山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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鏌鋣島と天津大沽、青島、上海外灘とドイツ

観復博物館館長の馬未都は、『茶当酒集』に「私の生家は膠東半島の突端で、細長く点続する半島があり、鏌鋣島と言い、その名前は宝剣の名から取られていて古く文化がある」という一篇『鏌鋣島人』がある。

点続する半島は大変珍しい地形現象であり、毎日引き潮の後には半島を形成して、ひと筋の道が陸上と繋がり、その海底の砂は固く、自動車で出入りすることができて、世界中でもあまり見られず、その価値は貴重で、観光項目の開発など、間違いなく宝の山なのである。惜しむべきは30年以上前に無知なる時代の無知なる人々が力を費やしコンリート道路を建設した上に、鳴り物入りで新聞に載せ、良好なことと宣伝され久しい。

馬未都は文中で「点続半島」は、1970年代以前の石島区鏌鋣島は『栄成市地名志』によると「1972年に海堤公路が建設され陸上と繋がり、島には短距離バスが通じた」という。

島嶼と陸続きになる現象は比較的多く、膠東半島の龍口屺坶島、煙台の芝罘島、養馬島、栄成倭島、石島の鏌鋣島、東楮島などである。

鏌鋣島は、山東省威海市石島区の東南隅に位置し、島は東北から西南方向への細長い形で、石島区最大の島で、面積は4.5平方キロメートルであり、海岸延長は20.2キロメートルである。

イルティス(lltis )号ドイツ砲艦は、1878年に進水し、蒸気動力であるがまた三本マストであり、「手動自動一体」で、石炭燃料が不足しても、

帆による航行が可能であり、1866年以降、極東で兵役に付き、常に中日朝海域を巡航した。日清戦争の、1894年7月25日の豊島沖海戦では、「高陞」号軍隊輸送船が日本艦船の急襲を受け、多数の将兵が死傷し、「イルティス」号は、落水した将兵の救援に参加したが、イギリス軍艦「ポーポイズ」(Porpoise)、フランス軍艦「リオン」(Lion)も同時に救援に参加し、ともに「高陞」号に搭乗していたドイツ籍軍事顧問ヘンネケン(von Hanneken)を含み252人を救出した。それで、李鴻章は救援に参加した三国の船主のために表彰を奏請(そうせい)した。 鏌鋣島灯台遠景

1896年7月23日、煙台を出航した「イルティス」号は、海上で暴風に遭遇して暗礁に乗り上げ沈没した。『中国沿海灯塔志」の記録には、ドイツ砲艦「イルティス」号の座礁日時を西暦1896年1月23日午後10時から11時の間と査定している。該艦(がいかん)が座礁したあと、後部が破裂し、船員の死者77人、救援した搭乗者は僅か11人、船長と乗組員は皆無くなった。暗礁から灯台までは北寄り9海里にあり、楮島と言い、高潮の時には岩礁一個の小島のみとなり、その間にさすが陸と繋がっている。その夜は濃霧(のうむ)と、東風の暴風雨で、実際に船員が鏌鋣島の灯光を見たかどうか不明であるが、実際は不可能のように思える。その灯台の光は、確かに一晩中燃え続け、霧笛の警告は、少しも止まらなかった。救出された船員によると、彼らは成山沖を航行した際には、午後6時であったが、当時艦上の人員は誰もその艦船がどこに進んでいるのか知るものがなく、10時に陸地に近づいたので、何度か帆を張ろうとしたが、風の勢いが強すぎて、必要な部材を数点吹き飛ばされたので、艦船は遂に停船し、10時半に座礁、多くの船員が後部にいて該艦船は座礁後、しばらくすると断裂し、彼らは倒れたマスト共に流れ去り、その他は岩礁に打ち付けられて落命し、艦船の前部にいた少数の者は、尚甲板(かんぱん)上で息をひそめ、36時間後にやっと中国のサンパン船の救助で上陸した。(この記事では、1月23日は7月23日である必要があります)。

当時上海徐家滙天文台のルイ・フリック神父の著に『1896年7月22〜25日の「イルティス」台風』があるが、この書の原文は未発見であるが、封題からは「イルティス」号が台風に遭遇したので、フリックは今回の台風に「イルティス」と名付けたことがわかる。

そのほか東海税関の佚名資料には、この海難に対して記録を進めている、“23rd July 1896: The German gun-boat lltis was totally lost on a rock officers, together with 77 of the crew, were drowned.”

試しに訳すと、1896年7月23日:ドイツの砲艦「イルティス」は、南東岬の9海里北にある岩の上で完全に沈没した。彼女(イルティス号)の船長と軍官は、77人の船員とともに溺死(できし)した。

「接触した暗礁は灯台の東北東9海里にあり、名を楮島と言い、つまり石島区の東楮島で、海図中では、東楮島は重要なランドマーク「平岩島」(Flat Rock Point)である。

『中国沿海灯塔志』には「ドイツ人はかつてこの場所の北に、長さ50尺、巾約20尺の地を購入し、ドイツ砲艦“イルティス”号船長及び全員27人の、遺骸を埋葬し共同墓とした。」と記載する。

総体的な情況は、ドイツ砲艦「イルティス」号は、1894年の夏に中国の官軍の救援にあり、1896年の夏に海難に遇った後、中国のサンパン船に救援され、双方は皆道義に出て、相互に救いの手を差し伸べたのである。

だが、「道義を置いて、利益を取る」と言うが、道義は道義、利益は利益である。

光緒23年(1897年)、ドイツは「曹州教案」を口実として青島を侵略した。沈没した「イルティス」号を記念するため、ドイツ占領軍は前山(今の太平山)を、「イルティス」と命名し、その後「イルティス」兵営を建造した。

ドイツ人は青島で、一山を利用して「イルティス」号の記念碑を作り、上海外灘では「イルティス」号の破残したマストで記念碑を作った。

「1898年」、山東に赴いてイルティスの引き上げを企てた上海のドイツ商社は、上海居留のドイツ人に出資を呼びかけ、上海にイルティスの為に記念碑を建設することを決定した。

イルティス記念碑はドイツの有名な彫塑(ちょうそ)家オーギュスト・クラウスによる創作で、当年の11月21日に上海外灘で落成除幕(じょまく)、ドイツ各界(かくかい)の名士のほかにオーストリア、ロシア、イギリス、アメリカなど中国駐在の外国軍艦が艦員を派遣して式典に参加した。」

設計士が「イルティス」号のマストの残骸を記念碑の主体に採用したのは、本当に奇想天外の良い思い付きである。青島上海に限らず、ドイツ人の「イルティス」号に対して深くいとおしみ、この愛おしみは、一隻の新しい「イルティス」号艦船の出現に継続して、物語の後半を構成するのである。

『中国沿海灯塔志』を再読すると、「島の東端柄海に向かって、また記念碑があり、「イルティス」号の船員7名が、光緒26年(1900年)に(天津の)大沽で亡くなったのを記念して建てられた。」とある。

この文章は、一隻の新「イルティス」号があり、かつ1900年に「大沽に死す者」を、また鏌鋣島に埋葬したという重要な情報を暗示(あんじ)している。

「1898年、ドイツ海軍は一級排水量1031トンの新式砲艦にイルティス級と命名して、始めの艦イルティスは元通りに東亜従役に派遣されたが、二代目イルティスが中国人に残した印象は、1900年の義和団の乱に8ヶ国連合軍の一員として武力干渉を行ったにすぎない。

『八国聯軍目撃記』の大沽砲台猛攻撃の一節の記述によると、「17発の榴弾と1発の榴散弾がドイツ軍艦「イルティス」号上に着弾し、この艦の甲板は皆破壊された。艦長のランスは25粒の弾片と木片が命中して、重傷を負い、片脚を折った。

このドイツ人が初めて身を以てドイツの榴弾の優良な効果を味わったのは、大沽砲台がちょうどこの種の大砲で武装したからであった。ドイツ軍将校と7名の兵士が被弾して死に、17名が負傷した。」

これは1900年6月17日に発生した戦闘で、新「イルティス」号砲艦は大沽砲台の砲撃に遭遇し、これに対して、遺失した西洋での中国シーリズの『海外資料による義和団事変、下』にはイギリスの画報の記事、題名「実至名帰(名実伴う):大沽戦役」の抜粋(ばっすい)中に、「アルジェリア」号を「イルティス」号として歓呼している。

「名誉を与えられるものに当然の名誉:大沽砲撃中にアルジェリアを援護する“イルティス”」

西北の砲台を占領後、「アルジェリア」号は流れに順って下り、真北の砲台の攻撃に遭った。ドイツの「イルティス」号軍艦は付き随って(つきしたがう)きて、内側から「アルジェリア」号を廻って敵の砲火を引き付けて、大打撃を受けた。後方の煙突は傷だらけとなり、断裂した船梁が船長を打ち付けたばかりでなく、マキシムガン2基を打ち壊したが「アルジェリア」号が「イルティス」を通過した時に歓呼の声が上がった。「イルティス」号艦長の英雄的行為はドイツカイザル大帝(ウィルヘルム2世)の表彰を受けた。

新「イルティス」号砲艦はハヶ国連合軍に参与するために作られ、ドイツ国人は「正義」と「栄光」に満ちていると自認していて、彼らはこのために三本の街路の命名に、「彪炳青史(美しい歴史)」を以てした。

その年の「イルティス」号は知らない間に時空の連鎖の節目になって、道義と正義が混合しているが、今の鏌鋣島が連鎖の節目となっているのに似ている。

鏌鋣島の二隻の「イルティス」号の墓地は、既に経年荒廃して、今では石の基礎が少しばかり残るばかりで、修復を建議する人もあるが、これにはあえて同調せず、むしろ墓地の元物を収集するのがよく、集中して並べ、その後標石を建て、二隻の「イルティス」号の事略を概述して、訪問したドイツ人の慰安する所とし、これを見た中国人が、知る所となれば、よいのである。

著者 威海  威海干糧

日本文資料整理 威海 李君