山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

中国に貢献した女傑達

一 ガルヴィン夫人

ジュリア(Julia A.Brown、1837〜1898)は、母方の伯父(はくふ)の家に身を寄せていて、18歳で自立し、25歳でガルヴィン(Calvin Wilson Mateer)と結婚した。結婚してまもなく、ガルヴィンの申請に従い、海外布教を計画し、1864年に、彼らは山東登州へ来て蒙養学校を創業した。ガルヴィンは四方へ布教し、蒙養学校は主にガルヴィンが面倒を見た。彼女は子供達に宗教常識、地理、歴史、西欧音楽を教えるだけでなく、子供達の生活起居、ボタン付け、布団たたみ、清潔衛生、虱(しらみ)駆除(くじょ)まで至れり尽せり(いたれりつくせり)に面倒を見て、学生を誠実な人間に育て、貧苦をいたわり、大変学生達に愛された。

ガルヴィン夫人の編纂した『聖詩譜ー西洋楽法啓蒙』は詳細な音楽理論・階名唱法の教材であるだけでなく、山東民謡の雰囲気を融合した讃美歌の書物で、現存資料によれば、彼女はおそらく近代で最も早く西洋の音楽教育を中国に導入した人であり、彼女は中国の近代音楽教育の源流を開いたという事ができる。ガルヴィン夫人には子供がなかったので、全精力と全ての愛を彼女の教える子供達に捧げた。近代の山東は災難が大変多く、捻軍(華北の反清軍)が二度北上し、日清戦争では日本軍が何度も登州に大砲を打ち込み、数度の大凶作は、皆山東と登州の人民に甚大(じんだい)な災難と恐慌をもたらした。天災や人災の旅に、ガルヴィン夫人は個人の安全を顧みず(かえりみず)、不眠不休で昼夜を見守り、危険を救い困難を助けた。ガルヴィン夫妻は6人の貧困な浮浪児を収容して啓蒙学堂を創設し、数十年の辛酸を嘗め尽くし(なめつくす)、海辺の小さな都市の中に、遂に近代中国で初めての近代大学である登州会館を建築した。

ガルヴィン夫人60歳の年に、彼女の新旧学生達は丹念に刺繍装飾のマントを縫って、各人の名字を刺繍で縫い上げ、また人に頼んで「育英壽母」という字を書いた、金箔押の扁額を特別にあしらい、精を出して彼らを養育したこの異国の女教師に対して心から感謝を表した。遠方の魯西北部(山東省西北部)へ出かけての初めての被災者救済が終了した時、当地の村民は彼女が救助後た220ヶ村の名を縫い付けた「萬民傘」を彼女へ贈り、八方(はっぽう)手を尽くして公用の担ぎ輿(こし)を用意して、前後に大勢を従え県庁前の大通りを経て、駐在地へ6里余りの道を送り出した。

二 メルズ夫人

アネット(Annette E.Thompson 1853〜1929)、アメリカ、ニューヨークの人、ロチェスター聾唖学校で数年教鞭を執っていた。1884年、アネットは躊躇いなく(ためらう)山東登州へ来て、メルズ(Charles Rogers Mills)と結婚して、中国語メル名を梅耐徳とした。
1887年、夫婦はアメリカロチャスター聾唖児童学校の「声なき工作者」から送られた50米ドルを使って、登州で聾唖学生の入学を招集し、翌年、学校は「登州啓喑学館」と名付けられたが、これが中国で最初の聾唖学校である。啓喑学館はロチャスター聾唖学校の教材と自ら編集した「啓喑初析」を教材として、口頭、手話(しゅわ)と身振りで教えた。当時の中国人には耳の障害児に対する教育は理解されず、当時聾唖者が進学や、始めから学費を徴収しないだけでなく、食住を支給するという、この種の事は無かったので、中国人は外国人が聾唖学堂を運営するという事に対してずっと大疑問であった。こういう事情から開校時、募集採用されたのは、三元、劉堂か凱の二名の学生だけである。劉堂凯の進歩はとても早く、700文字を書くことができ、1330文字の漢字を認識して、方言が音節上にある発音の軽重も良く弁別できた。
1892年、啓喑学館は既に11名の学生がいた。同年5月、ミルズ夫妻はアメリカへ休暇へ戻った。休暇中、夫妻はアメリカ中に出かけ、より多くのアメリカ人に啓喑学館への配慮を呼びかけ、中国へ帰ると、彼らは続々と海外の広汎な経済援助を受けた。
1895年、ミルズは心不全(しんふぜん)で世をさり、アメリカ長老会は経費の提供を停止したので、学館は1896年一時閉校された。中国で聾唖者教育を継続する為に、ミルズ夫人は夫を亡くした悲しみをものともせず、あちこち奔走(ほんそう)して、多方面に救助を連絡し、アメリカやイギリスの友人らの援助を獲得した。
学生の募集と将来の発展を考え、1898年にミルズ夫人は学校を煙台へ移した。まず二棟の家を借り、ありあわせて、啓喑学校を恢復した。
1899年9月、賃借期間が迫ると、ミルズ夫人は夫が生前に残した亡くなってから得た生命保険と借金で海辺の土地を買い校舎を建て、1899年11月末に学館は新校舎に移転した。
1902年、ミルズ夫人はアメリカ各地と北欧諸国に行って援助を何度も募り、教友、特にアメリカ各地の長老会と聾唖学校から巨額の資金の援助を得ることができたが、ほぼその全てを傾けた。アメリカの聾唖学校200校では衣食を節約して惜しみなく寄付に応じた。1906年までに、(煙台の)聾唖学校は負債を清算し黒字経営となり、男女学生数は60人に及び、学校もさらに「ミルズ啓喑記念学校」と改めた。また「中国煙台啓喑学校」とも言った。ミルズ夫人は仕事疲れの為に、アメリカ保健省で働く外姪(めい)のカーターに手助けに来るよう頼んだが、カーターは煙台に来ると、中国名を「葛愛徳」として、聾唖者の教育事業に身を捧げた。これから1939年に引退してアメリカに帰国する葛愛徳(カーター)はずっと誠心誠意に煙台での聾唖者教育に従事して、終生未婚であった。
全国各地の聾唖教育事業の発展を推進し、影響を拡大する為に、ミルズ夫人はかつて会話のできる学生を連れて全国各地へ巡回に出かけ講演し、また二期にわたる教師資格学級を併設して、卒業後は北京、上海、南通、瀋陽、天津等の地で聾唖学校を創立し、さらには朝鮮、日本、など東アジア国家の聾唖教育を援助した。1914年に、ミルズ夫人らは学生を伴い朝鮮の開催した極東聾唖者大会に赴き、彼女らが新しく創作した数字方法で3名の朝鮮の聾唖児童に相互で唇形(しんけい)を読み取る動態型の会話法(読話)を教えることができ、「煙台教学法」と称賛され、大会後東アジア各国へ普及された。
メルズ夫人は中国に骨を埋めるつもりであったが、思わぬことに、1927年3月24日に国民党第6軍が南京を攻略して英、米領事館の襲撃があり、外国の宣教師の財産を掠奪し、金陵大学副校長の文懷恩(Dr.John Elias Willams)氏を含む6人の宣教師が殺害され、史上「南京事件」と呼ばれている。この事件は5000名のプロテスタントの宣教師を中国から退転させ、布教活動は基本的に中断し、あらゆる地方の教会は閉門され、信者の流出状況は空前の厳しさであった。この時、ミルズ夫人はちょうど南京へ自ら友を訪ねていて、白髪交りの彼女はこの変事を目の当たりにして、すぐさまアメリカへ帰り、二年後、シカゴで亡くなった。享年76歳である。

三 ロッティー

ロッティー(Lottie Moon 1840~1912)は、アメリカの裕福な家庭に生まれ、多言語に通じた、アメリカ南部で最初の女性修士である。
1873年9月1日、ロッティーは船でサンフランシスコを出発し、10月27日に登州府(今の蓬莱)に到着、登州に到着後に登州北門にあるバプテスト教会で啓蒙小学校を設立し、また牌坊掛街南路に小十字口小学校を建設して、学ぶ機会のない男女児童に学習させた。後に彼女はまた前後して慕貞中学校と育英女子中学校を開設して、児童と婦女、成年を分けて授業した。ロッティーの女子校創設は、それは登州の婦女を無知から脱却させ、啓蒙の歩みを始めることによって、登州の女子が教育の受けられない立ち後れた状態を終結させ、数千年の束縛(そくばく)を解き(とく)、女子の為に教育を受ける権利を争奪し、社会に深く根付いた男尊女卑(だんそんじょひ)の悪習に衝撃を与えた。
ロッティーは中国社会に始めて接触した時、中国の婦女の地位の卑小なことに大変驚いた。彼女が最初に中国の婦女の纏足の風習を見た時、大変びっくりして、書信中で友人に言わずにおられなかった。「彼女たちのあの変形した両足で、不自由に歩く様子は、彼女らの考えが大変立ち遅れている証拠です」。
その後、ロッティーは当地の女性への宣伝に(纏足による)小足の障害や、婦女たちの足枷(あしかせ)の開放を論す一切の努力を尽くした。1878年2月、ロッティーは彼女が創立した女子校で、不纏足運動を率先(率先)して立て興し、纏足者の入学を禁止して、足の開放を入学の先決条件とした。そこで、彼女の学生徒教会内の女性信者はすぐさま纏足をしない先行者となった。この行いもロッティーに中国近代史上の反纏足運動、夫人解放を促進する先駆者の一人になさしめるものである。
ロッティーは山東省で布教、学校経営のほか積極的に飢餓(きが)民衆の救済に当たった。
1912年春、平度(地名)の飢餓があり、この時彼女はもう72歳の老人であったが、ロッティーは自分の貯えてきた食料を周辺の飢餓民に分け与え、その結果本人の健康は厳重な損害を受けて、体重は50ポンド(22.7kg)に激減した。12月1日、彼女は飢え(うえ)て寝込んだので、教会は彼女をアメリカに帰る船に乗せた。
1912年12月24日、船が日本の神戸を過ぎた頃、ロッティー・ムーンは長期の栄養失調で亡くなり、ハドソン・テーラーのような名言を残した。「もし私に一千の命があるのならば、全部を中国の女性にあげられるのに」と。

四 サーストン夫人

マチルダ(Matilda S. Calder、1875〜1958)、アメリカコネチカット州生まれ、1902年9月にジョン・サーストン(John Lawrence Thurston)と結婚した。雅礼協会の派遣を受け、二人は中国へ布教に来た。中国にある雅礼宣教団の職に付き、その団体の最初の会員となった。

1903年、ジョンは肺結核(はいけっかく)をわずらい、アメリカで診察するため帰国せざるを得ず、翌年カリフォルニア州で亡くなった。サーストン夫人は夫を亡くした悲しみを和らげるためさらに仕事に励み、1904〜1906年には、彼女は海外で布教活動をする学生の秘書となり、1906年〜1911年には、中国湖南長沙の湘雅医科大学の教師に派遣され、医務業務も支援して、1911年に帰国した。

1913年、米国北長老派教会、米国メソジスト監督教会、バプテスト教会、米国北バプテスト教会が共同学校理事会を結成し、長江流域に女子大学創設を決定して、最終的に南京を学校所在地としたジョン・サーストン夫人を大学の初代学長に推挙した。

金陵女子大学は1915年9月17日に正式に開校し、長江流域で最初の女子大学となり、全国で最も早期の女子大学の一つとなった。1913年に「金陵女子大」が創建されてから、サーストン夫人は校務を15年統括した。12年の校長生活で、彼女は学校の創設、経費の調達と完成計画に多大の勢力を費やし、教学の秩序の確立と規模拡大の方面にも大変な心血を注ぎ、同時に学生の教授も必要であった。彼女は聖書、天文、大学代数、三角関数、幾何(きか)などの課程を教え、また学校人事、財務と文書報告などの作業や、合唱団の指揮までこなした。

1921年9月から1922年3月まで、ジョン・サーストン夫人は中国キリスト教大学連合に参加して中国全体のキリスト教の高等教育の情況に対する調査をしたが、後に国民政府教育部が教育計画を制定するための重要参考として役立った。1922年、李石曾、陳独秀、李大釗、汪精衛、朱執信、蔡元培、戴季陶、吳稚暉等77名学者が連名で、中国からのキリスト教の退出の強烈な要求を宣言して、全国へ公開電報を打ち、街で「人類無宗教、人類無宗教」と宣伝された。6年間のキリスト教排斥運動を経て、サーストン夫人は十分な感慨を懐いてこの「戦い」から去った。

1928年11月、ジョン・サーストン夫人は校長職務を辞任した。金陵女子大学で行われた新任校長の就任式で、サーストン夫人は彼女の執務室の印章と鍵を校長会理事長の徐亦蓁に引き渡した。徐亦蓁はまた校長会を代表してそれらを中国人校長吳貽芳に渡した。サーストン夫人はこれ以後校務に干渉することなく、顧問、兼任教師として、そして監督者としての身分を構築して厳格に金陵女子大学の為に奉仕した。彼女は辞職演説で「私たちの目標は活気あるキリスト精神を打ち立てることで、キリスト教を以って女子大学の管理を進行してきた。大学は高水準の教育を保持し、社会効率を向上し、精神の発展と最高の人格を促進すべきである」と表明した。

1943年、サーストン夫人は「グリプスホルム号」汽船に搭乗してアメリカへ帰った。その後マサチューセッツ州のオーバーンデールに住まいして、1958年に亡くなり、享年84歳であった。  1922年サーストン夫人と卒業生

五 リトル夫人

アーチボルド・リトル(Mrs.Archibald Little 、1845〜1926),イギリスの派遣した女性宣教師で、実業家リトルの妻である。
彼女が中国に到着して、婦女の巻き足に対する構造的な苦痛と障害(纏足)を見た時、心から悲しんで、「婦女は全人恋の半分も居て、残り半分(男性)の母親でもある。肢体不全で、暗愚(あんぐ)で、心を病(やむ)んだ母親が養育(よういく)する子供も母親と同様(病んでいる)なのである。注目すべきは、纏足が中国に蔓延して以来、中華帝国では一人として世に尊敬される男性を生み出さなかったということである。人々は大声で、そういう人はどこにいるのか、と叫ぶ」と言う。この話には、女性の怒りの叫び声と、また1100年来の中国婦女の本心が充満しているが、中国の婦女はあのようにかえって耐え忍び、声に出すこともできないでいるのは、全く大変痛ましいことである。
1878年、リトル夫人は上海で「天足会」を創設して、また蘇州、無錫、南京、揚州などの地に支部を設立し、同時に巻き足反対のパンフレットを、規模最大の、10万冊以上を印刷しており、最も影響力の大きいのは1895年に上海で成立した天足会で、リトル夫人を会長として、有名な宣教師ティモシー・リチャード(Timothy Richard)の夫人も当会会員であった。天足会の主旨は、「専任の担当が纏足の戒めを進め、論著を作成して世に出して、家ごとに知らせて、会友に在っては、皆同心となり、世を救い人を愛する心を教えることを体裁(ていさい)として、中国女性を抜躍して育成しようとすることを形とする。まずその足の解放を始めとして、その生涯の苦を取り除き、その後教えの導き(みちびく)の方法の示唆を与える。」ことであり、当会の規定は、およそ入会者、みなその家中の女性の足を解放して、かついつまでも女性の巻き足を無くし、また纏足女子を嫁としないことである。
足の巻き込みの悪習を排除するために、彼女は大変精力、物資力を費やし、あるいは余力を残さなかった。リトル夫人は中国権威の重要性もよく知っていて、高官や社会の支持を得る必要があった。

彼女はかつて張之洞(洋務派)の所に行き説得活動を進めたが、彼に天足運動支持の文字を書かせて、人に赤い紙に書き写させて、彼女の天足大会上で見栄っ張り(みえっぱり)な中国官吏の男性たちに展示して見せたが、効果はとても良かった。だが張之洞の支持だけでは役不足で、リトル夫人は西洋女医の関係を通して、深窓中の李鴻章と連絡を取り、バケツをひっくり返したような雨の中彼を訪ねた。李鴻章は張之洞ほど明確に天足運動を支持しなくて、彼は「あなたは私に全国の女性に巻き足をさせないように言わせたいのか、否(いや、いな)、今の私にはそんな大権力はない。全中国の女性に同じ靴を履かせるようなことはできないであろう。あなたは私に張之洞のように何か書かせたいのか?」と言った。そして婉曲(えんきょく)に「私は文章もまずく、老いぼれて、字も書けない」遠慮した。リトル夫人は、彼に自分の扇子(せんす)に何か、どうにか巻き足排除運動の認可を書いてもらうよう、機転を働かせたが、彼はその場で同意した。その後集会ごとに、李鴻章の題詞を披露したが、確実で十分な威力があった。

中国女性の纏足排除はリトル夫人一人の力だけでなく、そのほか多くの宣教師と進歩的な中国人が天足運動の為にたゆまぬ努力を創出してきたのである。だが彼女は天足運動の発起人として巻き足の危害(きがい)について余力を残さず宣伝して、巻き足の悪習排除に巨大な貢献を創出したことは間違いがなかった。

当時の福州道台(知事)は彼女に対して、「あなたはまるで観音菩薩である、中国人には過去に一観音菩薩があり、現在は二尊あり、あなたがその第ニ尊である。」と語った。 リトル夫妻

六 エイルワード

グラディス・エイルワード(Gladys Aylward 、1902〜1970)はイギリスロンドン生まれ、父親は郵便配達人であった。
始め大した教育は受けずに、小間使い(こまづかい)ののち、中国での布教を決心したが、内地会では拒絶されたが、ただし内地会では中国から隠居で帰国した宣教師二名を手配する段取りをした。この二名の老宣教師は即ちサー・ヤンハースペン夫妻で、彼らの下で彼女は上品なオックスフォード英語を練習し、また東方に関する多くの知識を学んだ。1930年の初め、メソジストのある集会で、彼女は偶然中国山西省のもう73歳になる老宣教師ジェニー・ローソンが、後任がなく隠居できずにいることを聞いて、すぐさまローソンに手紙を書いて、「それは私です」と言った。1930年10月18日、28歳の彼女はイギリスを出発し、自分の蓄財を使い果たして、船と汽車に乗り、ロシア、日本を転々として、艱難辛苦(かんなんしんく)しながら、最終的に天津に到着した。そして天津から長い道のりを山西陽城に着いて、年配の宣教師ジェニー・ローソンを見つけ出した。
陽城では、ジェニーは城門外の隊商が往来する道路の傍らにある、大きな中庭のある大きな家を借りていて、そこは現地の人に「幽霊屋敷」として知られていたので、賃金は大変安く、一年たったの1ポンドであった。
彼女らはこの大きな屋敷を綺麗にかたずけていて、容易宿泊所在地として作り替えて、専門に長距離を往来して運輸するラバ使い達に食住を提供していた。この宿泊所は、『聖書』のイエスの「山の垂訓(の8つのさいわい)」から取った、「八福客栈」と呼ばれていた。ラバ使い達の休憩や食事の時、エイルワードは彼らに聖書の物語を語った。多くの人がこのようにしてイエスキリストを信じた。ある日、彼女はある婦人から病気の女の子を買い取ったが、9銭使ったので、「九毛(話し言葉9銭)」と呼び、正式名を恩美とした。後に「九毛」は外から浮浪者の男の子を連れ帰り、彼女は自分の食料を削って、節約して食べ物を男の子にあげるように頼んだが、エイルワードは大変感動して、男の子を留めて、「少小」と言う名を与えた。このようにして彼女の養子とした孤児は次第に増えた。陽城県の知事はそのようなラバ使い達の変化を見ていて、エイルワードを訪ねてきて、当時政府が推進していた「天足運動」を彼が促進する手伝いを頼んだが、エイルワードは承知をしたし、後に彼女はまたある監獄の動乱を知事が鎮圧するのにも加担した。ついには県知事もキリストに入信した。
1936年、エイルワードはイギリスのパスポートを破棄して、中国籍に入った。1939年、日本軍がこの地区には進攻したので、エイルワードはアメリカの『Time 』雑誌上に、日本軍の中国での暴行を訴えたので、日本軍はこの「小婦人エイルワード」を捕らえるために報いると言う告示を出した。
エイルワードはおよそ100人の中国孤児を引き連れ、安全な陝西地区へ越え、踏破(とうは)しなければならなかった。新中国成立後、エイルワードは中国大陸を離れざるを得ず、台湾で孤児院を開設して、1970年に台湾で亡くなり台北に葬られた。彼女は頭を中国に向け葬られ、彼女の中国大陸に対する留念を表している。1949年にイギリスのテレビ局のアラン・バージェス(Alan Burgess)によって彼女の物語が『The Small Woman (小婦人』として著しされ、1975年にはハリウッドで彼女の物語をモデルに映画『六福客桟』が撮影された。

七 マリー・エリザベス・ウッド

マリー・エリザベス・ウッド(Mary Elizabeth Wood)、中国名韋棣華、アメリカ・アグリカン教会の宣教師で図書館司書である。
1889年、マリーはニューヨークから武昌に来て文華書院で教鞭を取ったが、文華書院はアメリカ・アグリカン教会が創設した寄宿学校(きしゅくがっこう)である。図書館で働いたことのあるマリーは文華書院の図書資料の欠乏、教師や学生の参考書のないこと、武漢には一つも大衆が閲覧できる図書館のないことに、すぐに気が付いた。そこで教員を動員して図書や、自分で収集したり自前(じまえ)で購入した出版物を寄附し、学校に小型の図書閲覧室を設立した。この小さな閲覧室は教師や学生に歓迎されたが、これはマリーに、西洋の公共図書館の理念を中国に導入して、大規模な新しい公共図書館を設立する必要を非常に認識させた。自分のこの方面の知識と資金準備の為に、彼女はアメリカに帰国してニューヨークのプラット学院、ボストンのシモンズ大学に入学して、図書館学を学んだ。学習の余暇に、彼女は各大学を遊説し、特にコロンビアなどの大学や教会関係者の大変に賛助を得た。
1903年、学んだ専門知識人と建設資金を伴って、マリーは武昌文華書院に戻った。彼女は文華付近の龔家花園という土地を買って、建設の準備作業を終えた。1905年、文華書院は新しい図書館の為に盛大な起工式を挙行した。
1909年5月、文華書院が文華大学と改められた喜びの日に、図書館の主要部完成し、新しい図書館は「文華公書林」と名付けられたが、大衆化の公開図書館であるが、この品の良い詩的な名は、「公」字を突出させて、「公開、開放、公益」の意義を強調している。1910年5月16日、文華公書林は威勢よく公開の式典を行い、中国近代最初の真の意味での「公共」図書館の誕生を示した。
公開後、公書林は常時講演会、読書会、語り聞かせ、音楽会などを開催し読者を引きつけた。
1914年、また移動図書館を設立して、書籍を選んで各地の学校や組織に預け置き、読者の近くでの閲覧の便を図り、また数週ごとに置き換え、分館を三ヶ所設け、武漢市中の大学中学や市民へ広汎に役立て、市民へ公共図書館の理念と意義を詳しく述べ宣伝した。1914年から1916年に、文華公書林は上海、南京、広州、太原、などの都市組織を巡回講演し、民衆へ図書館知識を普及した。この行為は文化界の広汎な関心を引き起こした。蔡元培は文華公書林を「弥(いよ)いよ衆望を孚(はぐく)む」と称した。1930年になり、文華大学は図書科開設10周年で、60名の卒後生を養成して、その内33名は国内図書館に勤務し、29人は館長を勤めて、彼らは中国10ヶ省余りへ分かれて、全国でも重要な30の図書館で職務にあたった。
マリーは文華図書館と共に呼吸して、命運を共にし、終身未婚であった。彼女は自分の後半生を中国の公共図書館事業に捧げた。当時民国第二代大統領黎元洪は彼女を「中国現代図書館運動の女王」と呼び、段祺瑞は扁額に「導揚文化(文化の宣伝)」を作った。1931年5月1日、マリーは武昌で病没(びょうびつ)した、享年69歳である。

八 アルダーシー

アルダーシー(Mary Ann Aldersey、1797〜1868)は、イギリス東南部のエセックス州の裕福(ゆうふく)な家庭に生まれ、父親のジョゼフは文具問屋(ぶんぐとんや)、母親は名をエリザベスと言った。モリソンが1824年から1826年まで帰国休暇の時、アルダーシーは彼から中国語を学び、伝道の仲間に入ることを希望した。
1844年に、「東方女性教育促進会」の資金援助によりアルダーシーは寧波市内の祝都橋に女性塾を開設したが、これは中国史上初の女子学校となった。アルダーシーは、この悠久の歴史文化を擁する国で、女性でも特に中下層階級の女性は、普遍(ふへん)的に教育の権利を剥奪(はくだつ)されていることを認識していた。そして彼女の理想は女性教育の推進を通して、東方女性の自我意識(じがいしき)と生存能力の独立を推進することであった。開校当時受験生がなく、あるものは彼女が悪魔の化身であり、彼女自身の子を殺して、今また別の子をとたくらんでいると言われたり、またあるいは彼女の開校は嘘で、実は女の子を拐かし(かどわかす)て丹薬を練ろうとしていると噂れた。だから誰も女の子を入学させるものがなかった。
アルダーシーは屈することなく、何度も家長が子供を入学させるよう訪問して、家長に子供の入学後は全く家庭に負担が全くなく、またよく面倒を見て、就学した女児には無償で食住を提供し、さらには衣類や小遣いを支給することを保証したので、ようやく少々の学生が入学した。彼女は始め自費で開校したが、後に長老会と東方女子教育会の資金援助を受けて、女子塾は40名の学生に発展し、教科は国語、算数、刺繍、裁縫などがある。中国史上初めての女子学校となった。一年後、女子塾には15名の学生があり、1852年には次第に増加して40名となった。これらの少数の学生は基本的に社会の底辺から来ている。
アルダーシーは終身未婚であった。中国に到着したあの日、彼女は日記に「今日、中国の人々のところへたどり着いたのは、これもまた私の結婚記念日である。私がずっと興味を懐いていた中国人民達と結ばれたのである」と記した。彼女は1861年まで寧波でずっと活動した。
その後、身体上と年齢の都合で、アルダーシーは隠居を宣言し、学校はイギリスアグリカン教会に引き渡し、オーストラリアのアデレードに向かい、彼女の兄弟の家に住んだ。彼女はそこで「三橋学校」創設に参与した。1868年9月30日、彼女はオーストラリアのアデレードで亡くなる、享年72歳であった。

九 デボラ

デボラ(Deborah Matilda Douw、1835〜1911)、1869年、デボラはアメリカキリスト教長老会海外伝道会に従って初めて北京に到来し、ほかの二名の女性宣教師とともに北京に女子の為の寄宿学校を設立した。

また上海で福音活動のためのダウ財団法人を設立した。デボラが中国で何年か過ごした時、彼女は中国の旧式の出産方法によって産婦と嬰児(えいじ)に重大な障害を与えることに驚いたが、細菌の知識と出産の消毒方法はアメリカでは1850年にはもう普及していたのに、中国のこの時代にはまだ前代未聞なのであった。

1873年、デボラは悲痛(ひつう)な出産を目にした。難産で、赤ん坊の足が先に現れたので、産婆(さんば)は(おまじないで)一足の靴を赤ん坊の足に乗せて、その子が早く出てくれることを切望した。結果は、赤ん坊は飛び出ることもなく、産婦が何度も胸の張り裂ける(はりさける)ように泣き叫ぶ中に呼吸を止めた。とっさにデボラは顔を覆って泣き、家に帰っても大泣きした。

デボラは中国で伝道するとともに、中国の妊婦(にんぷ)と嬰児の為に何かすることを決めた。1877年、彼女はアメリカに帰りあちこち駆け回り寄付を募った、8年が過ぎ去ったが、彼女は8万ドルの資金を募集した。

1885年、彼女は火のつく思いで東からくる船で北京に戻り、募集した資金で安定門十字路の北二条に12室の平屋を建てたが、これが中国最初の産科病院〜婦人病院である。産科業院を建設後、彼女は積極的に新しい方法の出産と予防接種を促進し、妊婦と新生児の苦痛を大幅に減少した嬰児の生存率も顕著に躍進した。彼女はまた北京で最初の看護学校を建設し、医療業務や看護する人員を育成した。これに限らず、彼女は西洋医学を導入し、すぐに全国で多くの教会病院を発展させた。デボラは西洋の先進的な新出産方法を古くさい中国に持ち込んで、古風で無知な出産方法を墓穴に葬った。

1900年、中国で世界を震撼(しんかん)させた「義和団事件」が発生し、デボラは他の宣教師らと領事館に閉じ込められたが、最終的に国連軍に救われアメリカに戻された。アメリカへ帰ってから、義和団が打ち壊した教会や、病院と学校、外国教師や中国の信者が晒し首となって、心臓を奪い死体を捨てたのを思い出して、彼女は涙が涸れることもなく、1911年になって、彼女は悲しみの内に世を去った。

第十 ヴォートリン 

ミニー・ヴォートリン(Minnie Vautrin 、1886〜1941)は中国名を、華群と言い、アメリカの宣教師である。1919年9月、ヴォートリンは南京金陵女子大学から学校の教育系主任及び教務主任に招かれた。彼女は学校地付近に学校に行けない100人余りの児童がいるのに気づいて、児童学校を創設した。
1937年8月15日、日本軍の飛行機が南京に第一回の爆撃を行ったが、アメリカ大使館は彼女にアメリカ国民は南京を離れ、もし慰留(いりゅう)して、自己責任で危険を選べば、アメリカ政府は何ら庇護の責任を提供しないと通知した。だが、ヴォートリンは南京を離れがたく、彼女は日記に書いている。「金陵女子文理学院での18年の経歴と隣人との14年の交流経験は、私に一切の責任を負わせることができて、これは危険の中で、男性が船を捨てて去ることがなく、母親が自分の子供を見捨てるのができないように、私の使命なのである」。
1937年11月中旬、日本軍は南京に向かい3つのルートで猛烈な爆撃で迫った。11月17日にヴォートリンはアメリカ大使館に書信を送り、それらの南京から撤退する方法のない難民が、安全に身をひそめ、身を戦火から避ける、安全地区の設立を建議した。
11月22日、外国人宣教師で組成(そせい)した「南京安全区国際委員会」がすぐさま設立され、ドイツの宣教師ジョンラーべが安全区長に推挙され、金陵城文理学院が婦女児童を収容する難民キャンプに指定され、ついでヴォートリンは「国際赤十字会南京委員会」の設立を要求した。
1937年12月3日、ヴォートリンはアメリカ大使館からの電話を受け、南京のアメリカ人に対して、最後の撤退通知が発出され、彼らに、一、すぐさま撤退、ニ、後に撤退、三、撤退しない、の三択の選択が要求された。ヴォートリンはずっと撤退しないを選び、彼女はまた「私は今中国を置き去りに出来ません」と意思表示をして、その後アメリカ大使館が示した「永く撤退せず」の証書に自分の姓名をサインした。

至る所で掠奪、強姦(ごうかん)、殺戮(さつりく)、のある南京で、ヴォートリンは金陵大学の避難キャンプに婦女児童を引き連れ、途中で占領軍に襲われないかと畏れながら、ヴォートリンは終始隊列の前面で、まるで親鳥が小鳥を庇う(かばう)よう、に十字旗を掲げて歩いた。

校内では、衛兵のように大門、通用門と宿舎の間を駆けずり回り、校内に入って強姦しようとする占領軍の兵士を命懸けで追い払った。

南京大虐殺の期間、ヴォートリンは自身を万民の婦女児童のために、占領軍の蹂躙(じゅうりん)から、避難する港のように捧げたので、南京の難民達は彼女を「生き仏」と呼んだが、この「生き仏」は濡れ衣(ぬれぎぬ)に遭ってしまった。

1940年3月30日、汪精衛は南京で正式に中華民国国民政府を樹立した。1940年4月初旬のある日、『紫金山晩報』誌上に『真実の犯罪』という文章が掲載され、南京大虐殺の間に中国難民が困難を乗り切る手助けをした西洋の宣教師に槍先を突き付けたのである。「真相の衛士」を自称する作者は、「我々はいわゆる慈悲菩薩を見てみよう。ミニーヴォートリンは実は売人で、中国人を売り出す背教者である。我々は必ず彼女を暴露(ばくろ)し、彼女の頭上にある占領軍に捧げられた女性や少女の精算をしなければならない。」と書いた。

ヴォートリンは辞表を提出した。数日後、彼女は病気で寝込んだが、彼女は大変な鬱病(うつびょう)であった。

1940年5月14日、ヴォートリンは黄埔江に停泊していたアジアン・クイーン号客船に乗り込んだ。この時、彼女は中国ですでに28回の春秋を過ごしていたが、汽笛が鳴り響く中で、彼女の心中が如何に傷つき、痛み、空く(むなしい)、絶望していたのか誰も知らない。占領軍のきらりと光る銃剣の下でも、彼女は絶望的な情緒を少しも露わにすることがなかった。この時中国の世論に徹底的に押し潰されたのであった。アメリカに帰国後、ヴォートリンは連合キリスト教組合の一般アパートに住み、ある人が彼女の看護を担当した。1941年5月14日、彼女を看護していた宣教師が出かけると、彼女はガスを開いて自殺した、年齢はまだ55歳であった。この日は、彼女が中国を離れて帰国してちょうど一年であった。ヴォートリンは両親もなく、家族もなく、彼女の弟は彼女の遺体をシェパードという小さな村へ運んで簡単に埋葬した。

ヴォートリンが自殺する数日前、彼女は金陵女子大学文理学院で働いていた時に着用した衣類の小包を受け取った。「あなたが私に送ったものを見た時、私は1世紀前にそれらを見たように見えました。」と、ヴォートリンは返事で言い出した。

一度生まれたら、私は中国人に仕えるつもりです。「この孤独な女性は、死の瞬間に遠い中国をまだ覚えています。枕の下には、涙を流した中国難民と集合写真が置かれていた。