青島望火楼(日本人からの貢献)
青島で著名なカトリック教会広場の傍らの、浙江路と曲阜路の東南の曲がり角に、青島でもとても有名な「消防隊」、現在の青島市公安局消防支部浙江路中隊の所在地がある。
それはたいへん著名であると言われ、現在見るのはその顕著な位置である。そこは青島で最も熱いネットで有名な観光スポットのあたりにあって、たくさんの人が皆そこを知っていると考えられる。ここはこの古い通りの中では普通極まりない建物であり、その現在の地番は浙江路13号で、かつては曲阜路4号であった。建物はとっくに様相を変えたが、それはこの地番上であって、歴史をさかのぼれば、意外とこのように重厚深遠であることを、あなたは発見するだろう。
『青島市公安志』の記載によると、1905年7月31日、ドイツ膠澳(青島)総督府が頒布した「義勇消防隊規則』は、膠澳租借地を青島、大鮑島、埠頭、滙泉湾と郊外の5つの消防区に区分し柏林街(のちの曲阜路4号)に消防隊を設置し、青島巡査局に属し、隊員約50名とある。
構成員の多くは尉級警察(日本の警部)に類し、消防器材はナタ、オノ、砂、ロープ、バケツと人力ポンプぐらいであった。
1905年から今まで、116年あいだ、この地方では意外にずっとこの消防区画が使用されているが、青島だけでなく全国でも、やはり一つの伝説の歴史的なのである。
消防隊の望火楼(火の見櫓)(みやぐら)。観象山に位置する望火楼は旧青島中心の忘れられないランドマークである。
しかしながら、文学史学者の考証(こうしょう)によると、実のところ、ドイツが青島占領時期には、本物の望火楼は曲阜路浙江路入り口の東南角の、現在の消防隊の駐在地であり、そこはドイツ租借時代も消防隊の駐在地であり、高い塔もあったが、残念なことに元の建築はもう全て消失した。
1905年、青島巡査局消防隊はドイツから二頭立て馬車の引く蒸気ポンプ車を購入したが、ボイラーは常時焚かれ(たく)、火災があった時には蒸気駆動に依るポンプで放水して救難を補助した。その頃、人力ポンプも馬車で引き、消火時には4〜8人でポンプの梃子(てこ)を押して放水した。その後ドイツから手動(しゅどう)昇降梯子(はしご)馬車を一台購入し、高所消火に用いた。
日本がドイツに戦勝して初めて青島を占領したあと、青島の日本守備軍憲兵隊は消防隊を再編し、義勇消防隊と称し、隊員26名、その内6人が専門消防士(中国人4名、日本人3名)となり、その他は皆兼職であり、麻布町(今の曲阜路44号)、鷹門町(今の雲門三路44号)と李村に分駐した。今日の消防隊の所在地は、ドイツの青島占領当時の青島消防史上でも重要な地位を継承している。下(写真)は日本が初めて青島を侵略した当時、曲阜路4号に所属した消防隊隊員が曲阜路、浙江路、徳県路周辺で訓練した写真である。
曲阜路、浙江路角の聖言会会館で日本消防隊隊員が梯子車に登り高所消防訓練を行っているところである(龍口乙三郎編集発行『青島写真案内』187ページ)。
写真は聖言会会館の正面外の消防隊で、当時の馬曳消防車である。
写真は聖言会会館の正面外の消防隊で、当時の馬曳消火器具である。
1915年、青島の日本守備憲兵隊は日本から「鈴木ガソリン」のガソリンポンプ馬車2両を購入したが、この種のポンプは毎時30トンの放水が可能で、最大射程15メートルであった。
1938年1月、日本軍が再度青島に占領すると。青島治安維持会警察部は60余名を募集し、元の消防隊員を消防隊を再編し、市南、台東、李村の三区に分配した。市南の駐在地は已然として曲阜路4号のままであった。
1945年10月、国民政府は青島警察局消防隊を設立し、下に市南、台東、滄口3分隊を設けた。市南消防隊の所在地はやはり曲阜路4号である。
1946年の曲阜路、浙江路交差点あたりで、曲阜路消防隊の全景を見渡せる(アメリカ『life 』誌記者カール・マイダンスによる)。
青島解放後の、1949年6月3日、青島市公安局は消防隊を設立し、下に市南、市北、台東、滄口4分隊を設け、このほか新中国は青島市市南区消防隊を設立し、地番も曲阜路4号から浙江路13号へと改めた。
1986、カトリック教会前で、訓練から帰る消防隊隊員
1986、浙江路消防中隊前の消防車
青島には100年近くの歴史を擁する望火楼(火の見櫓)があるが、2009年に「旧態修復」の名目のもと、青島の歴史から消し去られた。
新式の望火楼は観象山にぽつんと聳え(そびえる)ていて、まるでそれ(元の望火楼)が経験した歴史から遠慮しているようでもあり、そのかつて入り交じった歳月の中で年季にの入った望火楼は、今や写真や図画(ずが)の中でしか見つからない⋯⋯
2009年5月19日、青島のランドマーク的歴史建築の、百歳望火楼は取り壊され、望火楼を模造した新建築が再建された。今なお解らないのは、どうして一部の人々は現在の望火楼が再建でなく、旧建築が当初のまま立っているというのかである。下のいくつかの写真を見て欲しい⋯⋯
2009年5月、関係部門は望火楼(火の見櫓)に対して、標語を「旧態修復」として修復を開始した。数日もせずに、付近の市民がメディアに、施工員達がこの望火楼をすっかり取り壊してしまったと通報した。
現場で見られたのは、望火楼はもう僅かに基礎を残すだけで、高々と聳え立っていた百歳望火楼はばらされたレンガの山となっていた。
社会取材網のこのニュースの放送中、ある担当者が取材を受けて、彼らは壁を剥がした(はがす)時に、モルタル構造の楼体は全体に脆く(もろく)、鉄筋も腐蝕が激しいのを発見し、如何ともしがたく臨時に計画を変更し、すぐ楼体の取り壊しをして、その後元のように再建することを決定したと話した。また「旧態修復」、「我らの家屋は総て直接修理するので,承認の必要はないとこのように声を張り上げた。“……
望火楼(日の見櫓)というと、青島っ子には全くおなじみなのである。望火楼の旧建築はもう二度と存在しないが、その歴史に関してはこの青島市の多くの文学歴史家が常々語り合う話題で、ネット上の望火楼に関する建築年代と設計士は基本は次のように言われている。
「望火楼は観象山西麓の観象一路45号に位置し、1905年に建てられ、ドイツの建築師クルト・ロートケーゲルの設計による。望火楼は膠澳巡査消防展望台で、一旦火災を発見すれば、楼内に当直する班員が楼頂にかけられた喚鐘で、乱れ打ちを30回、その後鳴鐘の回数で消防隊に火災の位置を知らす、即ち市南区は一回鳴らし、市北区は二回鳴らす、以下類推の如くである。1930年頃、青島にダイヤル通知の自動電話が開通してから、望火楼の効能は次第に電話通報に取って代わられた。1940年代初期には、歴史的使命を成し遂げた望火楼は閉鎖された」。
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