山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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黄島砲台

黄島は劉公島の西端に位置して、もともと独立した海島である。1890年、威海衛巩軍が劉公島と黄島さん間に停泊堤防を築いて両島はつながり、その後黄島には耐久性的な砲台一座が建設されたが、つまり黄島砲台である。

黄島砲台は、島内配置武器で最強の砲台として強調され、またかつて暗澹(あんたん)として、中国の土地で発生した悲惨で屈辱(くつじょく)的な「国幟三易(きしさんい)(国旗三交替こうたい)事件を目撃してきた。

黄島は岩や土が黄色なので名となり、黄島と威海湾北山嘴との距離は僅か1.6海里であり、北山嘴とともに威海湾の北の喉元である。

1890年、威海衛に駐留していた巩軍の将兵は黄島と劉公島の間の浅瀬に石を埋め道を開き、一筋の堤防を堅固にして、それに劉公島と繋げて、劉公島と黄色の間の唯一の陸地を通した。

1891年、駐留威海衛勇兵は砲台建築の築造を始めた。砲台の築造には「山を崩して地面を開き基礎を作るのに、最も力を用いる」。

建築本体には威海現地の石島の石島紅花崗岩を採用し、土木工程はただ車を推し人が担ぐのに頼るしかなく、「土取りと材料の運搬は皆遠く、大変労力が必要」で、作業に機械がない時代に、その大変さは現代人の想像に能うところではない。

黄島砲台は軍門、兵舎、火薬庫、砲弾庫、砲座などから構成され、花崗岩とセメントで構造された要塞建築である。黄島砲台は公所後の塹壕砲台同様に、主に威海湾北口の航路の防衛に用いられた。

砲台には4座の円形砲座を設け、ドイツのクルップC80型35倍径240ミリメートルの陸用カノン砲4基を配置したが、これは日清戦争劉公島に配置された最強の一砲台であった。

黄島砲台に設計と建設は十分に厳格、科学的で実用的なものであった。砲台の地下の坑道(こうどう)、兵舎、弾薬庫は相互に連結していた。

坑道のアーチ式の結構で、花崗岩のブロック積、セメンド詰、高さ約2m、広さ1.2m前後、延長300m近く、砲兵は坑道を通過して直接砲座に進入することができた。

清末の海防建設の内で、中国総沿海の砲台は42基の同型のクルップ240ミリカノン砲を輸入したが、威海だけで21基が配置され、数量は全国の半分であり、これは清政府が北洋海軍が威海衛基地を重視した程度を説明するに足りる。

日清戦争中、黄島砲台は地理的位置の制限のため、日本軍との交戦は多くなく、一部の弾薬は劉公島東口砲台に運ばれ日本軍に反撃した。

日清戦争終結後、日本軍は劉公島を占領し、砲台内の砲台機械や、弾薬等の大半は日本軍の戦利品となり、後に日本本土へ持ち帰られた。幸いなことに砲台建築は日本軍の破壊に遭ってなく、基本的に保存は完全である。

イギリスが威海衛を租借の当初、資金節約の目的でイギリスは砲台の元の建物を取り壊し、取り外した花崗岩の石材を島内のその他の新建設に用いたので、黄島砲台に元あった東、西門二つの軍門は全く消失し、12棟の兵舎も僅かに東の4棟だけ残ったが、残存は無惨(むざん)で、あの勇壮な砲台建築も跡形(あとかた)なく消え失わせた。

幸に、最近の黄島砲台の文化財保護整備作業中に、以前砲台が埋められた貯水池が発見され、整理後(貯水池)に再び日の目を見ることとなった。貯水池と一緒に発見されたものに、また西軍門と兵舎の基礎があり、これらの発見は黄島砲台の建築構造を研究するのに重要な参考価値を備えている。

日清戦争が終結後、日本軍は威海衛を3年占領した。

1898年5月23日と24日、日清戦争の砲火と日本軍の3年の占拠のひどい目に遭って劉公島は、また世界に影響する重大事件が発生した。日中英三国協商により、黄島砲台でイギリスが威海衛を租借する国旗掲揚儀式が挙行された。23日に、日本国旗が降ろされ、清政府を代表する黄龍旗がはためいた。24日、イギリス国旗が掲揚され、清政府の黄龍旗が降ろされたが、つまりこれが中国の土地上で発生した「国幟三易(国旗三交替)」の屈辱である。

苟しくも自強せざれば、奚ぞ図存を以ってせん(もし努力しなければ、どうして生き残れるだろうか)。

今日、「国幟三易」を見て来た歴史的国旗掲揚遺跡は旧態のまま黄島砲台2号砲台の西側に保存され、ここからの威海湾の眺望は、この街が溌刺(はつらつ)と発展する脈動(みゃくどう)を感じさせる。

著者 威海中国甲午戦争博物院研究員    隋東昇