山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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上海の秘密


本当の上海市中心は

一つのホテルにある  本当の上海の中心は一つのホテルにある。本当の上海市の中心は陸家嘴ではなく、また新天地でもなく、さらには静安寺、徐家匯でもなく、上海国際飯店の中にある。

1934年落成の上海国際飯店は黄埔区南京西路に位置して、24階建て、当時アジアで最も高い建築物で、ホテルの一階にある座標識には、ここが上海座標の原点であることが示されている。

上海国際飯店のロビーの中央に白大理石に囲まれた金属円盤がある。表面に上海地図があり、中心に赤い点があり、これが上海国際飯店の位置している場所である。

上海市中心地帯に

気泡を吹き出す井戸がある

上海の中心地区に気泡(きほう)を吹き出す井戸がある。この井戸は静安寺内にあり、井戸から湧き出る水は熱く、昼夜とどまらず湧き出で、まるで沸騰(ふっとう)したお湯のようであったので、「沸井(フっセイ)」と呼ばれる。沸井は海に通じていると伝えられ、そこで、「海眼」とも呼ばれている。

上海開港当時、外国人はこの「沸井」を「Bubbling Well 」と意訳したが、即ち「泡を吹く井戸」の意味である。静安寺は「Bubbling Well Temple (泡井寺)と訳された。

1966年に南京西路が拡幅(かくふく「されると、沸井は埋められた。その後、地下鉄2号線静安寺駅建設の時、この井戸は再び掘り起こされ、井戸がうめられたとき(中に)突き落とされた石の欄干も掘り起こすことができて、現在上海市博物館所蔵となっている。

2009、800年の歴史を持つ静安寺湧泉は南京西路上に新しい「居所」を得た。

三 上海の無人島

上海のような大都市にも無人島がある。そうである、上海は混雑しているが、意外にも無人の小島がある。それも一つにとどまらず、およそ20も。その内14座は岩盤の島で、8座が沖積(ちゅうせき)による島である。比較的有名なのは、大金山島、小金山島、浮山島など。

特別なのは金山区の金山島である。そこは上海市の最高地で、上海市の平均海抜が4メートルで、大金山島の大金山主峰は103.4メートル、佘山の海抜は99メートルである。

大金山島はずっと対外的に開かれておらず、よってこの島の環境は大変自然のままである。大金山島には多くの珍しい動植物がとどまっていて、なかなか見られないものであり、例えば国家二級保護植物の舟山新木姜子(シロダモノキ)、三級保護植物の紅楠(タブノキ)、天竺桂(ヤブニッケイ)などである。島には100匹のアカゲザルがいて、自然景観はとても優美である。

以前、上海周辺の五つの無人島が新ランドマーク開発に有望で、上海周辺海域の21座の無人の島や砂洲の機能区域で計画が進行していると報道されたが、これがガセネタであることを願うのである。

四 上海にはなんと岳飛の子孫がいる

上海にはなんと岳飛の子孫がいる。金山区楓涇鎮新義村徐涇徐涇3組に生活する30戸の岳姓の家があり、当時岳飛の孫岳珂(岳霖の子)が嘉興軍府兼管内勧農事に派遣された。

1851年、東南戦乱(大平天国の乱)で、岳家の末裔は嘉興周辺へ逃散(とうさん)し、その一組が金山楓涇へ逃げ落ちた。時とともに、代々と岳家の人は新義村に繁衍(はんえん)して生活した。

2015年現在、全村で生存と故人となった岳家の人は272人で、新義村では今でも存命の岳家の後裔(こうえい)が100人余りいる。

五 世界初の億万長者が上海に残した「遺産」

世界初の億万長者ロックフェラーは1890年に上海に来ただけでなく、上海にも少なからざる「遺産」を持っていた。

例えば彼は四川中路に「モービル」株式会社の事務所として二棟の洋館を建造し、後に広東路96号に4階建てのビルを建て、浦東慶寧寺一帯にも200畝余りの土地を購入した。

長寧区愚園路753号の一棟の家はロックフェラー公の邸である。ここは800平米の別宅と5,500平米のイギリス式の8階建ての邸宅で、ロックフェラーはルイス・サリヴァンの建築設計事務所に設計を委託したものである。しかし邸宅が完成しても、ロックフェラーの家族は住むことなく、ここは当時の外国投資家たちが上海で集まるプライベート・クラブとなった。

六 松江二中の校門はかつての上海の城門

松江ニ中の校門はかつての上海の城門である。上海地区の旧城門は基本的に皆取り壊された。ただし、一つだけ残ったのが、上海二中の校門である。

1904創立の松江ニ中は、始め松江府中学堂と呼ばれ、学校は今までに5万名の卒業生を育てている。その校門は以前の松江府の城門、千年の古城楼「雲間第一楼」である。

七 上海も斜塔がある

上海には斜塔がありピサの斜塔よりも傾斜している。1079年(北宋元豊二年)に建てられた護珠塔は、また護珠宝光塔と言い、石ブロック組で、七階建て八角形、高さ18.82メートル、上海市松江区佘山鎮天馬山に位置する。

千年以来、基礎の変動で、当夜徐々に東南へ傾いていて、2015年現在、護珠塔は東へ2.28メートル偏り、傾斜度7.10度である。傾斜が有名なイタリアのピサの斜塔を超過しているので、「上海のピサの斜塔」の呼び名がある。上海の一大珍景となっている。

八 上海市第三女子中学には意外にも男子生徒があったことがある

上海市第三女子中学には意外にも男子生徒があったことがある。この学校の全国は夙に(つとに)1881年の女学校と1892年の上海中西女子中学に遡り、1952年、合併(がっぺい)して上海市第三女子中学と言った。1969年更に上海市第三中学となった。

1981年に回復して上海市第三女子中学となった。

上海市第三女子中学の校史の中で、1969年から1981年まで男子生徒がいて、1981年以後はこの学校は女子中学としての編成に回復された。

九 浦東空港から虹橋空港へも意外にも飛行機が飛んでいる

上海には二つの空港があり、虹橋と浦東である。だが知っているだろうか。二つの空港間には意外にも飛行機が行き来しているのだ。全行程16分、航空券20元+20元の燃料費+50元の航空建設費の、合計80元である。だが、これはただ航空内部通常の調整運行で、商業飛行でなく、また(一般)旅客も航空も航空券の購入や搭乗にも関わることがない。搭乗者も皆空港内部の従業員で、航空券の対外販売もない。

十 生煎饅頭(おやき)1両はなぜ4個か

「生煎1両下さい」で、店主はいつも4個をくれる。だれもが知っているが、一両=50グラムで、4個の生煎は明らかに50グラムに留まらないが、それではどうして1両の生煎が4個なのであろう。

もともと配給票が供給されていた時代には小麦粉を買うのに糧票が必要で、1両の糧票で買える小麦粉を、用いて作る生煎は4個に相当したのでこのように伝来していて、1両は生煎の皮(の重さ)で(具を)包んだものではないのである。

信じられないのならば、1両を購入すべきで、肉だけ食べれば、確かに50グラムぐらいなのである。

十一 上海人はなぜ模造品を大興貨(ダイコウカ)と言うのか

「大興」とは、実は早く民国時代からあった。当時の青帮(チンパン、闇仲間)の会話中に「大興」があり、それは根拠のない発言をした人物の模倣でした。その後、これらの「江湖切口)川が溢れる嘘を意味する言葉が一般に漏れ出して)」、上海人の俗語となって行った。

上海にはかつて南市街に「大興街」と言う街があり、北は大林路より南は陸家浜路までである。1908年に道路が建設され、当初は黄闕家路と呼ばれた。その後、黄家闕路を大興路と改称した。

旧上海では。この街に多くの金模造工場があり、当時の人々はこの模造品を「大興貨」と呼んだ。そのうちに、人々は模造品自体を「大興貨」と呼ぶようになった。

十二 サフラン(蔵紅花)はチベットではなく崇明島から来ている

サフラン(蔵紅花)と言えば、きっとチベットを思い起こすし、サフランはチベット経由で中国へ伝わったと言われているので、名をとって蔵紅花となった。だが、実際はチベットの気候は全くサフランの栽培には適していない。
中国のサフランの最大の人口栽培は上海崇明島である。

十三 外白渡橋はなぜ白くないのか

1856年、第一代外白渡橋ができて、名を「ウェルズ橋」と言った。1876年、第ニ代外白渡橋が建設されたが、木造橋で、名を「公園橋」と言った。

上海語では船で川を渡ることを「擺渡(ハイト)」と言うが、外白渡橋は蘇州河を遡上(そじょう)する最初の渡し場近くにあり、地元の人は習慣的にこの渡し場を「外擺渡」または「頭擺渡」と呼んでいた。

公園橋は一切通行費を取らなかったので、上海方言では「白」字は金銭不要の意味であり、「白」字と「擺」字とは発音も似ていて、しばらくすると「擺渡」が「白渡」に変わり、外白渡橋の名がこのように踏襲されている。

後に公園橋は幾度か補修されたが、交通発展の需要には適応しなくなって、1906年に、租界(建設)局は代替(だいたい)として鉄鋼(てっこう)橋の建設を決定し、同年工事を開始した。

1907年外白渡橋(鉄橋)が完成し今まで襲用している。

十四 上海の小籠包は上海人の発明ではない

1861年、多くの杭州から出た難民が上海に逃げてきたが、上海の小籠包の発明者詹大勝もその中の一人であった。10歳に満たない彼は南翔の日華軒と言う餅菓子店の黄店主に養われ、名を黄明賢と改めた。黄店主が亡くなると、彼は餅菓子店を引き継ぎ、経営をマントウ、ワンタンなどに改めた。彼は試しに豚肉の餡の中に肉汁の煮凝り(にこごり)を加え、小麦粉の皮を手繰り寄せて包み、蒸し上がった時に、煮凝りが液体となった。これが今日食べる小籠包の中のスープなのである。

南翔小籠包の製作は非常に厳格で、全て9つのプロセス(工程こうてい)があり、和面(和面)、醒面(目を覚ます面)、压面(プレス面)、搓条(ひも作り)、摘胚(ちぎり)、揉胚(揉み、もみ)擀皮(皮延し)、包馅(餡包み)、烹煮(蒸し)を含む。製作を追求し、質量を重んじたことにより、南翔の名物点心となった。

南翔小龍包は皮が薄く、餡が大きく、汁も多く、味は鮮烈で、形が美しいので名高い。精白の小麦粉を選んでよく寝かせ皮とし、1両ごとに10個の饅頭を作り、その薄皮は見事である:上等のもも肉を選んで餡とし、化学調味料を使わず、鶏の出汁を煮凝りとして、餡肉に練り込み、その新鮮なものを取り、汁を多くする;餡には少量の細かい切ごまを振りかけその香りを取り込む;季節ごとに、蟹粉または小エビ、筍(たけのこ)を加えて、季節感を取り込む;一個に3銭(15グラム)の餡を加え、小秤を使ってぴったり以上とし、小さな小さな肉まんの一個ごとの14本の襞(ひだ)は、本当に小さく見栄え(みばえ)のするものである。

せいろから出す時どの饅頭も透き通っていて、それを透明饅頭と呼ぶ人もいます。しかも日華軒の饅頭は、販売前に検査して、どれでも饅頭一つを小皿に取り、箸で突き刺して、スープが皿一杯にならなかったら、店の名誉のために販売しません。

2007年、南翔小龍包製作工芸は初の「無形文化遺産」に登録されました。

第十五 上海はなぜ「魔都」と呼ばれるのか

魔都は1930年代に起こった、上海の別称である。20世紀初頭、上海に寄寓(きぐう)していた松村梢風にベストセラー『魔都』があり、彼が初めて上海を「魔都」と読んた人である。その後、一世風靡(ふうび)したアニメ「中華小当家(日本では『中華一番』)」でも上海を魔都と言った。次第に「魔都」は上海の代名詞となった。

少しだけ、このアニメを根気よく見れば、このように秘密的な都市が、どうして魔都と呼ばれるのか共感するものがあるだろう。

第十六 宝山は実際に山である

宝山はなぜ宝山かと言うと、それは宝山と言う山があるからなのか。答えはつまりは正解(せいかい)である。

宝山は本当に山によって名を得た。1412年、地域内の海浜は、現在の浦東高橋東北の近海のところに、かつて人口的に土山(どざん)を築き上げ、航海の標識として長江に出入りする船舶の案内とした。永楽年間に名を宝山とした。この山は1852年(明万歴10年)に海の崩れ落ちたが、その名の宝山は今なお踏襲されている。

第十七 上海の人々はなぜ13時を言うのですか

時計は12時です。なぜ上海人は13時を言うのですか。

この格言は、上海語の中で最も使用されている単語の一つです。出典の解釈は異なり、英語hysteria (枯渇こかつしたスデリ、即ち、病気)の「アーティチョーク」であると考える人もいますが、病気の一般的な症状は狂気(きょうき)の焦り、言語の曖昧さ、そしてそれとは大きく異なり、この限界に同意しない人もいます。


1922年の「上海ガイド、上海方言紀要」によると、「痴」と言う言葉は13点で描かれており、上海人は「十三点」で痴を暗示している。「十三点」と言う言葉は、主に認知症などの無知な脳病を指すために使用され、この単語は女性の口から多く、男性はこの言葉をあまり使用しません。「十三点」は「痴」からの「認知症」から来ているため、「B拆開」「受話器」(古い受話器には13の小さな穴がある)など、十三点と完全に同義の単語が数多く出てきます。

「十三点」は、当初は「時計を鳴らす」と言う意味で、古い時計は、例えば、午後4時、振り子が4回鳴り、5時に5回、最大12時、12時まで鳴ったが、13回鳴った。それは正常ではありませんか?

時には冗談の言葉でも、友人同士は13時を大いに呼び合っても構わない

第十八 上海の「双妹」意外にも二人の男性

上海の「双子(ふたご)のお嬢」は意外にも二人の男性である。お嬢は1898年に誕生した上海ブランドで、(上海家化《Shanghai Jahwa》前身)広生行(母子用品)の創業者馮福田の創作で馮氏が夢の中で霊感を得たものである:理想的な女性は「嗲:DIA(ディエ)」と「佳:JIA (ジィア)」の気性(きしょう)は融合一体して、まるで二論草のようである。

DIAは中国語の上海女子話や物腰の小粋(こいき)でしとやかさが、内面から染め出している女性の様子。JIAは中国語の病者する女子の聡明利発で、キッパリとした腕利き(うできき)で、これは上海のこの街独特な女性の卓越した気質である。双妹ブランドは「嗲DIA」「佳JIA」二文字を使用して簡潔洗練して精彩な上海女性特有の両種の気質を概括している。


当時女性モデルを見つけるのは困難だったので、ブランド広告会社は二人の容貌端正な男子を選ぶしかなく、そこでこの一枚の豪華な花園に二人のチーパオ(チャイナドレス)を着けた色白で気品のある美少女が肩を並べる定番ポスターがあるのである。