山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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中国(煙台)の郵政歴史

煙台は中国で郵政の開かれた最初の5都市の一つであり、のろしで知らせを伝えるのは、通信の起源と言えよう。1398年(明洪武三十一年)、今の煙台に墩台(土山)を出し、のろしを焚き(たき)、のろしをあげて、警報として倭寇を防いだが、当地の者は墩台を煙台と呼んだので、「煙台」の名を得た。

1840年のアヘン戦争以後、列強が中国を侵略し、勝手に郵便局を設置したので、清政府はこれを「客郵」と呼んだ。1876年から1903年かけて、日、独、露、英5か国が前後して煙台で欲しいままに郵政機構を設置して、中国の郵政権を侵犯した。1922年末になって、煙台での「客郵」は総て取り消された。

清朝晩期には、税関は更に外国人の独占するところであった。当時清政府の税関総税務局局長を担当したのはイギリス人ロバート・ハートで、彼は李鴻章と密接な関係にあり八方手を尽くし(はっぽうてをつくす)て清政府に税関が郵政を試験創業することに同意させようとした。1866年、煙台税関に郵便事務所を設置し、外国使者文書の配達も始めた。

1878年、ロバート・ハートは天津税関の崔徳琳に中国税関の郵便業務の担当を命じて清政府ついては天津税関を中心として北京、上海、煙台と牛荘(現在の営口)5カ所の税関で郵政の試験業務を始めた。同年3月23日、煙台税関郵便局は🛃公衆郵便物の引受(ひきうけ)を開始し、8月9日には中国に中国初の切手一式である大龍切手を発売した。当時の煙台税関は「東海関」と呼ばれ、百余年も前から名実ともなう山東の「第一関」であった。煙台の開港は早く、外国人の往来も多く、当時の試験郵政は外国人のための服務が主要であった。当時東海関の地位にふさわしく、煙台に設立した郵政総局は、然山東の郵政業務を統括した。

1896年、南洋大臣張之洞は光緒帝に上書して国家による郵政創設を建議し、光緒帝はこの上奏に「依議(同意する)」と記し、清国郵政官局は正式に創設され、煙台は正郵政区域となり、煙台郵政総局を設け、区域内の郵政分局と、代行所を管理した。1911年には、区域内の郵政局と、代行所はともに39カ所が設置されていた。1913年には、煙台郵政区域は撤収され、改めて一等郵便局が設置された。1936年になると、膠東の比較的大集落と交通の要所には皆郵政局と、分所が設置されたが、蓬莱、黄県、掖県沿海は最も密集していた。

百年以上前、大龍切手はここから世界に発行され、中国の近代郵政はここが起源であり、これは煙台の誇りである。

煙台郵政の辛苦の道程

中国古代の郵駅(うまや)制度は、古く長い歴史があり、文字記載のある殷代に始まり、すでに3,600年の歴史がある。そして煙台郵政は早期の民間通信から、清代郵政、また中華郵政、人民郵政に至るまで、開港以来までずっとたくさんの雨風を経験してきた。
古くは1866年に、煙台近代郵政の原型はもう出現し、1896年には、清朝郵政官局も正式に設立されたが、アヘン戦争ののち列強の中華侵略に随い、前後して列強が相次ぎ客郵(外国人による郵便制)局を設立した。「客郵」は罪深きアヘン貿易に伴い中国に入り込んだ。

イギリスの資本家が中国にアヘンの密輸を開始し桟橋上にポストを掛けて、中英商用通信の用途に備えたが、これが侵略者が中国郵政を侵犯する序章(じょしょう)となった。1834年イギリス商務監督ウィリアム・ジョン・ネピアは中国主権を無視して、広州城外に「イギリス郵便局」を設立し、ロンドンイギリス郵政総局に直属させた。アヘン販売のための高速艇による情報の伝達は、これは最も早く中国で出現した「客郵局」で清政府のしかるべき干渉には遭わなかった。

1876年、イギリス人は東海関を通信往来の代理として10年目に、明治維新以後の日本が、海岸通りと朝陽街交差点の東北角に、煙台初の客郵局を開設した。

その後、英仏独露などの国が、また相次いで煙台に客郵局を主に煙台山下の海岸街に集中して開設した。その中で、ドイツ客郵局が多くの客郵局の中で唯一切手を発行した客郵局である。自宅出口から出せない郵便物は、西洋人の開設した煙台山下の客郵政局を通して切手を貼り足して、消印(けしいん)を押して、次々と客郵局に配達されたて、煙台には長年(国家の)郵政主権を喪失(そうしつ)した。1922年のワシントン会議期間になって、アメリカはイギリス、日本の極東拡張を制限し、勢力範囲を区分する時に、煙台の「客郵局」はやっと全部消失した。

早くも清朝郵政時期には、煙台はもう南北海運郵送の中枢(ちゅうすう)局の一つであった。海上郵送路は、天津、秦皇島、牛莊、大連、青島、上海、広州、香港、日本、朝鮮、欧米に達しまた常にクルーズ客船も煙台に来ている。陸上郵送路は既に煙台から済南、天津、鎮江への三本の郵送路線が引かれていた。

(配達)区内には煙台を中心として各局、各所を貫通する郵送網が作られていた。清末には、煙台から東は栄成、南は莱陽、西は登州、黄県、莱州、沙河を経て濰県に至る、昼夜兼行で遣わされる(つかわす)郵送が開設されていた。この時設立された郵政業務には封書、はがき、新聞、印刷物、通商契約、見本品、小包、為替などで、書留(かきとめ)郵便、保険、速達、配達証明、局留め(局留めと代金引換(だいきんひきかえ)などの取り扱いもできた。当時、煙台、威海衛、登州、黄県、龍口などの郵便局はもう国際郵便業務を開始していた。

中華民国初期には、煙台の海陸郵送は往時のままであった。1923年(民国12年)、山東省初の長距離自動車郵送路--煙台から濰県に至る自動車郵送路が開通した。その後、自動車郵送は日増しに拡大して、郵便運輸は次第に自動車郵送と交替し、郵便配達は日に日に迅速となった。
元の郵便サービスの処理を継続(けいぞく)することに加えて、追加のサービスには、ビジネスチラシ、小包郵便、保険付き郵便、郵便貯金、郵便電報、代理店購読出版物、本の購入、税印の代理店販売、及び商業返信書が含まれます。国際通信及び小包サービスを設定する支局及び事務所には、煙台、蓬莱、黄県、威海衛、龍口、西山口、虎頭崖などがあります。
郵政局・所の増設と郵政業務の発展に従って、町村部は郵便配達の創設を開始した。膠東地区の町村の郵便配達は1916年に始まったが、開始時には歩行による配達で、1919年には配達に自転車の使用が開始された。
第二次世界大戦から国共内戦時代、膠東根拠地と解放区の戦時郵政と都心部中華郵便局は同時に並存(へいぞん)した。中国共産党の指導の下で膠東戦時郵政が1942年5月10日に誕生した。
当時、東海、北海、西海、南海4専門区及び各県は皆戦時郵政管理局を設置し、膠東戦時郵政管理局が管轄した。戦時郵便局は郵政、交通、発行三位一体の新型郵政機構で、その主要な任務は戦争需要の共産党・政府・解放軍の文書と発行される党の新聞・刊行物などの宣伝品の伝達の為で、また軍や民間の封書、小包、為替送金業務をも取り扱い、第二次世界大戦勝利のために貢献し、後の人民郵政建立の基礎を固定した。
1945年、抗日戦争が勝利して、膠東戦時郵政監理局は人員を煙台及び各県の中華郵便電信機構の引継(ひきつぎ)のために派遣した。引継後、分立(ぶんりつ)して仲愷と曲中楽をする中国共産党郵政局支部と煙台電信局支部を設けた。
国共内戦時代、膠東戦時郵政は継続して堅固な発展を得た。1847年、国民党軍は煙台と膠東各県城を占領した。戦時郵便局は撤退して、山間の農村に転入した。1948年、煙台は二度目の解放となり、膠東郵電管理支局は人員を派遣し再び煙台及び各県の郵電機構を引き継いだ。
これより、煙台地区の人民郵電事業は正式に設立され、今日に至っている。
早く第一次アヘン戦争後、清朝の沿海や海岸は広州、上海等の中国都市を通商港として開放を迫られ、列強によって開いた客郵局(外国設営郵便)が出現した。
そして『北京条約』で規定された通商港の一つとして、煙台郵政も清の同治五年(1866年)に列強により門戸(もんこ)を押し広げられた。東海関はその郵便業務事務所の設立を開始し、煙台駐在の各国領事館、領事館代行または相当機関の公文書、東海関公私書信の配達を兼務した。関税主権の落伍(らくご)に伴い、煙台郵政の主権も不自由となり、自宅からの公文の差し出しはできずに、かえって西洋人の開設した煙台山の麓の客郵局を通して切手を貼り、消印を加えて配達されたが。郵政権限(けんげん)は客郵局で取り決められので、また開港後の煙台が遭遇した一連の恥辱(ちじょく)に濃厚な一筆を加えた。
客郵局(煙台に)が紛れ込んでから、郵政主権は56年間他に渡った。
イギリス人が東海関で書信の往来を代行した10年目に、明治維新後の日本も、侵略の触角(しょっかく)を煙台に伸ばして、1876年に、元の位置の海岸街と朝陽街の交差点東北角の煙台日本客郵局を開設したが、更に日本は郵政の名の元に清朝の虚実を探索し、18年後に勃発する日清戦争への前哨(ぜんしょう)基地として機能します。
1893年7月、煙台のドイツ人居留民は自ら煙台通商港郵政委員会を成立し、煙台通商港郵便局を設立し、『煙台港内郵便局規定』を頒布(はんぷ)し、10月6日に煙台切手(CHEFOOSTAMP)を発行した。
この郵便局は第一次世界大戦前の1917年3月17日になってやっと撤収された。ドイツの客郵は数多くの客郵の中で唯一切手を発行した。1898年、フランスの切手を使用し、消印の印径はミリメートルの二重円印で、内側は空欄で外側は埋まっており、内円は日付、外円の文字はフランス語で、上半条「CHEFOO CHINA」(中国芝罘)、下半に「POST FRANCAISE」(フランス郵政)に作り、紫色を使用して切手に消印した
1910年に成立したロシアの客郵局を加えて、開港後の50年間に、前後して4件の客郵局が煙台に成立し、独自の郵政規定を制定して、郵便商品を印行してたが、これは疑いもなく中国郵政の主権に対する強引な侵犯である。1922年のワシントン会議の時になって、アメリカはイギリス、日本の極東での拡張を制限し、勢力範囲の分割を刷新(さっしん)して、各国が煙台で創業した客郵は総て撤収された。
狂気的に中国に乗り込んだ客郵局に対して、李鴻章を主とする洋務派も傍観(ぼうかん)したまま無視もできず、1878年3月9日、中国税関総税務司は北京、天津、煙台、牛荘(営口)、上海5ヶ所で郵政を試験創業し、煙台は3月23日に公衆郵便の集配(しゅうたい)を開始し、また8月9日には中国発行の初めての切手--大龍切手を発売した。これは中国発行の最初の切手セットであったが、依然として濃厚な海外の色彩を持っており、更に煙台開港と密接な関係にある➖清朝郵政を取り扱うドイツ人崔徳琳はかつて東海税関政務司を担当していた。アヘン戦争後、列強は狂気的に中国での権利獲得をして、郵政も争奪焦点の一つであり、税関税務司のロバート・ハートと李鴻章の私的交友は深厚なので、いろいろ思案を巡らせ清政府に税関による郵政を同意させた。
光緒6年(1880年)元旦、清政府は、全て公衆に開放している税関の郵便業務事務所に対して、中国語名称を海関撥駟達(税関ポスト)局に統一し、郵政局が正式に出現した。
光緒二十二年(1896年)3月、光緒皇帝は総理役所(外交機関)が奏請した国家郵政局設置の上奏に同意し、煙台も始めに郵便局を開設する都市の一つに許可された。煙台清朝郵政官局の旧跡は現在の煙台山下の煙台郵政局の場所で、2階建ての寄棟(よせむね)青瓦の小楼で北に位置して南に向かって5間で、6本の煉瓦積の方形の柱を立て、1階は開け、2階の両端の間は閉じられ、二重の窓を付け、内側はガラスで外はガラス戸(百葉窓)とし、中間の3間は木製の欄干がある。一階の真ん中の柱の上には扁額一枚が掛けられ、黒地に金文字で稀なる「大清郵政局 IMPERIAL POST OFFICE 」の文字がある。
如何とも仕方がないのは、清朝郵政局は成立の日から民間に生産される通信局を制限対象とした。
煙台初の民間通信局ー協必昌通信局は光緒4年3月2日(1878年4月4日)に誕生して、その後史籍に記載された民間通信局は合計8局で、北京、天津、牛莊、沙河、維県、周村及び南方各地に送る書信を引き受けていた。しかし清朝郵政局はかえって、全ての郵便局のあるところは、各民間局は当郵便局登録をしなければならず、さもなくば自営の郵送業務はできず、違反者は59両の罰金に処せられると規定した。登録民間通信局は通商港を往来する書信を汽船の運送業者に託して、また郵便局から転送するよう、梱包(こんぽう)する必要があった。
光緒25年にまた規定を交付(こうふ)し、別に各民間局は郵便局で登録しなおした。また民間局は郵便局へ転送する総包を半額で引き受け、郵便局は民間局へ転送する内地の郵便は、あらかじめ郵便費用の半額を徴収することを規定した。登録民間局は、官営局とみなされ、いつでも必要に応じて補助金を支給する。
宣統元年(1909年)、煙台、済南、膠州の民間通信局6局を合計する、その総合機関を煙台に設置した。宣統2年、煙台に従う登録民間局6局は、内地にはもう支店なく、また業務量も激減して、送付される郵便袋書信は80,000余件であった。
宣統3年、書信は更に51,400件に減少した。1922年、煙台民間局の郵便袋は39件、内容の書信は181件で、一件ごとの平均重量は36グラムであった。1923年、煙台民間局の郵便袋は9件、内容の書信は22件であった。1924年には煙台民間局の郵便取り扱いはなかった。1934年3月14日、当時の政府は郵政業務の統一の為に、各地の民間局に一年内を期限として一律に撤退し、延長をしないことを厳命した。煙台民信局は、遂に閉鎖命令に従います。

著者 煙台 曲曉暉