山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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旧フランス帝国と煙台

煙台の都市化は二つの系統に分けられ、第一は城砦(じょうさい)を基礎とする。

軍事城砦としての機能低下以降は中国固有の商品経済の発展に随い、次第に拡大して都市となったが、この系統は第二次アヘン戦争後は勢いがなくなった。第二は自然発展の系統が主流となり、煙台港を中心とした港湾都市化である。外国の資本主義国家の侵入は煙台に近代世界市場の同化を迫り、都市建設は屈辱(くつじょく)の内に重荷(おもに)を負って進行した。以後の各歴史時期に、このニ系統は各々(おのおの)発展し入り混じり融合して、煙台市街の文化の奥行きは豊かになり、最終的に煙台は東西文化の気質を兼備した都市の品格となり、しかもこの種の気質は沿海都市ではあまり見られないものである。煙台の現代の意味での都市機能の、公共官吏や公共衛生は、フランスが煙台を占領して植民侵略基地とした時に、備わったものである。それ以後、病院、教会、学校などの現代的意味での都市公用施設が出現を始め、多くはそのまま今日に残っている。

入植者が煙台に始めて着いた時、西洋人の視点から見ると、煙台は18世紀中頃には都市とは言えないが、その擁する人口と西洋の都市の擁する人口とは逼迫(ひっぱく)。「我々の駐留する地峡(ちきょう)(両海に挟まれた狭い地)と半島一帯を芝罘と呼んだ。宿営地の隣にある村を煙台と言い、大きくなく、10,000から12,000くらいの住民であった。当然ながら、フランスの多くの都市の人口は煙台ほど多くなかった」。煙台に初めて来た西洋人の目には行政中心の登州だけがやっと都市と言えるものであった。フランスの入植者の日記には「我々は主にこの一帯の住民と交流し、煙台と住民との交流も頻繁で、内陸その他の村や登州のような大都市の住民とも往来がある。登州はこの辺りの中心として、商業が繁栄し、我々の宿営地からは32キロメートル離れているが、好奇心の強い住民が我々のこの里まで見物しにやってくる」と書いてある。

一方で、入植者の筆記(ひっき)に、18世紀半ばの煙台も田舎風景で、都市の雰囲気はなかった。「この一帯は村が多く、衛生状態はとても良かった。家は垣根(かきね)で囲まれていて、まるで鉄道の横の防護(ぼうご)柵(さく)のようである。フランスでもかつてこのような垣根を見ていて、大変堅固(けんご)であった。

ところが、5〜6千年前には、中国人はこの種の家を建て始めていて、その中でトウモロコシや、インゲン、エンドウ、山芋(やまいも)など豊富な作物を作っていた。どの土地も花畑のようである。

フランスの入植者は第二次アヘン戦争中に煙台を軍事補給基地とした煙台には軍事施設が造営され、作戦部隊が北京・天津へ向かった時、フランス軍総司令は芝罘に220名の歩兵を残して、一人の営長が統率(とうそつ)して、当地の一切の管理機構を保護する責任を負った。一方で、シャネイ准将は医療船「デュペレ」と「アランポー」号を停泊地に留め共同してこの任務に当たった。煙台に残った200余名の兵士は煙台に現代的な意味での都市管理を進めたが、これはあれこれの方面に関係したが、同時に濃厚な植民支配的な性格を持っていた。主力は既に北京・天津の戦場に赴いていて、留守の200余名の兵力は手薄で、大軍が駐留する時のような躍起(やっき)な掠奪はなく、温和な統治を進めた。残った医療兵は人口集中する市街を消毒した。歩兵は警ら(けいら)の職務に、フランス軍が上陸した時に逃げ出した住民が戻ってくるのを管理するために、整列して市街を巡らした。

当時中国人民の民族意識は未だ覚醒(かくせい)していなかったので、留守のフランス軍は侵略戦略を変更した。第二次アヘン戦争の間、煙台で植民統治をする平穏のように思われた。もちろん今日から見れば確実に民族の屈辱(くつじょく)と悲哀(ひあい)の一ページである。

だが単に煙台の都市化の過程から見ると、フランスの留守部隊の煙台での植民統治は、公衆衛生や公共秩序の管理に対して、確実に現代的意義のある都市管理の行為と見なすことができる。

第二次アヘン戦争以後、中国の半植民地化の程度は絶え間なく深まり、煙台も貿易港として開港を迫られ、入植者の侵入と掠奪は同時に現代文明の火種をもたらした。例えば、煙台山病院は1806年に建ち、煙台毓璜頂病院は1890年、煙台二中は1866年に建った。

著者  煙台 賈子藝