山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

青島キリスト教会

青島キリスト教会は膠澳のドイツ総督出資で、1908年4月19日のマイスター社の施工によって建築が始まり、1910年10月23日に竣工した。

1907年61日、ドイツベルリン教会(信義会)は極東の大手西洋新聞社を通じて、東アジアで西洋建築市をに青島キリスト教会の設計案を徴集する事を示した。ロートケーゲル(Curt Rothkegel)は入札に参加して最終的に獲得に成功した。1909年3月26日にベルリンで出版された『ドイツ建築業報』に、ロートケーゲルの、このキリスト教会の創作構想を詳述(しょうじゅつ)した文章を掲載した。「建物低層に各種の施設を設けることを考えると、教会は広い基礎面を必要とする。これと相応して、縦方向に空間を伸ばすことは過分に人目を引くようには見えない。この設計は高所建築の要求に塔楼の設計高27メートル、十分合致(がっち)しており、周囲の山地の高さにひけを取らない効果をもたらしている。」しかしながら、塔楼の設計の理想と実際の施工計画には依然として一定の差異がある。

建設した塔楼は実高36メートルで、塔頂の様式もロートケーゲルの現代的様式の入札案よりも保守的となった。記載によると、当初の入札案は選評委員会の査定では、その設計は油絵のような効果があるとしている。

教会本堂は四ヶ所の出入り口を設け、南面の三ヶ所は信者の出入りを主として、東面の出入り口は緊急の出入り口とし、西面の塔楼の所にも一ヶ所の出入り口を設け、牧師と作業人員の出入りを主とした。 建設当時教会内の聖器や装飾品はプロイセン王室大臣の寄贈であったが、文革時に洗いざらい略奪され、教会のステンドグラスも破壊されてしまった。

2010年になって教会南側の円窓は、ドイツ製造のステンドグラスに交換されたが、これはドイツで百年以上のステンドグラス製造経験のある会社で、ドイツの多くの皇室建築の窓ガラスは皆この会社から出ていて、2012年にはまた教会北部の円窓とその東北面にある扇窓も、ドイツのこの会社で製造されたステンドグラスに交換された。教会につるされた灯火(とうか)の傘ももとは尖形であったが、現在は球形状に変えられた。

教会本堂の二階ステージは元は聖歌隊の位置で、特にパイプオルガンが設置されていたが、元のオルガンは文革で破壊取り除かれ、現在のオルガンは2010年10月にドイツ楽博オルガン製造会社(Fa.Jager & Brommer GbR Orgelbau)から、500万元を費やし、購入して回復し、また青島が購入した楽博オルガンの中で、唯一教会内の旧写真に基づいて、回復したプロイセンドイツ時代のパイプオルガン様式である。

教会の西北角は現在教会の副堂であり、最初は児童の礼拝室で、14歳未満の青少年のために準備されたもので、ドイツのルーテル教会の習慣では、14歳で洗礼を受け、正式に教会に加入した。今は詩歌隊のリハーサルと水曜聖書研究会に使用されている。

副堂の西側にはドイツで組み立てた8音の鐘があり、1861年創業のドイツのユンハンス社産で、ドイツ総督ビル旧跡の床置き式と同メーカーで、今も正常に動いている。

教会本堂の西北に連接する小部屋は教会準備室で、準備室の西南側には作り付けの戸棚になっており、牧師や作業員の衣服の収納に使用し、準備室の東側には木製の小階段があり、牧師は準備室を通過し小階段で直接講壇に登ることができ、準備室は現在牧師と宣教師の事務所として使用されている。

教会の西側は高さ36メートルの鐘楼で、教会建設当初には風見鶏(かざみどり)があったが、元の雄鶏形(おんどりけい)の風見(かざみ)は1942年の台風によって吹き壊されたまま、ようやく2009年の暮れの補修で、中国ドイツ文化遺産基金会の寄付した当時の教会を建造した元の銅片を使用して、教会塔頂の雄鶏の風見を回復した。

教会塔楼内部の大時計は1909年にドイツのボッケネモで作られ、中心機械(ムーブメント)にJ.F.Weule,Bockenem (Harz)のメーカー表示があるが、刻まれている会社は1836年創業で、1953年の西ドイツで倒産した。

教会塔頂には三口の鐘、真ん中に大鐘、南に小鐘、北に中ぐらいの大小の鐘がある。大鐘の産地はドイツのボーフムで、ヴィルヘル無・マツァトゥ(Wilhelm Matzat)教授は青島キリスト教会をドイツ語で描写して、この鐘は早く1899年に存在し、古いキリスト教から取り外され、この教会に設置されたと書いてあるが、これはまだ考証が必要である。正時になると自動ハンマーがその大鐘を打ち鳴らし、半時には自動ハンマーが北側の大小の鐘を打ち鳴らす。

副堂から準備室までの屋根裏にはかつて聖器を収める倉庫であり、ここで1948年に大家事があったが、幸いすぐに消し止められ、その後副堂と準備室の屋根は修復されたが、修復の瓦は牛舌形瓦に替えられたため、今日の本堂の筒瓦と副堂の牛舌形瓦に見るような不一致の形式となった。

青島江蘇路キリスト教会、この油絵のような中世の古城様式の古典建築は、青島で最も代表的なドイツ建築の一つである。百年の風雨にも、旧代耎に優美である。それはこの年を見守り、青島の歴史を目撃し記して来た。