山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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海泊河水源地の前世と今生--青島市街上水供給120周年

本年9月13日は、青島市上水供給120周年の記念日である。さらに3年前の、1899年から青島に初の送水源、海泊河水源地を建て始めてから丸々計算すると三世紀にわたり、123年を経過している。

(海泊河公園水源地遺址遠景)

(水源地遺址建築小品近景)

このような特別な日の前夜、私は再び海泊河公園に来て、川の南岸から北の方を見た:康寧路の方向にある、高架橋(こうかきょう)の下の明黄色の方形と円形の小型建築が屋内に水源地の遺跡をきっちりと包み込んでいる。その内円形の小屋の中に青島市域に供水を開始した集水(しゅうすい)井戸が完全に保護されており、この遺跡に対して2012年の全国文化財調査中に、1018号に列して『青島第3次全国文物普查新発現輯錄』歴史冊子に収録された。

青島市は山東半島の西南に位置し三面を海に囲まれ、一方を山に囲まれ、東南は黄海に臨み、東は煙台市に隣接して、西は濰坊市に界を接している。

『膠澳志』は青島についてこのように記載している:「(青島の)地は黄海の中央に当たり、即ち東方の第一の重要な入り口で、北は奉直に連なり,東は日・韓への航路,南は海洲(江蘇省連雲港市)、上海に通じて、適当な位置にあり、山東の交易の出入りだけでなく、実に北方船運の重要な位置を兼握している。」天然の特殊な地理環境を得て、清末の政府は膠州湾の地理の重要性を深く思い、1891年に登州鎮総兵章高元の率いる第四営をここに設置し都市化の歩みを始めた。

同様に、重要な戦略的位置と優良な港湾も西洋列強の望みを引き起こした。1897年、ドイツは「曹州教案(鉅野事件)」を口実に極東艦隊を派遣して膠州湾を攻略し、1898年に清政府と『中独膠澳租借条約』を締結するように強く迫り、同年10月12日、ドイツ皇帝は膠澳租借地の市区を「青島」と命名した。それから、青島は租借期間99年のドイツ植民地となりドイツ人が設計した「植民都のモデル都市」のような近代都市化の過程を引き起こした。

(1900➖1901年独建海泊河水源地工廠房)


(1900➖1901年独建海泊河水源地送水車間)


(送水車間唧筒室内工作場景)

ドイツが青島を租借した後、都市計画中の水源調査と、満ち足りた優良な飲用水の供給はドイツ総督府の当面の急務であった。当初の青島は即墨県に属するいくつかの散村で、原住民の飲料水は井戸水に頼っていた。

1898年にドイツ人が青島を租借したのち160の井戸を掘ったが、水量は足らずに水質も良くなく、渇水(かっすい)の年には、疫病が蔓延し、水不足となったので、水源を開発して、上水道を創建するのが第一の要件となった。その為、ドイツ総督府は正式に上水道の管理機構|| 号公告局を成立し、スタインメッツ(Steinmetz)を設計士、ガルムスを建設総監督とした。現在の街区南部沿海の中山路から大学路一帯の在留民、兵舎の集中する地区に対しての供水が計画された。

青島市区の地質は花崗岩と、変成岩で主に構成され、風化した岩の裂け目の耐水性は劣っ(おとる)ていて、水資源は大気中の降水の補給に頼るが、年間降水量の平均は700ミリメートルで、しかも7・8・9の3か月に集中し、源流は短く流れが浅いため、増水期の雨後は河水位が急上昇するが、まもなく川は干上がり(ひあがる)、市街に打抜かれた160本の井戸では根本的に青島の用水問題を解決できなかった(この井戸はのちに災害予備井戸となる)。

1898年に建設者らは三つの構想を提出した:第1の計画は小鮑島村から東に伸びる山間に貯水池を建設し、水道管で新市街に向け供水する。第2は海泊河付近の大きな谷で山肌(やまはだ)を下落ちる水に対して流れを堰き止め、そこに深井戸を掘り取水(しゅすい)場を建設する。第三は、もし前の2構想が通用しない場合、労山に山泉水道管を敷設(ふせつ)し市街に導く。資金が大変かかるので、これは最も下等策の構想となった。


1899年、地下資源探査計画は海泊河河谷の地下水貯水量と地質に対して詳細な調査を進めて、最後に「水資源の情況はとても良く、飲用水に供給する前提条件に完全に符合(ふごう)している。」と認めた。

ドイツ人の「膠澳発展備忘録(覚え書き)には「細菌検査の結果、この水質はまったく無菌であると証明され、ただ通水管に接続するだけ……これで給水構想の問題は止まり、常態化していたと水質不良は完全解決した。」と記す。

供水を解決する三つの草案は篩(ふるい)にかけられ最後に、海泊河水源地の建設が決定された。

海泊河は水源を浮山北麓に発し、現在の台東、四方の境界に沿い、広州路立体交差橋から膠州湾にそそぐ、全長6キロメートルの、季節性河流に属し、下流の海泊河公園の両側に沖積(ちゅうせき)平野があり、地下伏流水(ふくりゅうすい)の水質は良好である。1899年末に青島市は供水する最初の水源地をここで工事を始め、川の横断面に沿って50本の井戸を穿ち(うがつ)、サイフォンでかく井戸から集合井戸に寄せ集めて、ディーゼルポンプで集合井戸から、内径350ミリメートル、長さ4.2キロメートルの鋳鉄(ちゅうてつ)水道管で、観象山山頂(元水道山といった)の容量400立方メートルの貯配水池に汲み上げ、その後各使用者に配水された。

(独占時期大鮑島居民接水待ち合わせ)

1901年9月13日、青島市は給水量(貯水量)400立方メートルの給水施設〜海泊河水源地が正式に給水し、これより、青島市域の給水の歴史が開かれた。

給水工事の施工中は、段取りも満帆順風(まんぱんじゅんふう)とは言えず、ドイツのトレストン・ヴェルナは『近代青島の都市計画と建設』の一文に、このように記載した:「1900年春にやっと井筒(いづつ)沈降(ちんこう)を始めたが、運搬(うんぱん)部品の鋳鉄水道管の一船が暴風により沈没し、また敷き設時に多くの鉄管が破裂して、康熙を大幅に遅らせた。」。1901年9月初、ドイツ軍が膠州湾を占領して4年後、海泊河給水施設はやっと操業を開始し、これによってドイツの建立した都市に清潔で衛生的な飲用水の供給が初めてできた。

海泊河水源地は建設後から建国前まで、ずっと青島に給水する重要な水源地であり、青島の給水をかいびゃく)した先頭の河川であるばかりでなく、1914年の日独戦争中には、当李村河の水源地が爆破されて以後、そこはまた一番の要衝地で青島に給水する重要な責任を担った。

1937年末に、日本が青島の侵略を開始すると、市長の沈鴻烈は撤退前に白沙河水源地、黄埠水源地を爆破したので、海泊河水源地はまた道義的に引き続き市区內への給水の重責を担った。しかしながら1930年〜40年代には、青島経済の発展時で、河川沿いの台東、四方には新興産業と工場生産の廃水が徐々に私達の第一の母なる河川を汚染し、1948年末には、この默々と私なく半世紀を献身してきた水源地は生産の停止に迫られた。

海泊河給水施設の水源が汚染されてから、飲用水としては基準に達しないが、工業用水、冷却水としては十分完全に利用できた。開放後、1950年から1956年まで、市政府はそこを2度そのほかの産業に譲渡(じょうと)した。

その後、揚水機室、水井は十分にその残留価値を発揮したほか、水源地を涵養(かんよう)してきた森林樹木はまた次第に陽本公園、後の海泊河公園、文化公園が建設された。元の水源地機械室、集合井戸の遺跡は現在公園の中心に新建設された立体橋の下に位置し、2000年以降、円形の記念の小型建築の中に保護されている。2012年に海泊河水源地遺跡は青島の不可移動文化財に列せられた。

海泊河水源地は1899年に建設が始められ、1901年9月13日に送水した、青島最初の給水場である。

それと1863年の香港薄扶林水塘(Pok Fu Lam Reservoir )集水所、1879年の大連旅順の龍引泉水工事、1883年に建設された上海柳樹浦浄水場は共に19世紀の国内でも早期に建設された都市水道工事の一つである。

120年後、二つの都市の(水道)跡地に公園が建設された。一つは大連で、龍引泉公園の建設、二つは青島で海泊河公園が建設された。現在、海泊河公園は依然として揚水ポンプで地下水を汲み上げ公園の花木に灌水(かんすい)し、この文化公園を上手く粉飾(ふんしょく)している。

青島の都市給水の120年は、海泊河水源地から起算すると、ドイツ占領、日本占領、北洋(北京)政府時代、国民政府の(合計)50年の統治と新中国の強力建設の70年である。

歴史は我々に、青島のような淡水資源は大変不足していて、給水の歴史がこのように重厚で、導水工事はこのように大変で取水の触角(しょっかく)を黄河、長江、海水に伸ばすのは、たいへん珍しきものに属すと教えている。

建国前の50年間に開発した海泊河、李村、白沙河、黄埠四つの水源地と,建国後に気勢勇壮に進行した労山ダム湖(水庫)、大沽河、引黄済青(黄河水源済南青島水道)、南水北調(長江からの北方送水)、海水淡化の五大給水プロジェクトで、給水の歴史は実に容易ではなかったが。

歴史を知るのは忘れてはならないことであり、歴史はよりよく発展するように設計されている。青島は水資源が極めて不足する都市であり、120年前は1日400トンしか水を送らなかったが、現在は80万トンの水供給が2000倍に増加しているが、外水は80%以上を占めている。

私達は、水不足の時代の苦難と節水の輝かしい伝統を忘れず、青島という美しい都市に水を潤し、注ぎ込み、今日と明日の青島の栄光を支えます。