府の敗北の確定を見て、遂に3年以上青島に駐留していた米海軍を青島から撤退させることを決定した。それ以来、青島にのさばる外国兵隊は無くなった。

上記の特定の歴史的期間に起こった歴史的事件は、多くの専門家によって書かれた多くの文章からもっぱら描写(びょうしゃ)したものである。我々は特に米兵が青島での生活の為に選述(せんじゅつ)した『青島ガイド』に関心を置いている。

この小さなガイド本を通して、アメリカ人の眼中の青島を見て、アメリカ人の目を通した当時の中国社会と人文文化を垣間見る(かいまみる)ことができる。

本の扉には、ガイドは1946年8月1日の出版で、ガイドには米兵の英文姓名を中国語に翻訳するサービスも提供されている。中国の名字を持つことは多くの米兵にとって中国の都市生活の開始になじむ為に好ましいものであった。

編者はガイドを米兵を「アメリカの同志」と呼んで書き始め、概ね旧日本軍を打ち破ったことにより、米中は同志共進とした。当時、皆旧日本軍を共に打ち破った喜びに浸っていた。この喜びに支払う代価は悲惨なものであった。

青島駐留の米軍陸戦部隊司令官のクレメン准将(じゅんしょう)もガイドに序文(じょぶん)を書いている。彼の青島に対する評価は、古色蒼然(こしょくそうぜん)として面白い街である。彼は部下たちに青島でHave a good time!(楽しい時)を得ることを願った。

アメリカの同志:

この小冊は、あなたが街についていくつかの事実を知る為にあなたに発行されます。
編集者 ジェームズ・キアン
序文:
この小冊は古趣で面白い街の案内に役たち、家庭で年中愉快な思い出すを提供する場所へ導きます。そして、短時間の滞在でも愉快な場面の連続となります。
私は心からあなたが良い時間を過ごし、青島の人々をより深く理解し、彼らの親しみやすさと歓待を評価して、アメリカへ帰ることを願っています。
ジェームズ・T・キアン 米国海兵准将

前書き

この冊子の目的は、外国人訪問者、特別な我々の友人や、同盟国、合衆国(がっしゅうこく)軍隊の為に青島全ての案内の役に立てることです。第一部は市街と周辺部の本質的な案内を提供します。第二部では外国人客に興味のありそうな場所のほとんどの名称と住所を提供します。彼らは家や家族、友人や最も会いたいと思う人々から離れ、自分の選んだ職や平時の趣味に帰ることを願い、まだ精神に斬新な全ての危険と苦難の戦争の記憶とを、何か精神的に私生活の難問を取り去る少々の気素晴らしと娯楽とを、この外国の都市でも求めます。

そういうわけでこの小冊の大部分の名称と住所は、レストラン、ダンスホールと中華料理の入手できる、つまり彼女を連れ出したり楽しむことができるキャバレー、中国式のホテルの酒家や茶館です。名称と住所は英語と中国語の両方なので、誰もが行きたい場所を選んで人力車夫に見せることができます。

1946年5月1日、編集長

北中国の青島にて、 ジェームズ・T・キアン

この青島ガイドで、最も意義ある一文は、作者がアメリカ軍官として隊員と中国人の設けた宴席に出席する時に、必要な注意すべき細かい点で、六つの参考点の提言を提供している。この翻訳では各旅行者が、孔子の故郷である山東の、酒文化が実に大変重んじられていることを、見い出せるのである。

実際、これも一種の基本的な家庭教育の礼儀に過ぎず、中国独自の形式的あいさつで、現在まで青島の酒宴に留まっているものである。だが、ある種伝統的な家庭教育と礼儀に過ぎず、現在の若者はもうあまり知らないし大して重んじてもいない。それが一種の進歩なのか、はたまた後退なのかは分からない。

一つ、申し出を受け入れる前に三度は上座を断ること。

二つ、酒杯は主人があなたのグラスに(酒を)注ぐ間は、自分の酒杯の右に右手を添えておくこと。

三つ、箸は手にせず、主人がそれを持ち、そして同様に進めるまで待つこと。

四つ、あなたは一口食べた後は箸を置いて、主人が強要するまでは手に触れないこと。

五つ、主人が酒を注ぐたびに、三つ目の動作を繰り返す。

六つ、もし划拳(カケン じゃんけん、数当て遊び)で負けたら(勝つのではなくて)飲むこと。

この第一条では、40年代には、謙譲文化と形式的な挨拶とが、山東の宴席上でそれほど重要であったと見るべきであること。山東での飲酒では、宴席の席次(せきじ)は重要であった。席主は主副を決め、最も高貴な客を大客と呼び、その他官職、序列と年齢を考え、二客、三客、四客…の順とする。
この決まりはアメリカの軍官と隊員に、中国の席主があなたを大客の席に座らせるときに、すぐに「筆頭席(ひっとうせき)に腰を下ろしてはならないことを思い起こさせ、必ず三度の辞退を繰り返すのは、その意味はどうしてこのような重要な席に座れようかということである。主人とその他の客人は、この座席は、ここは必ずあなたに座らなければならず、他人では大客は勤まらない(つとまらない)というのである。
このように応酬を三度すると、皆の一斎の喝采と推挙の声の内に、大客はやっとその大変な席に強いて座るのである。これでやっと礼儀に符合(ふごう)して、中国人は気が楽になるのです。中国人は納得しなくても、気楽にならなければいけない。実際、中国のこの種の謙譲文化は、ただ現在の酒宴(しゅえん)の席次中に体現されるばかりでなく、官職でも謙譲が必要で、皇帝でさえも謙譲が必要なのであり、三度というのは、多くてもいけなくて、少なくても又だめであり、三は万物を生成するのである意味
現在、青島と煙台の現地人の宴席では、大客の着席には多かれ少なかれこの種の謙譲文化を残しているが、兄弟よ(それに)どんな得能があるだろうか、だいたい、そんなにたくさん飲めないではないか。
この第二条では、主人があなたに酒を注ぐとき、右手を酒杯の右に副えます(そえる)。
この決まりは、今でも酒宴の最も基本的な礼儀であるが、現在の人にとってはこの種の基本的礼儀はまったく重要視するものではなくなっている。主人があなたに酒を注ぐときに、この基本的な手の動きが無ければ、隣の人を見つけて無駄話しをするのである。
この第三条では、あなたは、主人が箸を持ち、あなたにもそうするよう求めるまで、箸を取ってはいけない。
子供の頃は、母方の祖父や年長者と食事する時には、祖父と両親たちは特に礼儀に気をつけた。祖父が箸を持たないうちは、だれも箸に手を付けない。老人が席を立たなければ、だれも席を立たない。今の子供に、もうこの手の教育はなく、家族の食事も、各々携帯携帯電話である。
この第四では、口にしたものを食べた後は箸を下ろして、主人の進めがなければ、箸に触れてはいけない。
中国人の宴席では、箸はたった二本であるが、どのように上げ下げするかは、大変重要で、孔子孟子の道徳が今もなお一膳の箸にあるのだ。

この最後では、もし指の数当てゲーム(划拳=カケン)で(勝つのではなく)負けたら酒を飲む。

最後の一ヶ条は私を笑わせた。アメリカ人もこのような方法で中国文化を理解し、酒文化を含んだ。中国文化に馴染むのであった。彼らの思考は、酒を飲めるのは勝者に属するのである。私は、中国人との划拳で、アメリカ人が勝てるのかと、思わず疑ったが、現在では、街中の酒席でも划拳は少なくなって、どのバーでもサイコロを振るっている。農村の宴席上では、たまにはガヤガヤとした、ジャンジャンという划拳の声が聞こえてくる。

編者 煙台 中財智略 邱忠斌