幼稚園の園長から見た上海の習慣
私が通った幼稚園の園長は上海の女性で、夫とともに芝罘に来た。お世辞ではなく、身長、スタイル、性格、服装まで宋慶齢そっくりである。
1960年代中期、華麗な服装は許されなかったが、粗末な古着でさえ彼女は綺麗に洗って、きちんとアイロンがけして、身体にあった感じは、見ていて心底よいものであった。国光巷の四合院(中庭のある建物)の主屋に住んでいて、部屋は広かったが、片付かず、あちこち散らかっていた。地元の人は彼女を怠け者だと言うが、私は「もし怠け者なら、なぜ着物はこまめに洗うのだろう」と、疑問に思った。後にこれは上海のある種の習慣であることを知った。
以前の上海は住宅が密集し、大変込み合っていて、広々(ひろびろ)として明るいと言う条件の家は無く、時とともに綺麗に片づいた家は無くなった。だが上海は中国と西洋が混合して、煌めいた(煌めく)大都市であったので、人々の交際は激しく、自然と着る物に注意が払われるのである。
旧上海と周辺地区には、ずっと「千軒の財、八百着」と言う俗語が流行っている。それは「衣装(いしょう)箱をひっくり返した」ような上海女子は好ましく、家の全財産の、ほとんどを身につけているという事である。「流行に乗る」という風潮は、上海の色とりどりなファッションを推進し、アパレルが上海の一代産業となっている。
1930〜40年代、上海の洋服仕立て屋は2,000軒あり、針子(はりこ)は4万人余り、およそ20万人がアパレルで生計を立てたが、当時の上海人口の10分の1を占めていた。ファッションとは衣服以外にも、装飾も大切である。
上海人は新しいファッションを挙げても上げきれないほど作り出して身につけるばかりでなく、さらにこのファッションを、首飾り、頭飾り、帽子、バッグ、手袋、ネッカチーフなどで引き立てたし、オールドファッションも一度飾り立てればにわかに精彩を持って趣き深く光り輝くのである。一般女性が着飾る知恵と才能は無視できないが、日常生活は彼女らのファッション・ショーで、比較できないファッションの風物詩を展開しており、プロのデザイナーは彼女らの装い(よそおい)からヒントとインスピレーションを得るのである。
もし上海の民俗の表現形態を色々な生活が相互に連なった鎖(くさり)に例えると、その鎖で最も目立って、最も敏感な鎖の輪はファッションである。上海に住む市民にとって言えば、ファッションとは単に寒さを遮るだけでなく、身分や地位もするものなのである。
そこで、一般大衆は、たとえ身分が低くても、人前で着ける服飾は不格好(ぶかっこう)にしないのである。そこで、中国最大に対外貿易港として、上海は早くから西洋文明に接触するいて、上海人も最初にこの文明のもたらす商業的な息吹(いぶき)を感じ取った。西洋の服装や、西洋の生活方式は、数千年閉ざされた中国人の耳目(じもく)を一新し、また彼らがもたらした「洋」字の付くものになんとなく畏敬(いけい)を覚えたのである。
そのような洋行(外国商社)で働く中国の若者たちが先に長い弁髪を切ってスーツを着た。やがて、上海の街中で便利で「おしゃれ」な服装が流行した。上海の人々はそれが身分の象徴だと思っているので、身なりに気を使う。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。