山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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大廟山 大廟山尋踪(青島神社)

「貯水山公園」は青島で有名な山頂公園の一つであリ、旧市街北部の遼寧路、黄台路と泰山路の間に位置する。資料によって示すと海抜83メートルの東峰と海抜73メートルの西峰の遠望が馬の鞍のように見えるので、古来馬鞍山と呼ばれた。

明代に倭寇の襲来を防ぐために馬鞍山に狼煙を建造したが、狼煙台という見解は未だに実証されてはいない。また「鳳台嶺」という呼び方があり、意味は鳳凰の棲息(せいそく)する場所である。ドイツ人の手になる地図上に表示された「鳳台嶺」の位置は青島山の北側である。

清朝末期、章高元が青島に駐留した時、貯水山は青島北部防衛区の要所であり、清軍はここに多くの土塁(どるい)と塹壕を設立した。

1914年の日独戦争で、日本がドイツに代わり青島を占領し、山上に日本の神社を設立したが、今も参道の108段段階が残っており、俗に「108蹬(トウ、置き石)」という。

山南部の谷間には何ヶ所かの火薬庫があり、東の丘は兵営であり、二ヶ所の平坦地の広場にそれぞれ二ヶ所の大貯水池があり、ここから東北方向を望んで、見える農村は楊家村である。その村の後ろは中国人の台東鎮が隣接し、「台東鎮の街路はきっちり整った天帝の打つ碁盤(ごばん)のようである⋯」、イギリス人パーマーが1910年に出版した『青島』中にこのようにモルトケ山のことを描写している(モルトケはドイツ帝国参謀総長の名)。。

1901年、ドイツ人は方々に水源を探して、海泊河、李村河、白沙河を以て水源地とし、送水(そうすい)管を建設して市街に導入し、この水をモルトケ山上の二ヶ所の貯水量6,000立方メートルの貯水池に蓄えたが、ここは当時国内でも珍しい都市水道供給センターとなり、貯水山という名称はこれに依っている。聞くところによれば、当時貯水山の供給水はほぼ全市街の一日使用に足りていた。解放後、この貯水池はまだしばらくの間継続(けいぞく)して使用された。

1922年北洋政府は青島の管理を引き継ぎ、正式に名を貯水山と定めた。中国政府が青島を回収した時、日本人は立ち去らず、多くの地方匪賊(ひぞく)をかき集めて市街で騒動を起こしたが、聞くところによれば当時これらの人たちは貯水山上に潜んだという。

解放後、1956年に貯水山公園が建設され、ここは若者が恋愛を語るのにふさわしい場所となった。朝から晩まで、麓から頂上まで木の下には、全て1対一対のカップルが見えるので、人々は貯水山を鴛鴦(えんおう)山と称した。

馬の鞍状態の東西の二つの峰は、今もなお高低のシルエットを見ることができる。

1914年日独戦争でドイツが敗戦すると、日本人が青島を占領すると、モルトケ山を若鶴山と名を改め、山上に青島神社を修築し、日本が青島占領中に戦死した官兵を記念したが、建築当時日本の海外にある最大の神社であった。

1918年12月10日、青島神社の主体建築が完成し、神社内はキン刀羅神社本殿と稲荷社などを主体建築とし、山の麓近くに御饌殿、禽鳥館、鶴池、動物館及び相撲などの補助設備があった。神社内に祭日本の天照大神、大己貴命と明治天皇及び青島侵攻時に戦死したいわゆる英霊である。毎年10月7日、彼らはここで盛大な祭祀儀式と縁日を挙行して、神々と先賢を心に留めた。

青島神社の配置は日本国内の神社と同様である。若鶴二丁目(現在の遼寧路)の正門は「開」字形の大型石華表で、名は「鳥居」と言い(聞くところによると来源は動物崇拝で鶏の止まり木である)、両柱の間隔は10メートルばかりで高さは15メートル近くである。

その上面の棟木は「笠」と言い、両端が跳ね上がっていて、下の母屋木は「貫」と呼び、日本の柱を固定する作用がある。中間には竪額があり、前面に「青島神社」四文字がある。

鳥居の両側には一体の巨大な日本式石灯籠があり、形状は中国の宝塔に似て、大きい花崗岩の石積できていて、三層である。底層は基礎、中層を竿、上層を火袋とする。火袋の四面にはガラスがはめられ、上は四斜面の石をかぶせる。頂点に石の宝珠がある。鳥居前には瑞垣と「車馬止」という文字の禁牌がある。 一次日本占領時期の代廟山の空中撮影

鳥居を進むと一筋のまっすぐで長い山道が、頂上に達し、道の両側には日本から持ってきた桜の木が植えられている。桜は日本の国花で、また日本軍人の象徴でもある。

108段の石段を登ると、正面にはまたやや小さい第二の鳥居があり、鳥居の両側にもまた一対の小型石灯籠があり、鳥居をくぐると社殿の前に到来する。

日本の神社建築の構成によれば、社殿は三社殿からなり、全て木造建築である。前殿を拝殿とし、殿前には一竿の日本国旗が立てられ、側面には清水を蓄えた石盥(たらい)と柄(え)の長い柄杓(ひしゃく)があり、参拝客は手を洗い口を漱(うがい)で「身を清めた後」中に入ることができる。

拝殿は4段の段階と低い欄干のある基礎上に位置して、そこは宗教儀式を行う場所で、最も賑やかな存在で、通常は皆ここで参拝する。この拝殿の造形は奇妙で、四面に壁がなく、大変広々として見え、切妻部分にも軒があり、周囲まで厳密に(屋根で)覆われている。その正面には皇室を特徴する16葉菊花紋章があり、通常は帷(とばり)がかけられていて、拝殿前には参拝客が賽銭(さいせん)を投入する「奉納所」が設置されている。日本人の参拝は「二礼、二拍手、一礼」をするが、つまり二度お辞儀して、次に二度手を打ち(意味は神明に参拝者の祈りを聞き取りをうながすためである。最後にまた一度大きくお辞儀する(深く身を屈める)。

中殿は本殿とし、拝殿と比べて規模は小さいが、かえって神霊を祭祀する重要な場所である。後殿は神器と社殿鎮護の宝物を祭祀して、造形は木の高楼で、底辺は宙にかけられている。屋根の大棟には多数の横木(鰹木かつおぎ)を配列して、魚の背骨の形を呈している。下部はモウジョウの籬(まがき)で囲われ本殿と連結していて、例により開放されていない。

三座の大殿のほかに東側には二座の社殿を配して建造する。同時に、若鶴という面があり、珍獣奇烏を飼育し、山上には一面に桜と松柏を植栽して、もっぱら日本人の遊楽に供し、事実上この山を一大神社へと変えてしまった。

破壊された石灯籠基座

青島神社の主要な建物は二次世界大戦後に続々と取り壊され、両側の桜も伐採(ばっさい)され、ヒマラヤ過ぎたに植え替えられた。当時の青島神社は今なお桜参道の両側の石灯籠の礎石(そせき)、108段の石段、二鳥居の柱礎と神社交番の旧跡が遺存している。

跡地には児童遊園と老年大学が建設されたが、その面積は当時の神社敷地の四分の一である。

一の鳥居を抜け神道を通ると、通路の両側には日本から運ばれた桜の木がある。神道の行き着く先は石段路で、また参道ともいい、青島人は「108磴」と言い習わしている。

108磴前の桜が満開の季節(画像)。今日の「参道」は、ヒマラヤスギが当時の桜に代わってしまった。

石段を上がると、再びやや小さな鳥居を潜り、ようやく社殿の前に到着する。社殿は三つの社殿に分かれていて、皆木造建築で、中国の寺院建築と十分に相似(そうじ)している。

前殿を拝殿とし、祭祀と儀式が強行される。中殿を本殿とし、、神霊に祭礼を奉納する。後殿を宝物殿とし社内の神器をお供えする。

これは今なお残る広前の旗竿の台座である。三大殿のほかに、南側には二棟の社殿がある。拝殿前には日本国旗が立てられ、拝殿前にはまた「奉納所」がある。今神馬の放置されている場所は、108段階段の終点である。当時日本人は祭礼品をに担ぎ上げ(かつぎあげる)て「108磴」を上がった。日本軍は神霊儀式の祭拝を強行した。神馬東側の正殿前の名貴樹木は、今なお存在する。

1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣布した。同年10月25日、青島地区の日本軍投降儀式が滙泉競馬場で強行された。画像は青島神社入り口で送還を待つ日本居留民。

これは当時日本人が空中撮影した神社の配置画像で、整地された山に大型の社殿群が建築され、日本人の参拝や、遊興(ゆうきょう)や休暇に供された。

大鳥居の北側の山上にはシカ、サル、クマなどの動物が飼育され、また桜や松柏を植え、東側には蓮池があり、南側には相撲場が設けられ、そのほか10ヶ所余りに及ぶ場所が、もっぱら日本人の遊楽に供された。

貯水山の頂上から掘り出された石碑は、今市博物館の芝生(しばふ)上にある。その石碑は1983年に貯水山公園付近の地下から発掘されずにのちに市博物館に移された。

2014年7月17日、文物部が大廟(青島神社)山上に遺存していた石碑を発見したが、表面にははっきりと「青嶼神社」四題字が刻まれていて、青嶼の意味はつまり青島である。

解放後は神社建築は次々と取り除かれ、1956年には「貯水山公園」と改め、園内では雑技や、太鼓などの上演がある。

1984年に市政府は跡地に青島貯水山児童公園の建設を再計画した。1991年10月1日に公園に建てられた石碑には、貯水山の変遷の過程が記載されている。

今日まで日本占領時の遺跡のほかに、ドイツ占領時期のトーチカ群も保存されている。ドイツ軍の建設したトーチカ。構造は比較的粗本なトーチカであるが全民備戦時期の建築である。1960年代の防空壕でもあった。