山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

中山公園内の消失の「忠魂碑」

中山公園内で消失した「忠魂碑」は、忘れることのできない歴史である。

現在の中山公園は既に民衆の観光と遊楽の好敵地で、ここには至るところに花が咲き誇り、春は桜をめで秋には菊花をめでて、歌声も朗々として、人々は心から大自然の秀景を享受している。

だがしかし誰が、ここで歴史上かつて日本軍が青島を占領した後に建てた「忠魂碑」があった事を覚えているだろうが、今尚この往時の建築物の残骸があり当時の屈辱の歴史を語っているのに。

かつての「忠魂碑」の跡地には、今の太平山観光ケーブルウェーの入り口で、当時の日本軍が「拝礼」に訪れた参道は今は山間の無名の小道となってしまった。 かつての日本軍の「忠魂碑」が消失して70余年であり、中山公園の桜花路中段の東側(今のケーブルの終点の場所)に位置していたが、かつてそこにあった碑石の建築は、古い写真に残るもの以外、現在のほとんどの人にはどういうものかはっきり分からず、またかつてのその歴史を知っている人も本当に少ない。過去に編纂された旧文を再び整理して、歴史の旧態を復元して、読者に振舞いたい。

1914年11月7日、日英連合軍は青島を占領し青島に駐留したドイツ軍は投降した。その後、日本軍は青島各地で軍事管制を実行しまた続々と元のドイツ軍の青島三大兵舎に進駐し、青島の実質占領を完成した。

1915年1月、日本軍駐青島守備司令官神尾光臣大臣はその他の日本軍将校と如何に青島神社と戦死将兵の「忠魂碑」を建造するかという問題について協議を開始した。1916年2月、日本軍は若鶴山の北麓を選んで青島神社の建造を開始した。3月3日、日本軍はまた旭山(朝陽山ともいう、今の太平山)西麓に場所を選んで「忠魂碑」の建造を開始した。5月にこれらの工程は皆青島守備軍司令部から日本内務省の神社局に設計を委託し、神霊加護により工程設計士谷佑大郎主任が、8か月を費やし具体的に設計を担当した。

1916年11月7日、日本軍は京都府の舞鶴湾の辺の妙心寺で(供養の)始まった、1914年の青島日独戦争期間に戦死及び行方不明となった官兵の霊位を青島日本軍「忠魂碑」内に遷移して、青島日本軍及び民政担当官、日本人居留民らの弔霊(ちょうれい)祭典に供した。

「忠魂碑」内には陸軍歩兵少佐佐藤嘉平治以下666名の軍兵と海軍大佐伊東佑保以下388名の軍兵及び南太平洋のドイツ占領島嶼(とうしょ)の戦闘中に戦死した日本軍兵10名の霊位、1,014名を供養していた。

1917年4月3日、「忠魂碑」は完工落成した。

具体的な位置は現在の中山公園内桜花大道の中段東側の小高台上(現在のケーブルカー終点)で、北に位置して南に地面があり面積は1,562坪(約5,170平方メートル)、四方の森林面積は14,059坪(約46,535平方メートル)、中心に四方張りだしの尖塔があり、建坪12坪(約397平方メートル)、高さは70日本尺(約21.2メートル)、ヨーロッパの直線の建築様式に属する。

碑は南面し、真中の「忠魂碑」三文字は、初代日本軍守備司令官神尾光臣大将が自ら筆を執り書いたものである。

その「忠魂碑」の碑塔の四方は皆花崗岩を切り出して瑞垣(ずいかき)を作り、石柱92本を立てて、前後面に日本軍の戦死した軍将の名字を刻み、更に各立柱の間に6本の支柱(しちゅう)があり前後に日本軍戦死兵士の名字を刻んだ。碑塔の正面には三段の石段がある。正門(鳥居)の前には2基の高さ3.6メートルの石灯籠があり、また石盥(いしたらい)と警備室などがある全工程費用は46,080銀円であった。その後日本軍守備司令部は四方に大規模な樹木植林に着手し、今日もなお当時の老松が依然として「大参道」の両側に聳え立っている。

日本軍が青島に神社と「忠魂碑」を建造した背景は1915年5月25日に北京で、日本政府代表日置益と中国北洋政府外務大臣陸徵祥が締結した対華「二十一条」要求の取り交わしである。

その中には『山東省に関する条約』と『南満州及び内モンゴルに関する条約』などの文書があり、日本はこれで軍事と財力を利用して中国を制圧し、青島を横奪(おうだつ)し中国内政に干渉する険悪な目的に及ばん企てた。青島の日本軍司令部は青島を長期占領できると考え、早き込んで神社と「忠魂碑」を建造する計画を早々に立案提出し、青島占領の象徴として、青島南北の両地に日本神霊大社と戦死者を祀る「靖国英雄」記念塔の修築を行った。その目的はまた日本の軍国主義を宣揚して、神徳と武士道の精神を尊重し。日本軍の対外侵略を白粉(おしろい)で塗り固めて美化する事であった。

これより、青島駐留日本軍は毎年春と秋に盛大な規模の祭典儀式をとり行い、常に日本皇族と中国侵略の上級軍将が参拝にやってきたが、この行動は少なからず天皇への忠誠と大東亜共栄圏を実現するための献身的思想と、同時に青島に対する日本軍と日本人居留民への帝国主義教育を進行するための有効な手段であった。この状況は第二次世界大戦の収束までずっと続いた。

1922年12月10日、中国政府と人民は世界各国の声援の下、困難な闘争を経て、日本軍から青島の主権を奪回(だっかい)した。

日中双方の「達成した協議」により、日本の青島神社と「忠魂碑」及び墓地などは総て日本の国有財産で、破壊してはならず、その守衛作業も青島にある日本人居留民の責任で、その手持ちの武器による軍事組織がずっと神社と「忠魂碑」を守備して、彼らが崇敬して止まなく(やまない)思う場所は、1938年1月10日になって日本軍隊が再び青島に上陸占領、上記の場所を接収管理するまで、擁護に努力した。

日本軍が青島神社と「忠魂碑」を接収すると周囲に見張を置き、警備を厳格にして立ち入りを禁止し、中国人民の接近を厳禁(げんきん)とした。

太平洋戦争が勃発し、日本の国力の式微(しきび)に従って、いわゆる「大東亜聖戦」を維持するために、ここで一層日本軍のファジズムが戦争制勝論の宣伝するために、定期的にここで軍隊の忠誠宣誓(せんせい)を挙行し、天皇のために忠誠を尽くすことを推奨(すいしょう)する教育の場所として尽力した。

1945年8月14日、日本は敗戦して投降した。10月25日に青島地区の日本軍の投降儀式が中山公園外の滙泉広場で挙行され、日本の青島駐留陸軍司令長官長野容二少将は中国及び同盟国代表に指揮刀を差し出した。

日本が投降して青島を撤退したあと、国民政府は忠魂碑を解体することなく、非常の「魂」を抹消(まっしょう)して、「烈」字に改め、「忠魂碑」は「忠烈碑」となり、内部に国民党の抗戦中の戦死将兵の霊位を置いた。この動きは青島人民の疑問と反対を蒙った(こうむる)。

1949年になって青島が(新中国に)解放されると、続々と青島神社と「忠魂碑」などの恥辱(ちじょく)的な建築は取り壊されたが、解体された石材は基本的にその場所で使用された。現在の中山公園の「忠魂碑」の跡地には参詣(さんけい)路前の石階段と数少ない石灯籠の残骸がやっと残っているだけである。

その水盥(たらい)の壊された基礎、壊された水盥と手水の二文字が刻まれた石碑と若干の壊れた(忠魂碑)塔の石材は(公園の)隅に打ち捨てられている。跡地の周りには野草がはびこり大変荒れ果てたのがあきらかで、全く当時の威厳ある様子は見受けられない。