前世青島:三棟のドイツ軍兵舎の建物屹立
青島には四棟の清軍の兵舎があった。建築様式から見ると、四棟の兵舎は外洋内中で、つまり営門は洋式で、塀囲いの中は、全く中国式であった。ドイツ軍が青島を占領してから、住むべき兵舎がなかったため、「鳩居鵲巣きゅうきょじゃくそう」のように、各部隊は以前の清軍兵営に駐留した。遺憾なのは、この四棟の清軍兵営は、ドイツ人が上陸して間もなく、全て解体された。画像は元の清軍広武中営の全景で、撮影者が今の青島福山路一帯を俯瞰して撮影した初期青島の「ワイドスクリーン」である。
(その写真では)兵営内の建築は、南の営門から、最北のトイレまで、ありありと数えることができる。中心軸上のホールから、両側にいくつか独立する四合院(中庭式の建物)、渡り廊下、宿舎などが、ありありと目に浮かぶ。軍官と兵舎の宿舎は、区分を明確にしている。
面白いことに、これほど大きい敷地外に、通用口や裏門がないのである。つまり、この中に住む人は身分の高低に限らず、たった一つの門から出入りするのである。なるほど当初ドイツ軍が上陸後、駐軍を兵舎に詰め込むのには有効的であった。
これは広武兵営(砲中隊)の営門である。膠澳駐留軍の他の三ヶ所の兵営同樣に、営門は皆洋式で、歩哨(ほしょう)詰所(つめしょ)と街灯も洋式である。上方の楣(まぐさ)の上には、石の扁額に「営門」と刻む。
1899年夏、チフスと回帰熱が青島を襲撃し、青島旧清軍に駐在するドイツ軍に重傷(じゅうしょう)を与え、第2代膠澳総督オットー・ヤシュケもこの傷害で亡くなった。
このことから、青島の駐留軍は兵営内の衛生状態は大変悪く、風通しと排水系に不足する問題で、大事に至った。ベルリンでは、青島駐留のドイツ軍のために兵舎を新築することを決定した。そこで、青島には今日まで屹立する三ヶ所のドイツ軍兵舎の建築群がある。画像はイルティス兵営である。
モルトケ兵営。ベルンハルト・フォン・モルトケ(Bernhard von Moltke)はプロイセン王国統一ドイツの元勲で、世界的に有名な軍事家、生前は、国王ヴィルヘルム1世、宰相ビスマルクと共に「統一ドイツの三大英雄」と称えられた。彼の名を極東の兵営に冠したのは、ドイツ人がその衣鉢(いはつ)を継承したいとの願いを自然に体現している。
ビスマルク兵営はドイツの青島租借時代の典型的なドイツ中世の都市洋式の建設である。ネオゴシック様式の設計と労山花崗岩を大胆に採用して、各兵舎は軍人の住居のように見えず、大変ドイツのある海岸の大型リゾートホテルに似ていた。
青島では、ドイツ極東艦隊は自前の基地を持っていた。
膠澳湾を占有した当初、艦隊司令官のデードリッヒは勿論、ベルリンの海軍部まで、たった3隻の軍官と1千人に満たない膠州湾の守備では、兵力が大変不足していて、非常に緊張していた。上海で整備していたコルベット「アフナー」号が11月17日火急に膠州湾に到着し、香港の「イレーネ」巡洋艦も日夜を継いで掛け参じた。
両艦の合流で、デードリッヒと海軍部は一息ついた。
ハインリヒ親王の乗船する「カイゼリン・アウダスタ」号(SMS KAiserinAugusta)が、青島に着いてから、「皇帝」号に代わって、艦隊の旗艦となった。画像は膨大な極東艦隊の「カイゼリン・アウダスタ」号と防衛巡洋艦「イレーネ」号が膠州湾を自由に横行している。
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