山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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前世青島

青島村の本来の名は胡家荘で、明代の軍の胡氏一家が土着したことによるが、後に村近くの海上にある青島によって名を改めた。ドイツが青島を占領した時、青島村はもう500余年もあり、それで人も多くなり上、下両村を形成していた。村民は漁捕であったり、農業、商売をした。

ドイツ人の記録する青島島民は、穏やかで、闘争を好まなかった。

ドイツが青島を二年租借してからは、青島村はもう存在せずに、総督府は全体を膠澳保護地域として計画し、青島村一帯は軍事機構の所在地と欧米人の居留地区となった。このため、全村の屋敷と土地は総督府に買収され、彼らは周辺の鮑島村と台東・台西へ行き定住した。

青島村に近づくと建築は、家の壁、庭囲い、豚小屋まで全く石ブロック積である。全ての建材は、当地に無尽蔵の石ころで、即ちドイツ人が来て以来有名になった労山花崗岩である。画面中央は全部石積の農家であるが、空き家として使われていない。

左右両隣は居住者がある家で、石ブロックの壁・基礎ばかりでなく黒レンガの壁である。現在、観光客は労山東海岸線の青山村や黄山村で1・2棟のこのような石ブロックの家を見つけるだけである。はたして、100年余り前の、青島ではこのような石造家庭でばかりであったことを知っているだろうか。

総兵は正二品の高官であったので、青島総兵役所は山東省莱州府即墨県の支配地に建てられていたが、かえって山東省内屈指の大役所の一つに数えるべきで、大清国山東省青島軍区司令部を称するに足り、あるいはやはり中国最後に建築された総兵役所であるかもしれない。

写真の建物は、これは黒レンガ黒瓦の建築群で、落成して僅か4年であり、眞新しい。写真の右側の超大型の目隠し壁と左側の中国式大門の建物は、この役所が地方役所階級を上回るを顕示している。目隠し壁の前には、暗い軍服を着たドイツ兵士が隊列を組んで立っていた。これはたぶん海軍戦隊の軍服である。白い軍服を着る者は、海軍軍官である。記憶すべきはこの役所大門外の二本の目立たない小樹である。写真からは、見ても二本が何の木かわからない。しかし青島の歴史に詳しい人には、それが二本の銀杏で、今もなおあり、もう点を仰ぐ大樹であることを知っている。

ドイツ人が青島を占領してから、青島口に残った中国建築は、総兵役所と西側の天后宮であった。

これは青島口の最古の伽藍であった。本来、総督府はこの古伽藍は、将来の洋式の都市計画には完全に不一致であったので、取り壊す予定であった。だが、地元の商人傅鴻俊は総督を訪ねて、この青島で唯一の明代の建築物の保存をして、中国人の信仰と、商人紳士集会の場所として保全するよう請願した。そこで、総督ローゼンダールは民意に従い、建設局の計画設計師計画を白紙にさせ、山東路鉱山会社、徳華銀行、プリンツ・ハインリッヒ・ホテル⋯⋯と、西から順に描き始めた。

ヨーロッパ人にとって、中国人の居住条件は言い表せないほどであった。そこで、彼らは欧米人の為に快適な行政区と居住区を計画しただけでなく、彼らが統治する為に大鮑島中国人地区を造営し、その他、原住民と外国人労働者の為に東鎮と西鎮を建造した。

基礎的な工程から初めて、ドイツ人は数年の時を費やして青島をいわゆる「モデル植民地」に作り上げた。

青島は植生がなく、雨も少ないので、長らく淡水が欠乏していた。以前は原住民の人口も少なく、村落(そんらく)ごとに一つ二つの井戸を掘り生活を維持していた。しかしドイツが青島を租借してから、十万人余りが増えたので、飲用水は生死存亡の大事となった。

総督府工務局はまず市内全域で飲用水井戸160余りの探査と掘抜を行い、「揚水ポンプ」で地上に汲み上げ、ようやく人々の渇きを解いた。

「ドイツ式の下水道」はずっと青島が国内の各都市で広く称賛される公共事業となったが、最もそれは当時の暴風雨の後であった。画像は(青島)前海の「労働者」(下水道)建設現場である。遠方に建つ白衣の男性は、ドイツの技師である。

労働者たちは、ドイツ人たちが地下の排水管をなぜこんなに深くするのが良いのか、きっとできないであろう。当然ならがら、彼らはさらに、百年の後にもずっと自国民に彼ら(労働者)の手によるこの地下作業が賞賛されてやまないことなど、きっと想像もできないであろう。

1899年6月、ドイツが青島を租借して一年後、14行のドイツ銀行が投資した徳華山東鉄道がベルリンで成立し、膠澳に設立された。3ヶ月後、山東鉄道(後に膠済鉄道と改称)の建設が始まった。

1904年6月、全長394キロメートルの膠済鉄道と、張店から博山に至る45.7キロメートルの支線の、全線がついに貫通した。この鉄道の為に、山東鉄道会社は5,290万マルクを投資した。史料には、1905年から1913年まで、膠済鉄道は乗客814.7万人余り、貨物556.7万トン余りを輸送し、鉄道の利潤は1950.5万銀元余りであった。今日までの膠済鉄道の運行は客観的に山東の経済と社会に深遠な影響を生産した。

写真は、建設中の青島駅の広場です。ルネッサンス様式の時計塔と待合せ広間は、長い間、青島のランドマークの一つでしたが、1991年に取り壊されました。

その数ヵ月後、工事のフェンスが撤去されると、元の場所から少し南側に、より大きな「ドイツの鉄道駅」が人々の目の前に現れました。

鉄道建設のほか、港湾建設もドイツ人が関心のある重点であった。初代膠澳総督カール・ローゼンディヒが青島に到着した時、ドイツ国議会を通して500万マルクの港湾建設資金をもたらした。

その後、ベルリンは350万マルクを追加し、膠澳に一流の国際港の建設を強く求め、イギリス人の経営する香港と上海を全面的に超過することを期待した。写真は青島大港に停泊するドイツから来た1.6万トンの郵便船。新しく上陸したドイツ軍は極東艦隊の儀仗隊(ぎじょうたい)の歓迎を受けた。

大港があり、青島は一躍して中国の運輸能力最強の港湾の一つとなり、その処理能力は急速に上昇して、まもなく中国第六位の港となった。

アジア初のドックがあり、ドイツの軍艦と商船やさらに欧米各国の商船は皆青島に「船舶病院」を持てた。しかし、このドイツ人が誇った大ドックは日独戦争の終結後、日本人に掠奪され、国内に引き取られ、戦利品となった。

ドイツが青島を租借していた頃には、ドイツの建築設計士らが東方に留まって優秀なドイツ建築、特に公共建築を成した。観光都市として青島は都市景観は勿論食卓の飲料にまで、、「徳国(ドイツ)」2文字が切っても切り離せない。元欧州人地区の街路を散歩すると、労山花崗岩とドイツの鉄鋼とで建設された一棟一棟ユニークな大小の洋式建築に、目を奪われる。

青島では、二ヶ所だけ膠澳総督の管轄を受けない機構があり、一つは帝国膠澳裁判所、一つは皇家膠澳郵政局である。1901年5月、皇家膠澳郵政局は「プリンツ ハインリッヒ大通り」(今の広西路)に落成したビル内に移転した。その後、このビルは青島郵政局となった。

民国政府の要人孔祥熙はかつて膠澳商港電話局の局長であったが、現在楼上に青島博物館が開設され、初期の局長執務室の調度品やドイツ租借時代のその他の文化財を展示内容としている。この建物の一階東側と塔は、「ネットで有名」な良友書坊である。青島の多くの文友の刊行祝賀会は、皆この百余年の歴史ある建造物の中で行われている。

これは青島で始めから行政計画に加えられた青島プロテスタント教会であり、また福音堂とも言う。1908年4月に着工し、1910年10月に落成公開され、ヨーロッパの古城の雰囲気とロマン主義的な色彩の教会は青島のランドマークの一つとなった。

これは1908年以後の総督官邸であり、青島で最も美学的な価値のあるドイツ式建築である。この広大壮麗な官邸には、15部屋があり、各階の部屋は相互の通じている。日本人がドイツ人を追い払ってから、ここは日本の守備軍司令官邸となった。

中国が青島を回収してから、膠澳通商港監督(市長)官邸となった。国民政府が派遣してきた前奉天系海軍司令沈鴻烈を青島市市長に派遣してきた時、進歩的な沈氏は歴代の前任者のようにそこに入居するのは拒絶(きょぜつ)して、「迎賓館」と名を改め、この建物を青島初の招待所とした。

これは、青島岬と会前岬の間に位置する会前湾で、潮が穏やかで砂が細かいのでドイツ人により海水浴場が開かれた。アウグステ・ヴィクトリア湾と命名した。アウグステ・ヴィクトリアはヴィルヘルム2世の妻で、当代の王妃である。日本人が来てからこの湾を「忠ノ海」と改名し、戦死した日本軍官兵の記念とした。彼らが建てた「忠魂碑」は、付近の中央公園に聳えたった。中国政府が青島を回収してから、会前湾を匯泉湾に改名し、市内の海水浴場を統一して命名し、この湾は青島初ての海水浴場となった。