膠東道教石像
秦漢南北朝以来、道教は中国自体の宗教として重要な発展期に進入し、北朝晩期から隋唐にかけて道教を題材とした石刻造像が集中して出現した。
膠東半島は道教の人文資源が豊富で、秦の始皇帝はかつて芝罘に不老長寿の薬を探索に来たが、唐以降は仏教文化の衝撃を受けて道教の影響は次第に薄れたが、元明時期には道教が再び復興し、信者の造像は多彩で木彫や青銅の材質を用い、王重陽が創建した全真教は膠東半島を発祥地として広汎に伝播してこの時期の政治、文化に重大な影響を生み出し、中国道教史上極めて重要な地位を占めている。
この唐代の道教石刻造像は伝統的な漢白玉を用いた彫刻で、後背は船形で高さ108mm、底部は長方形で長さ96mm、巾57mm、桃形の後背の引き立てで、配列はコンパクトで十分に調和しているが、年代が比較的古く、石像には多くの欠損がある。
太上老君の姓は李、七子は耳、字は聃、またの字は伯陽、春秋時代楚国苦県の人、また老聃、老君、老子、老子道君、李伯陽、李老君と称して、かつて周朝の公文書室の官吏であり、その著『道徳経』は広く流伝して、道家の始祖として尊敬されている。
この像の中央は老子の坐像で、頭に道冠、右手に麈尾(シュビ、払子にした大鹿の尾)を持ち上げ、左手を脇息に添えて(そえる)おり、この造形は魏晋の士大夫名流が麈尾を持ち清談する文人の風潮を延用していて、一目でその身分が知れる。老子の両側には道教の金仙が立ち、その前にはそれぞれ一頭の道法の獅子が臥せ、配列の方式は十分に仏教造像の形式を借用して、全く逸脱(いつだつ)の感がなく、表現は南北朝に出て、隋唐以来の石刻造像の形式で、歴史的に仏教道教の相互浸透と斟酌(しんしゃく)をした確実な証左(しょうさ)を提供している。
石像全体の布置(ふち)は不揃いで趣きがあり、中国南北朝以来の道教、仏教の合流現象を代表的な実物であり、同時期の多数の仏教造像に対して大変貴重で、膠東歴史上の道教と仏教の関係発展の研究に重要な意義を持っている。
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