中国の第一塹壕砲台ーー劉公島砲台(口径233ミリ、射程10000メートル)
清末の北洋艦隊基地となった劉公島は、現在6基の近代海防砲台の遺跡が残っている。
近代中国沿岸に建設された海防施設の中で、威海砲台の名声は虎門、大沽などの砲台には及ばないが、ただし砲台建築の精良さ、砲台配置の標準的さについて論じれば、国内第一を称するに堪え、近代中国海防建設の最高の成果を代表する。
砲台の遺蹟は威海の日清戦争記念地の重要な歴史文化資源であり、近代中国最初の塹壕(ざんごう)砲台で、また「公所後砲台」とも呼ばれた劉公島砲台は、即ちここにある。
劉公島の塹壕砲台は清末北洋艦隊威海衛基地が島に建造した最初の恒久的な砲台で、劉公島北西部に位置して、砲台の建築は優良で、百年の風雨を経てはいるが、依然として保存は完全である。
塹壕(半地下)砲台は、大抵の人は馴染みなく思うであろう。塹壕砲台は遮蔽(しゃへい)砲台に属し、普通の露天砲台に比較して、塹壕砲台の顕著な特徴は、大砲の位置が深く、大砲を地面以下に設置して、隠蔽(いんぺい)性を高くしている。
塹壕砲台は油圧(ゆあつ)機械で昇降し、360度全方向に射撃できる、当時としては欧米各国で比較的新式の海防砲台の機械設備であった。
公所後砲台の建築の歴史は1888年に遡り、清末の海軍資料『李鴻章奏察堪各口海防折(李鴻章奏上各港海防視察の分析』によると、李鴻章は威海衛で防衛建設を視察した時、劉公島の「島北部に塹壕砲台二基、威海南口の日島に洋上センター(威海湾センター)を聳え立せ、装甲砲台一基⋯」との防衛建設費計画を記載している。1890年、公所後砲台が竣工し、造営費はおよそ20,000ポンドであった。
130年の歴史を有する劉公島の塹壕砲台は、全体がヨーロッパ式の風格の建築である。
薩承鈺『南北洋砲台図説』などの資料を根拠に考証すると、設計はドイツ陸軍の要塞エンジニアハンネケンにより、彼は砲台建設費の全過程で現地の状況に適応させ、全体は威海当地の石島紅(赤)花崗岩を主材料とし、砲台建築の堅固(けんご)さと建築表面にはある種薄紅色を基調とした様相を醸し出し(かもしだす)て、砲兵内部兵舎や、砲丸庫、弾薬庫などの施設を全て具えている。西式風格の公所後砲台建築
塹壕砲台の口径(こうけい)は9.2インチ、つまり約233ミリメートルであり、大口径陸砲の範疇に属して、砲弾装填(そうてん)時には弾丸と弾薬は別に装填し、砲台の兵士は人力で砲台上に移動した。塹壕砲台の理論的射程は10,000メートルに達する事が可能である。
日清戦争威海衛の戦いの時、主戦場の位置は劉公島の東端であったため、この威海湾北口を守備する塹壕砲台の位置は島内西北部にあり、地形の制限を受けて、射撃範囲は東口の各砲台のようにはいかず、したがって日清戦争威海衛の戦いの時は、日本艦船との抗戦の機械は大変少なく、日清戦争海戦の終結後、日本軍は劉公島を占領して、塹壕砲台内の設備や、弾薬等の物資は日本軍により奪い取られ、塹壕砲台はその後解体され、砲身を架設(かせつ)した設置ボルトでさえ全て引き抜いて持ち去られた。両基の塹壕砲台は1895年5月21日に日本商船観音丸により日本の横須賀に運ばれ、後に淡路島由良要塞の高崎砲台に配置された。劉公島塹壕砲台遺蹟運輸砲弾の軌道
中国日清戦争博物院研究員隋東昇は、近代中国河海沿岸に建設された大小の砲台の内で、塹壕砲台の建造量は大変少なく、今日まで保存(ほぞん)されているのは僅かに威海湾の劉公島と、日島ニヶ所で、建築の規模と建設時間について言及すれば、劉公島の塹壕砲台がトップであると認めている。
劉公島の塹壕砲台は島内に開設された最初の砲台であり、威海湾最初の戦力を備えた砲台で、近代中国第一の塹壕砲台でもあり、その後の百余年で、砲台建築本体が大幅な損傷や改造を受けていない、中国近代海防の歴史を研究する生きた標本である。
現在、劉公島の塹壕砲台は文化財保護と修繕を完成し、砲台内には砲兵の蝋人形を設置し、3D投影による砲台戦闘風景を展開し、この他砲台体験館を増設し、遊覧客は砲台射撃の模擬操作ができて、ここも劉公島風景区観光の新しい観光スポットとなるであろう。
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