山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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幼稚園の園長から見た上海の習慣

私が通った幼稚園の園長は上海の女性で、夫とともに芝罘に来た。お世辞ではなく、身長、スタイル、性格、服装まで宋慶齢そっくりである。

1960年代中期、華麗な服装は許されなかったが、粗末な古着でさえ彼女は綺麗に洗って、きちんとアイロンがけして、身体にあった感じは、見ていて心底よいものであった。国光巷の四合院(中庭のある建物)の主屋に住んでいて、部屋は広かったが、片付かず、あちこち散らかっていた。地元の人は彼女を怠け者だと言うが、私は「もし怠け者なら、なぜ着物はこまめに洗うのだろう」と、疑問に思った。後にこれは上海のある種の習慣であることを知った。

以前の上海は住宅が密集し、大変込み合っていて、広々(ひろびろ)として明るいと言う条件の家は無く、時とともに綺麗に片づいた家は無くなった。だが上海は中国と西洋が混合して、煌めいた(煌めく)大都市であったので、人々の交際は激しく、自然と着る物に注意が払われるのである。

旧上海と周辺地区には、ずっと「千軒の財、八百着」と言う俗語が流行っている。それは「衣装(いしょう)箱をひっくり返した」ような上海女子は好ましく、家の全財産の、ほとんどを身につけているという事である。「流行に乗る」という風潮は、上海の色とりどりなファッションを推進し、アパレルが上海の一代産業となっている。

1930〜40年代、上海の洋服仕立て屋は2,000軒あり、針子(はりこ)は4万人余り、およそ20万人がアパレルで生計を立てたが、当時の上海人口の10分の1を占めていた。ファッションとは衣服以外にも、装飾も大切である。

上海人は新しいファッションを挙げても上げきれないほど作り出して身につけるばかりでなく、さらにこのファッションを、首飾り、頭飾り、帽子、バッグ、手袋、ネッカチーフなどで引き立てたし、オールドファッションも一度飾り立てればにわかに精彩を持って趣き深く光り輝くのである。一般女性が着飾る知恵と才能は無視できないが、日常生活は彼女らのファッション・ショーで、比較できないファッションの風物詩を展開しており、プロのデザイナーは彼女らの装い(よそおい)からヒントとインスピレーションを得るのである。

もし上海の民俗の表現形態を色々な生活が相互に連なった鎖(くさり)に例えると、その鎖で最も目立って、最も敏感な鎖の輪はファッションである。上海に住む市民にとって言えば、ファッションとは単に寒さを遮るだけでなく、身分や地位もするものなのである。

そこで、一般大衆は、たとえ身分が低くても、人前で着ける服飾は不格好(ぶかっこう)にしないのである。そこで、中国最大に対外貿易港として、上海は早くから西洋文明に接触するいて、上海人も最初にこの文明のもたらす商業的な息吹(いぶき)を感じ取った。西洋の服装や、西洋の生活方式は、数千年閉ざされた中国人の耳目(じもく)を一新し、また彼らがもたらした「洋」字の付くものになんとなく畏敬(いけい)を覚えたのである。

そのような洋行(外国商社)で働く中国の若者たちが先に長い弁髪を切ってスーツを着た。やがて、上海の街中で便利で「おしゃれ」な服装が流行した。上海の人々はそれが身分の象徴だと思っているので、身なりに気を使う。

李伯元の『文明小史』第十六回では一日中洋服を着て革靴(かわぐつ)を履いた上海青年が外見はしゃれで気品があるが、その中身と言えば貧乏で打てば響くような「洋服の浮浪者」であり、彼は友人に自分が洋服を着るのは、中国服のように年中季節ごとに着替える必要がないからだと言っている。これは諷刺ではあるが、返って普通の上海民衆のハイカラ好きが返って経済的に苦しくなる矛盾した心理を描き出している。

上海の錦江飯店の創始者董竹君は、年老いてから上海の大社長栄徳生の勤務先でセールスした情景を思い起こして、書いている。「衣服を大事にして人を軽んずる上海社会では、貧乏であっても品物を売るにあたっては一揃い(ひとそろい)洋服と靴を付けなければ、人にバカにされ、仕事ができる場所など考えられないのである。私はマネージャーのように白シャツに、濃紺のスカート、墨染の薄手のコートに、黒靴を着けて、首には組み紐(ひも)で万年筆をぶら下げた。私は業務カバンと巻糸の見本を持って、栄徳生の勤務に行くと、門衛にひとしきり詰問(きつもん)されたが、なんとか放され入いれた。

魯迅は上海の服飾に印象深い感銘を覚え、書いている。「上海の生活は、流行のファッションを着るよりもスーツの方が安い。もし古い(中国)服であれば、バスの車掌はあなたの停車の声の面倒を見ないし、公園の監視員は入念に入場券を検査し、お屋敷やホテルの門番はあなたを正門から入れてくれないであろう、

だから、一部の人は粗末な宿に泊まっても、南京虫におびえながら、ズボンを毎晩 枕の下で押しつぶして、腿の上二面に折り目を毎日角張らせるのである。

上海の俚諺(りげん)に「天火が怖れずして、どぶに落ちるを怖れる(財布が火の車でも汚くなりたくない)」、また「シルクを着けても、晩飯食えず」「シルクを付けても、家は臭い」と言う。上海の俚諺はまさにこの種に類する雰囲気を克明に描写したものである。私の園長の生活様式もっこの種の雰囲気を具現したものである。

ここを見て、あなたはもしかしたら、家を片付けるのが嫌いな園長が管理する幼稚園はどうなんだろうかと、疑問を持つかもしれないが、窓は明るく綺麗で、埃もなく、整然とし、洋風で、トップクラスに属して、とても幸福なのである。

著者 煙台 張宜中