山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

中国山東省旅行、野球友好交流旅行、ゴルフ旅行、中華文化、歴史故事、中国野球、健康。

ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
当社の日本語WECHAT ID:18660355510。当社の日本語対応WECHAT IDを追加し、チャットでお問い合わせも可能です。

元代の海上貿易から登州古港と古船

元代は中国史上最初の少数民族が統一した政権が完成し、領土は広大で、国力は旺盛であった。元代の海上貿易は前に唐宋を継承して、後に明清に続く、中国の海上貿易の発展史上重要な位置を占めた。

元代の海洋政策

元代の海洋政策は、より反復的なプロセスを経験しました。当初、当局は海外貿易を非常に重視し、民間が海上貿易に積極的に参加するよう促すだけでなく、海外諸国に「往来互市、各従所欲(相互市場を行き来し、それぞれが望む)」開放政策を発表した。元政府は泉州、上海、温州、広州、杭州、慶元(現在の江蘇省寧波市)の7カ所に、市舶司を設立し、海上輸出入貿易管理業務を行う。市舶司の主な責任は「掌蕃貨海舶徵榷貿易之事,以来遠人,通遠物。」,すなわち、船舶の登録と管理、関連書類の発行、税金の引き出し、購入、輸出、外国商人(企業)の接待と保護。海上貿易を独占し、利益を最大化する為に、世祖至元二十九年(1292年)から4回にわたって海上貿易の禁止と官船制度が導入された。しかし、これは全ての海外貿易を禁止するのではなく、海上貿易の独占を強化する為の「禁商販海、貿易独占」であった。英宗至治二年(1322年)以降、海上貿易の禁止が解除され、官船制度は名ばかりで廃止され、民間貿易が全面的に開放された。元代の海外貿易は全面的に発展した。

本文では元代の海上政策から造船と航海技術

登州港の元代の地位と蓬莱古沈没船の発見などの方面を簡単に分析してみたい。

元代の造船技術は大変進歩しており、その船体は堅固(けんご)で、構造は多様化し、専業化する特徴を露呈している。船型を選ぶ上で大、中、小三種がある。

「中国船舶は三等級に分かれ、大は鎮克、中は曹、第三を客克姆という」「大船は1,000人を積載することができ、漕ぎ手(こぎて)600人、兵士400人である」。赵善括『應齊雑著」には江西贛江のほとりで造船工場を遊覧した時に「江西のほとりに出かけるちと、木工(もっこう)が群集し、船場が立て込み、その由来は久しい。松桧を取り、木板に切り、釘は多く庚粟(かすがいをかける)して、油を泉のように使う。」という。船材の選択も大変研究されていて、「北方の木は水にふさわしくない」ので、船材の多くは南方の杉や松などを選ぶ。この種の木材は船体加工に適合するばかりでなくなった頑丈に食い込み、変形しないものである。特殊部位の舵(かじ)や、棹(さお)などは特に特殊な樹種を選択し、船体強化にはまた桐油(きりあぶら)、鉄釘、石灰、皮麻、木炭などを使用して、ほぞ組構造を配している。

航海技術の方面では、(マルコポーロの)『東方見聞録』中に記載される中国漁船は「一隻につき4本の帆柱で、12枚の帆を張ることができる」;「時にその2本は自由に倒すことができる」。「無風の時には、櫓を使い船を進めるが、櫓は大変大きくそれぞれ4人の漕ぎ手(こぎて)が必要である」。

「中国船舶の堅固さは他国船にも劣らない甚しさ(はなはだしい)で、つまりその大型の木製錨(いかり)は一切の暴風を制御することに感服する」。当時元代の帆柱、櫓、錨などは独創的で、当時にあっては大変先進的で、また羅針盤(らしんばん)を航海上使用していたので、元代に大規模な遠洋航海活動を進行する条件を有していた。これはまた元代の海外貿易を一歩進める発展をさらに促進した。

(蓬莱古船博物館の目玉の宝物:黄花梨(匂紫檀)の造船木材)

元代の海上交通路線と港

元代の国内海上輸送路は至元30年(1293年)に形成され、船体は長江(揚子口)河口の劉家港から海に入り、崇元三沙に至り大洋に出て東行して黒水洋に入り、成山に至り西に転じ、劉家島を経て登州沙門島(今の山東蓬莱)と莱州大洋と黄河河口付近から、直接直沽(今の天津塘沽)へ達し、そして大都へ向かった。この航路は主に南方の糧食を北へ運送し、運河の輸送圧力を緩和して、大都の糧食供給を解決するために開闢(かいびゃく)されたものである。この航路の開闢で、多くの南北商人が進出し、行商(ぎょうしょう)交易をし海上貿易の発展を促進した。元の海外貿易の奨励に従って、泉州、明州、広州等は、皆優良な大港として、不断(ふだん)の発展をし、泉州はさらに全国ないしは全世界最大の港の一つとなった。泉州から北上して琉球群島に至り、南下して南洋に至り、また明州、広州から南下した。海外貿易の発展と繁栄は国庫(こっこ)に巨大に財政収入をもたらしたばかりでなく、地方港の発展は地方経済の発展と繁栄をも促進した。

元代の主要な輸出入品

元代の海外貿易の国家と、地区は140余で、輸出商品は生糸(きいと)、絹織物、金、銀、鉄器、漆器(しっき)、磁器、麻布(あさぬの)、棉花(めんか)、水銀、硫黄、薬剤など、輸入商品は真珠、象牙(ぞうげ)、犀(さい)牛角、玳瑁(たいまい)、ダイヤモンド、琺瑯(ほうろう)、白檀(びゃくだん)、などである。元朝の商業活動は主に政府、モンゴル貴族、官吏及び色目人(西域出身者)の手により制圧されずに政府は豊富な商業利潤(りじゅん)を独占し、塩や茶などの類の多くの商品に対し専売を実行した。

登州港の元代での地位

登州は山東半島北部にあり、北は遼東半島を海で隔てて臨み、東へ行けば回路は高麗に達することができる。北の港に属して、開発は早かった。古来から、ずっと遼東半島までの主要な港であった。

唐代及び北宋初期、登州の海上運輸港の地位は依然として重要で、宋、元、明三代に至り、一定の歴史的環境が原因で次第に軍港へと転化した。登州港の没落(ぼつらく)の原因は主に経済の中心の南遷と、航路の変化、政治地理環境の影響などである。元代には、登州港は主に海上運輸の中継地点と補給基地となっていた。当時の経済の中心は南方にあり、造船に必要な船材や造船工場に限らず、また輸出品の産地も皆南方に集中し、加えて当時の主要な航路も南洋で、かつまた港も多いので、これらが南方の港が現代貿易の集散地となったのである。登州港は主に国内の海上運輸、つまり南方の糧食を北の直沽をへ運送する中継点、あるいは高麗、琉球諸国が大都へ朝貢し、それに遼東を北上する海上航路である。

蓬莱沈没船の年代と建造地の推測

2005年に蓬莱小海で3隻の古船を掘り出し。その内2、3号船の保存は良好であった。しかも3号船は考古学的層序(そうじょ)年代から見て、時代が最も早い。

船の構造から見ると、2号船に対して1984年に発見した1号船と比較して、比較的原始的で、船体は幅広く、九つの防水隔室を有し、船体には横向きの鱗(うろこ)貼りの構造で、縦向きにはほぞ接ぎ(はぎ)の構造である。3号船から出土遺物には、陶器、磁器、竹蓆、草縄、植物種子(しゅし)、数珠(じゅず)、などで、さらに高麗磁器一件を発見した。現在蓬莱閣には1984年に出土した古船に対して古船館を建設して展示を進めており、2005年発掘(はっくつ)の古船は遺跡博物館を建設して現地保存を進め、現在すでに落成して一般公開され、参観に共されている。3号船の船体構造と出土遺物の総合分析から、この船は貨物船であるようだ。ならばこの貨物船の建造地はどこなのか、この航路線はどうであったのか、そしてどのようにここへ沈んだのか、これらの未だ知られざる謎は我らの研究と探索の進行を持っている。 (2号古船)

(左上側2号古船、右下側3号古船)

今回の古船の発掘は厳格に野外考古学の作業規定に沿って進行し、小海の特殊な地理環境と結合し試掘溝(トレンチ)の方法で古船の位置を確定し、船内の泥土(でいど)の堆積(たいせき)情況を理解し、垂直(すいちょく)船体に縦横に小隔梁を設置する方法に基づき、考古層序学上から、古船、船材及び周囲の泥土の堆積に対して分層分析と科学的発掘を進行した。この船の木材の鑑定を経て主なのは赤松で、少量の杉木であった。船上には多くの補修の痕跡があり、これによりこの船は長期使用され、破朽の果てに破棄されたものと推測される。船上の遺物は少なく、その航路も多種の可能性がある。現在学術界では二種の観点がある。一つの見方はこの船は南方船で、南方の糧食を北運中に、船体の破損がひどく、使用に耐えられずここに廃棄された可能性。別の見方は高麗船であり、この船の建造部分が高麗の造船技術を採用していることによる。

最後

研究は認め(みとめ): 2号船は1号船と同様で、ともに登州沿海の倭寇に抵抗する戦艦であり、採用した防水隔室は、隔壁周辺の肋骨(ろっこつ)構造、部材の接続(せつぞく)方式、竜骨の補強材、帆柱の基底など中国古代の造船技術を反映している。

3号古船は明初の高麗貨物船で、竜骨がなく、平底であり、短く幅広で、操船の平穏性が重んじられた。これも防水隔室の技術を採用し、古代の中国・朝鮮の造船技術の交流の源流が長いで、また両国の経済貿易と文化交流の現物例証でもある。

著者 煙台 徐明光