山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

煙台と中国近代の不平等条約

1840年から1949年にかけて、列強は中国政府に1,100余りの不平等条約の締結を迫り、これはおそらく世界上のいづれの国にもないものである。

これ千余以上の不平等条約の内で、近代中国に巨大な影響を与えた『煙台条約』と『馬関条約』は煙台のこの小さな城市で調印されたものである。

煙台市区には多くの歴史の遺跡があり、特に建築遺跡の、あるいは外国領事館、税関等の政府機関、あるいは外国商社、銀行などの商業機構、また教会、学校などの文教施設の、これらの近代建築遺跡は煙台の苦難の重要な証拠品(しょうこひん)である。

アヘン戦争は、中国が外国資本主義列強の奴隷化を受けた始まりであり、また中国人民が列強侵略に反対した闘争の始まりでもあった。条約は一種の国際義務であるが、不平等条約は列強が中国を侵略する基本的な尺度となっている。

1842年の中英『南京条約』は中国近代史上初の不平等条約であり、この条約は中国の関税主権、司法主権、領海主権に深刻に侵害していて、これは反植民地化の主要な指標となっている。

1860〜70年代から、列強は中国の辺境と近隣諸国に侵略が激化し、中国近代史上の初めての危機が現れた。帝政ロシアが武装して伊犁を占領し、日本、アメリカが中国台湾及び琉球、朝鮮を侵略し、イギリスは中国西南辺境に侵入した。中英『煙台条約』はこの背景下で生産された。

『煙台条約』の締結は「マーガリー事件」に起因する。1874年、イギリスは膨大な「通路開拓隊」を組織し、ホレス(Horace Browne)の統率(とうそつ)により、ミャンマーのマンダレーからバモーを経由して雲南へ至る通路の探索を計った。

イギリスの駐中国大使館はこの侵略活動に連携するために、大使館の通訳マカーリーを出迎えに派遣した。マカーリーは1875年1月にビルマのバモーに到着してホレスと落ち合った。2月、マカーリーは中国当局に通告せずに、非法に統率された200人近くの「開拓隊」を入境した。この「開拓隊」は騰越西南の蛮允(マンユン)に向かい、当地の群衆の発見で阻止されたが、「開拓隊」は武装に頼って、強引(ごういん)に前進し、乱暴に挑発して発砲したので、そこは群衆多数を殺害した。侵略者の不法な行いに、人民群衆は堪えられず、侵略者の進行を懲らしめ(こらしめ)痛めるのに自衛反撃し、その場でマーガリーなど6人を殺害したが、ホレスは形勢不利と見て、統率部隊は狼狽(狼狽)して逃走した。これがいわゆる「マーガリー事件」である。

「マーガリー事件」は本来イギリスの侵略者が中国の主権を無視して、強引な武装で中国内地に侵入して発生したもので、マーガリーの死も自業自得(じごうじとく)であった。中国騰越地区の各族人民と一部の愛国清軍が祖国領土と主権を保護する為に侵入者に対して自営反撃したのは、完全に正義行動である。

ただしイギリスの侵略者は気に乗じ(じょうじ)て大事態に拡大して、波乱を起こし、清政府に対して恫喝を起こした。イギリス女王は中国人を標的として「あらゆる努力を惜しまず懲罰」することを命令した。イギリス駐中国大使トーマス・ウェードは中国侵略の時機到来と考え、清政府に賠償、公使と税制、通商方面の優待など、一連の無法な要求を提出した。清政府は賠償に応じて、雲貴総督の岑毓英に懸案(けんあん)の捜査を命令した。しかしこの事件は無関係な問題で拒絶された。18ヶ月の協議中、トーマスは、三度北京を離れ、何度も絶交を声に出し軍を使って威嚇(いかく)し、果ては旗をを降ろして上海へ出奔(しゅっぽん)するなど、理不尽な手段を尽くした。当時、清政府と日本の交渉はやっと終結したが、一波乱去ってまた一波乱であった。トーマスの提出した不法な要求にこたえるのは難しく、また交渉の決裂、西南辺境に出現した危機も心配で、清政府はイギリスの侵略者に妥協し、税関総務司ロバート・ハートに援助を求めることを決定した。

1876年7月、李鴻章は翰林院編輯黄彭年、戸部主事銭容増等を率いて招商局「豊順号」汽船に乗り、天津から煙台に行きったが、これが李鴻章の初めての大規模外交活動への出席であった。

8月21日に李鴻章とトーマス・ウェードは東海税関税務署二階で正式交渉を行った。交渉の過程で、露、独、米、仏、日、奥の六ヶ国大使と英、独海軍提督は避暑の名目で煙台に集まり、交渉の行方を注意深く見守った。英、仏、米、独など数か国の軍艦が煙台港に停泊し、武力を以て中国代表を脅迫した一通り駆け引きを経て、李鴻章は基本的にトーマス大部分の要求に同意です。

9月13日、李鴻章とトーマスはそれぞれ『煙台条約』に署名した。

条約内容は「マーガリー事件」の「濡れ衣を晴らす」、20万両を賠償し、臣下をイギリスに派遣して「謝罪」するほか、また、イギリスが北京から、甘肅、青海、チベット、あるいは四川を経てチベット、あるいはインドからチベットへ入る通路開拓隊を派遣する時に総理衙門(役所)は状況に応じてパスポートを発行するか、またはチベット地方の当局は人員を派遣して世話をする;領事の栽培権を拡大し、イギリスは上海に共同裁判所を設立し、中国は租界に会審衙門(聴聞役所)設立する;宜昌、蕪湖、温州などの通商港を開放する;各租界内の外国製品「アヘンを除く」を免税とする;外国製品の内地搬入には、国内関税を収める、など規定した。『煙台条約』は『天津条約』、『北京条約』に規定された特権を拡大して、イギリスの中国侵略の重要な段取りである、また中国辺境危機のを深める重要な指標であり、西欧の資産階級の学者もその「1842年と1858年の条約『南京条約』と『天津条約』を指す)に次ぐ重要度を認めている。これより、中国の西南の大門はイギリスにより開かれが中国の半植民地化は一歩深まった。

『馬関条約』の交換

1894年の日清戦争、これは日本帝国主義が積極的に大陸政策を遂行(すいこう)した結果で、帝国主義の中国分割の始まりであった。今回の戦争は、清国政府の失敗を告げて終わった。

1895年3月20日、李鴻章とその子李経芳、アメリカ顧問フォスター(John Watson Foster)らは日本の馬関(下関)で日本全権代表伊藤博文、外務大臣陸奥宗光とアメリカ顧問エドウィン・ダン(Edwin Dun)

らと平和交渉を行った。4月17日、調印の終わった『馬関条約』の、主要内容は遼東半島、台湾全島及び付属の島嶼(とうしょ)、澎湖列島の割譲、日本軍費2億両、通商港の増設及び通商港での工場などを設立する特権の取得、朝鮮の「自主」を承認することである。

下関での最後の交渉の時、双方は天津または旅順で条約交換をするかで対立して、後に伊藤博文が提出した煙台での条約交換地点が、李鴻章の同意を得て、また『馬関条約』最後の一条は1895年5月8日に定められた。

1895年5月5日、清国政府の条約交換大臣伍延芳、聯芳は天津から汽船「公義」号に乗って煙台に向かい、6日到着し、広仁堂に滞在した。7日朝、日本全権弁理大臣伊東巳代治らは汽船「横浜」号に乗り煙台に到着し、海浜飯店に滞在した。その後、双方は条約交換時期の問題で、終始一致せず、舌鋒(ぜっぽう)激しい論争と拮抗(きっこう)が行われ、遂に5月8日夜10時に、「聖旨の今晩10時に日本の使者と条約交換の遵守(じゅんしゅ)」した条約交換を開始して、『馬関条約』を発効した。

条約中の遼東半島を割譲する問題については、ロシアの遼東半島での野望の拡張に深刻な打撃を与えたので,打算のあるドイツ、フランスを糾合(きゅうごう)して干渉を進めた。

条約締結後、三国連合は日本に遼東半島の放棄を要求し、軍艦を日本海に派遣するとともに、ロシア陸軍6万人をウラジオストクに集中し日本に対して圧力を加えた。条約交換前のしばらく前に、英、露、独、米などの国の駐中国大使と海軍艦隊は、相次いで到来し、密接に条約交換の動向を見守ったが、その中でロシア極東艦隊は皆煙台海上に集合し、艦船上の物資の一部を(日本大使宿泊先の)海浜飯店対面の海岸に降ろしてデモンストレーションとした。最終的に、日本は「進むだけ進んで、止まらざるを得なく」、三国に対して譲歩を決定して、遂に露、独、仏と協議を達成して、清政府に3000万両の白銀の追加を迫り、遼東半島の「返還を贖(

あぎなう)った」。

ロバート・ハート、イギリス人、1861年11月より中国税関総税務司を担当し、中国税関と45年も統治した。1861年、清国政府は、外交と通商事務を専門とする、各国の事務を主管する役所を設立した。

ただし一切の国際問題では、全てハートの意見を聞き取り、「条約の交渉から土地紛争の解決まで、全て北京総税務司の意見に頼り、計画と行為の参照のために、外国公使たちは始終それ(税関)の税関の権威を支持していた。」各国の清国政府に対する要求は、往々にハートの総税務司の身分により、建議あるいは勧告(かんこく)の方法を用いて実現した。ある者はこうした情況を根拠に、当時の中国権利構造を描写している。帝国主義は中国税関を支配して、総税務司は外交機関(総理衙門)を操縦し、総理衙門(外交機関)は清国政府に左右される。

清国政府の多くの重大な外交活動のほとんどにハートの参加があり、「マーガリー事件」では、ハートは総理衙門(外交機関)に『通商関係の改善に関する建議』を提出し、清国政府に様々な譲歩を要求し、中国からの調停を示して、交渉場所を煙台とし、交渉代表を李鴻章とすることを提出したので、清国政府は遂に李鴻章を煙台に派遣してトーマス・ウェードと交渉した。ハートが煙台を交渉場所として選んだ理由の一つはそこは外国人でも特にイギリス人の勢力があったからで、第二にはそこは夏の気候が涼しく、避暑地として、北京の炎熱酷暑(こくしょ)を避けることができ、第三に、「天津条約」により、外国軍艦は任意で煙台の海上を巡航することができ、随時(ずいじ)に武力で交渉代表を威嚇(いかく)することができるからである。東海税関税務署は外国人居留地の煙台山の麓にあり、煙台港に近く、そこでの交渉は好都合であった。

『馬関条約』は失権が最も多く、(その内)危害が最大で、列強は「利益均等」の一面を持つ最恵国(さいけいこく)待遇の条款を推挙し、皆中国で工場建設に投資する特権と享受し、列強のために輸出資本の市場が開放された。

これは『南京条約』以来の最悪の売国条約であり、外国の資本主義の中国に対する侵略が新時期に進入したことを示し、中国の半植民地化の程度に大きく深い一歩であった。『馬関条約』は中国に空前絶後の民族危機を直面させ、極大に中華民族を振動させ、全中国人民に救亡闘争を群起させた。

著者 煙台 辛俊玲