山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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二人のスコットランドの「怪人」

「世界性のメディア帝国であるアメリカの『タイムズ』週刊誌は、その表紙を飾る一人一人の人物が、「当時の国内外の事物を代表し、科学技術を代表し、文明の進歩の方向と人類生活とその他の方面を代表する」のを誉められるのと同様に;我々がもしイギリスの威海衛租借時代の歴史を一時とする表紙人物には、疑いもなくこの二人並んだイギリス人:一人は「西洋人儒者」ロックハートで、一人は「聡明な怪人」ジョンストンである。初代文官行政長官(「行政長官」となったロックハートは第四期の任務である)と最後の行政長官である。ロックハートは威海で19年任官し;ジョンストンは1904年にロックハートから推薦され、イギリスから当時の香港に在った威海衛に出向し、前後して政府秘書、正華務司と南区行政長官などの要職を任じた。1919年に威海から北京に赴き溥儀皇帝の英語教師を任じ、1927年再び威海衛に帰りイギリス政府が威海衛を返還するまで行政長官を任じた。

ロックハートとジョンストン 1921年


この二人が威海衛の歴史上に足跡を留めた重要なイギリス人で、二人は中国伝統文化を評価し崇拝して、ほぼ全般に「中国化」した西洋人である。二人は十分特殊で、十分豊富なものを持っていた。この二人自体が、ある種奇特(きとく)な文化現象である。
どの種の理解も、本当の解釈は大変難しく、どの種の理論も全体をカバーするのも大変難しく、どの種の解釈も彼らの政治文化生涯の中の数え切れない「暗号」を説明しきれない。幸いに私は一つの歴史故事の物語に一層心を傾け、それは私の内心の多くの負担を減少させた。
その年ジョンストンの官邸に、明らかに侠客(きょうかく)の一類である「飛賊」が招かれた。中国の侠客の伝説については、ジョンストン氏は深く理解できなかったが、彼の邸宅の本物の「侠」について、我々は逆に彼の見解と議論を聞いたことがない。
ジョンストンの邸宅は以前の「聯合里」の西に在り、イギリス租借時にはたった7人のイギリス人がその広大な土地を管理していた。ジョンストンの住まいは平屋一棟と、庭であった。庭には二門の真っ黒なドイツ製の大砲が据であったが、それは北洋海軍の残した遺物で、大砲の部品はもうさび付いていても、聞くところによると当時はその性能はまだ完全であったが、惜しいことに1958年の大練鋼鉄運動の時に、人々に原料とされスクラップと化した……
ジョンストン氏は大砲を庭に残したが、聞くところによるとそれを家内安全の呪い(まじない)とみなしていた。居宅の外側には日中には見張が4人立ち、夜間は4人がパトロールとし、黄色の頭巾(ずきん)で、ライフルを背負いパトロールし、警備は堅固でないとは言えないのである(実に堅固である)。他にシェフが3人、庭師が1人であった。
部屋の中には宣統帝との記念写真が掛けてあるが、皇帝の講師として、ジョンストン氏の誇りと自慢は所々にあふれ出ているのである。この人望と畏怖(いふ)を感じさせる官邸に、事もあろうに一匹の盗賊が舞い下がりたのである。
実際、これも無くしたものによって判断されるもので、その姿は根っから人に見られていないのである。その日ジョンストンは部屋の中で読書をしていて、寝室のベッドの錆臙脂(さびえんじ)の毛布がとんでもない不慮(盗難)にあったことを発見した。同時に現場には「猿印」のマッチ箱があり、床にたばこの吸い殻があり、犯罪者はまるで、「見ろ、私はここでゆっくりたばこ一本吸ったのだぞ」と言っているようであった。
中国の巡査長陳学清はあたりを捜査して、昆嵛山あたりの洞穴で、たくさんの屋根壁を飛び越える盗賊を洞内に探り得た。陳学清は単身洞窟でその毛布を盗んだ輩を見つけ出したが、そのものは絨毯の為でなく、ただ(窃盗「せっとう」の)技術を見せたいだけどと言い、また七日以内にジョンの旦那にきっと返すとも言った。
ジョンストン氏はこのことを揚州八怪の一人鄭板橋が書いた盗人の進むべき道を明らかに語った詩「盗物指南」を模倣した物だと聞き、(それは)聞いたところによるとだいたい盗人は巡査に捕捉されるのを怖れて、盗人と交わり然々(しかじか)て、その後とんずらするというそうである。しかし三日も経たずに、盗賊はその毛布をジョンの寝室に、神鬼も見知らぬうちに(神技のように)送り返した。ジョン氏はそれで追求しなくなり、その後盗賊もジョンの家に来ることもなく、威海衛の街中を撹乱(かくらん)することもなかった。
これはまさに中国の老荘の道ではないだろうか。多分ジョンストンがまた中国儒学と道学(タオ)に精通していることを現したものである。
民間伝承に相応するのは『米字旗下の威海衛』提供する要点的な資料で、それらは相互に証明し、相互に引き立て合っている。この「趣き」の中に我らが少しの道理を語り、いささかの考えを引き起こすことがあれば、それは私達が求めて得ない人情である。
偉人と言えば、イギリスも本当に「偉人」を輩出する国である。これらの「偉人」は古来絶えず書き留められた多くの人々の第一(の人)である。近現代以来、そこには前後して初の一瓶のペニシリン、初の真空管、初のレーダー、初の計算機、初のテレビ〜初のクローン羊、初の試験管ベービーが出ている。偉人の「奇跡」は時に大変面白い。ジョンストンは後のオックスフォード大学に入学して、チャールズ、ドジソンという数学教授と、初めての旅行中に、一人の少女に口伝て(くちづで)童話(どうわ)を話してあげたが、勿論少女はやはりチャールズを面白いと思ったが、彼はルイス・キャロルの名でこの童話を書いた。彼はそれが世界的名著になるとは思っていなかった。それは『不思議の国にアリス、」である。
当時のヴィクトリア女王もこの童話について言及していて、作者に今後著作のあるたびにすぐさま彼女に贈呈(ぞうてい)するよう命じられた。しかし間もなく彼女が受け取った新著は「行列式 -  数値を計算する簡単な方法』であった。
このような「偶然」は往々にして普遍的な規律で、この厳粛な群衆の中に、いたずらな無邪気さが秘められているのである。「最前線」制度を実行する地方ほど、容易に古代文明への反芻(はんすう)が出現する。後進的な地にあるほど、容易に土着文化への極端な崇拝を引き起こすのである。
このような怪しげな土地に、ロックハートとジョンストンが生み出されたのである。
ロックハートは1858年にスコットランドで生まれ、若い頃前後してイギリスウイリアム王学院とワトソン学院に入学して、のちにエジンバラ大学を卒業した。1878年にロックハートはイギリス植民部に合格し、ヴィクトリア女王学院で一年の中国語習練(しゅうれん)の後、1879年に香港に派遣され、40年にわたる中国植民地行政の生涯を開始した。
私は彼の才能、勤勉さ、彼が中国語に対してこの古臭い国柄に対する濃厚な関心を想像する。後に威海市の古文書館の別件資料中に、私は果たして得難い補足(資料)を獲得した。
「ロックハートは精力が優れ、気力にあふれて、中国文化について学ばないものはなく、通じないところがなかった」。彼の当時の読書記録がスコットランドの図書館に残っていて、記録には「『論語』、『易経』、『大学』、『中庸』、『左伝』、『資治通鑑』など万遍なく読んだ」ことがわかる。
正にこれらの研究と、この努力で、この東方学問上の抜群な優等生はイギリスの植民政府に気に入られ、後に遥かな東方の土地で学才を発揮させることができた。ロックハート氏のこの時の学習は、中国文化の吸収(きゅうしゅう)も受けたが、主要は中国植民地統治機関へ入るための資格を取得することで、その目的の大半は征服と統治正時に役立つことに重点が置かれていた。
実際、だれもが受け入れ難い利己的な中国の官吏(の中で)初めて快適で、余裕があり、静安で、号令の発施は礼儀正しく、だれもが涙ながらに平伏し(ひれふす)、恩徳に感謝し、「青天大老爷(清廉潔白せいれんけっぱくな役人)」と連呼(れんこ)した……、困難な学問の研鑽(けんさん)、文化の吸収、これは一介の西洋人にとって、確実に簡単なことではないのである。
ロックハートは儒家の学説を探求する過程で、孔子に対して極度に崇拝するようになり、彼と孔府の子孫孔令貽(孔子十六代の子孫)との個人交流は誠実で、伝える所では彼はかつて親しく訪問に行ったので、民間で「駱大臣(ロックハート)が‘小聖人’にまみえる」の伝説となった。
事実はこの如くで、隊列で迎えられ、奏楽(そうがく)があり、宴席が設けられのであり、『米字旗下の威海衛』に添えられた写真は、ロックハートと孔府人員の集合撮影である。
ロックハートの実物の文書はイギリスのワトソン大学事務棟二階の東角の一間の内にある。そこには当時威海衛の最高植民地統治権力である「大英欽命威海衛辦事大臣」の印章、事務室で使っていた文房四宝(ぶんぼうしほう)が保存されており、(それらは)全部が中国化していて、さながら中国の一大臣のようである。
会見ののち、ロックハートは孔令貽に中国風の「どのくらいの漢字をご存知ですか」と質問をしたという。これは明らかに民間自作の伝説で、中国の民間では学鑑の深浅(深浅)を量るには識字量(しきじりょう)の多少で決定したことに依る。孔令貽は低くゆっくりと「識字不多、用字不差(字もたくさん知らず、使う文字も同じだけである)」という八文字の言葉を話した。識字不多、用字不差とはロックハートを呆気(あっけ)にとらえさせた。彼は、中国にはあんなに漢字が多く、一つごとにあんなに多くの話し方や用法があるのに、(孔氏が)敢えて(あえて)「用字不差」というのは、どれだけ重厚な学問が必要かと知ったのである。
もちろん、これは西洋人が孔聖人に及ばなかったことを誇りに思っている中国人の解釈であり、ロックハートは「小聖人」と識字を比べると噂されています。ロックハートは大敗した。ロックハートは目に涙を浮かべて「小聖人」に二つの礼拝をしました。
私達は、1903年から、ロックハートが香港から威海衛に最初の行政長官に就任した2年目から、公署は初開、公務が多いのロックハートが孔府に足を踏み入れるのを待ちきれなかった。ロックハートが中国儒教に憧れていた内面がよくわかる。斉魯の大地に臨めば、衍聖公府邸に拝謁することが第一の要務である。
今回の拝謁は、孔府に残した足跡は大変力強かった。山東の上層部の人物に極大の好感を持たれただけでなく、民間でも、駱大臣(ロックハート)が孔廟を参拝したことを取り上げ多くの称賛の言葉がある。孔府については、疑いもなく更に喜ばしい盛挙(せいきょ)で、曲阜一帯ではあちこちに噂が広がって、「識字不多、用字不差(字もたくさん知らず、使う文字も同じだけである)」の伝説のだいたいの来源がそこにあった。今回の訪拝の政治的影響はロックハート氏の予想にあったかどうかは、当然我々がこれを排除できないが、しかし一人の熱心に中国儒学を研鑽する元エジンバラ大学の優等生が、もし彼の訪問の主要が彼の熱愛、彼の敬慕(けいぼ)を来源とするならば、何の問題もあるはずがない。熱愛と敬慕の力がそのほかの力に勝ることは何の疑問もないのである。
青い目の「西洋儒者」と、「小聖人」はどんな話ができたのだろう。
我々は具体的には理解できないが、私達は彼らがかつて関与しなかった内容を推察することができる。私は、多分植民地統治や、どんな国際情勢も語り合わず、アダム・スミス教授の『国富論』やまたは(アルフレッド.s)マハン大佐の『海権論』も語らず、また『論語』などの儒家思想の著作のみが語り通じることができたと信じている。一般大衆の説話(せつわ)ではあくまで「識字」の事を論じ合ったとする。学問を切磋(せっさ)するほかには、そもそもロックハート氏は頭から、そこにある土石(どせき)木瓦(の建物)と脆く(もろい)黄ばんだ書物の気味にすっかり染まった……、特殊な雰囲気にとっぷり浸かっていた。
ロックハートが交流したその他の文化的有名人から考えると、「中国カンフー」も実に並外れて(なみはずれる)いて見るに足りる。ロックハート氏の大切な友人中には、一人「一茶瓶と四茶碗」の屁理屈で有名な北京大学教授辜鴻銘がいる。
辜鴻銘は奇才の一人に数えられ、英、仏、独等に留学し、多種の言語に精通し、しかも孔孟の道を一人尊崇(そんすう)していた。ロックハートはいつも彼と学術的な書信の往来を持っていたし、両人は哲学上の問題についていかにも興味深く討論した。中国書畫(しょが)方面に在ってはロックハートはまた中国画界の大家(の称)が与えられ、世界的に名が通る徐飛鴻との書信は絶えず、そこで彼の中国絵画に対する独特な観賞眼が養われた。イギリスのロックハートの現物古文書珍蔵室では、人々はそこに陳列された220余りの書画を見ることができるが、数量ばかりでなく人々は、その「ほとんど有名な書画家の珍品」であることに驚かされ、それは徐飛鴻の『懶猫図』や、任伯年の『竹島扇』、任冀の『梅妻鶴子図』などであり、一つとして中国絵画の逸品でないものはない。
山東省の役人との往来にも、ロックハートはまた中国の地方官治政の学問研究を展開した。在任中には、清末の山東巡撫周馥、楊士驥、袁樹勋、孫宝崎らとの関係と往来があった。
これらの関係は具体的な政務のために進められたものではなく、今日の話に例えると業務の為に交流したのではなく、主要(な目的)は学習のためであり、交流のためであり、「たてまえ(の政治)」のためであった。
それで、ロックハート氏の地方行政の手段は実際にはとても深遠で、当地の一般大衆の「賞賛」まで受けたのである。
ある老人が私に訴えたのは、当時毎年正月には地方では「弁要漫才」(往時民間の一種の娯楽活動)を組織し、漫才遊びの組列には一人「老売婆」が先頭に立ち、年間に威海衛の街に突出した善人佳事を、句に捻捻って(ひねり)歌い出すのであった。その漫才組がイギリス公署の門前に来た時、老売婆はにわかに意気込んで、「ロックハート大臣」を讃える歌詞で観衆の前でロックハートに「話はてかてか目はくぼみ」と歌い上げた。(民間で馬鹿にして笑いに例える)それは「それはおべっか」なのではないか。老人の言はそう言っているのではなく、一つには彼に諂う(へつらう)のは人民に対して事実上は何の意味もなく、精々(せいぜい)ひとり二口の、点心を包んだ(つつむ)に過ぎない。二つには威海衛の人間は実直で、誰かが担当官にへつらえば、その人は唾(つばき)をかけられるのである。老人はロックハートの威海衛での仕事が確実で間違いのないことを語った。災害救済あり、減税(げんぜい)あり、農村体験あり、こういう事情は彼に好ましい口伝(くでん)を残した。
ロックハートの勤勉さも感服せざるを得なかった。人々は彼が収集した中国の謎掛け言葉300余、中国語で記録した民間の故事の厚い本、威海衛の風情民俗を記した袋一杯の草稿(そうこう)を発見した。
ロックハートは学者型の管理者であると言え、そして「完全に中国化」した外国学者である。本当に彼が稀に見る「奇人」であるとは言えない。
一度ならず二度までも、
ロックハートに継ぐジョンストン大臣も、全く中国化していて、ロックハートに過(か)とも劣らずであった。
ジョンストンもスコットランド人で、本名はレジナルド・フレミング・ジョンストン頓(Rejinald•F•Johnslon)である。1894年にエジンバラ大学を卒業。ロックハートとは異なり自分独学(東洋古典文学と歴史を専攻)してオックスフォード題画詩で近現代史学修士を取得した。
ジョンストンの履歴資料で、私を最も引き付けたのは「オックスフォード大学」という文字であった。オックスフォード大学、それはいつも「奇人」を輩出する大学で、そこにはある種衆目(しゅうもく)には理解できない風格がある。14世紀中葉から、オックスフォード大学はまるで市民との間に闘争するような中で成長して来た。「具体的に分析すれば、当時闘争が起これば、学生にも大きな問題があり、例えば若い気質で暴言を吐いては、市民を不快にさせるようなものである。ただし全体的に言えば、主要な問題は市民にあって、彼らは自身が保守的、後進的で、天下唯一の合理的心理状態であるので、彼らが知らない心理状態に対しては極度に敏感で激しい拒絶を生み出したのである。」
しかしながら「歴史は総て成果を以て大いに答えている。まずニュートンとダーウィンが意気高く身を起こして、その後、現代科学の発展と一体となるように、それぞれ(の発展)はすべてオックスフォードとケンブリッジからは離れがたいのである。地球が「計量」され、電磁波は「予測」され、電子、中性子、原子核は分離透析され、DNAの連鎖構造も発見され……これらの大事の背後には、傑出した賢者が身を起こしているのである。今まで、ケインズ、ラッセルとイギリスの大多数の首相も一人また一人続々と輩出している。周囲の人間は(その)才能や人となりを羨望(せんぼう)し諂い(へつらう)及ばないのに、どうして(学生を)吊し上げることができようか。
歴史を開き出した成果とその創造者の名のに、我々は「ジョンストン」の名を見いだせない。時間的には、彼はケインズや、ラッセル前後するイギリスの何名かの首相とさほど変わらず、もし(そこへ)押し込むのであれば、ジョンストンの名は彼らの前後に差し込まれるであろう。
しかしながら歴史はこのイギリス人のしかもとても風変わりな名を受け入れることはなく、その原因は彼の研究と彼の大成が、現代の資本主義文明の主流属していなかったためである。甚しきは全く相反(そうはん)していて、彼のそのやり方はオックスフォードの当時先進的な軌道に背いて駈けていたのである。
研究の方向性はもうジョンストン氏が歴史から無視される運命にあった。(それは)むしろ彼の不苦労や、不勉強によるものではなく、また献身的な精神がないからでもない。
たった一人で、単身で世界の東の古臭い国へ渡り、じっと20年近くも、民間に歩んで、なぜ反故(ほうご)に埋もれて(中国を)探求し、(生活を)費やすことはオックスフォードの都の有名人物にもできはしない。残念なことに方向が逆向きで、力が大きいほど、受ける反動も大きく、遠くに投げ出されるのである。
1898年、ジョンストンはイギリスで激しい選考の末イギリス植民部に入った。同年研修生の一名として中国に派遣された。
1901年ロックハートの推薦により、植民部から威海衛に派遣され、前後して威海衛政府秘書、正華務司と南正華務司の行政長官、威海衛事務行政長官などの要職に任じられた。
中国に来る前に、儒教、道教、仏教と天文地理、唐詩宋詞まで相当深く研究した。おそらく、オックスフォード大学では希少な「東方学」の人材に当る。中国へ来ると、ジョンストンはまるで大きな磁石(じしゃく)に吸い付く鉄塊のように、全身の熱血が揺さぶれてきた。
これは『米字旗下の威海衛』中の画像で覗いて知ることができる。それは1906年に撮影された一枚の写真である。その日は調度クリスマスであったが、ジョンストンの心中の「聖者」は、中国の仏教であり、その日は威海衛南郊の橋頭集の「碑口」という小さい山村のある家廟に訪古探幽して、心中満悦の思いであった。彼に差し込む東方の日光の微笑みは、彼の表情を和らげ、満足感を添えていた。
威海衛に居た間、彼は山川古跡をひたすら巡って、仏教の名所に広く足跡を残した。年中遊歴して、詳しく観察し、肌身に体験し、当地の風土習俗、社会情勢や民族意識の知識と理解を深めた。
ある老人がジョンストンについて、感心して彼のことを「西洋の物知り」と誉めて、彼は何でも良く知っていて、中国の民俗を、我々でも往々にしてはっきりしないことを、彼は誰より良く知っていると言った。人が亡くなると「七」世界を転生するが、彼は「初七日」「ニ七日」「三七日」とそれぞれの「七」が何にかかわる(死者への影響)のか、「閻魔世界の」どんな「十王」が掌握しているのかを、良く知っていて、筋道を立てて話して、意外にも中国人の知っていることをより詳しかった。

このように深く理解して、ジョンストン氏は大量の中国に関する各種の著述を書くことができ、たとえば威海衛を専門的に『華北の獅子と龍」』や、「皇帝の教師」生活ののちに書いた『紫禁城の黄昏』など、今日では重要な史料価値と学術の価値をそなえている。

彼は自分のために(荘士敦という)中国名を取っているが、一目で中国の伝統文化への首ったけの程度がわかるのである。「老荘思想」の荘で、人々の多くがジョンストンを老荘子(荘の老先生)と呼んだが、ジョンストンもこの呼び名が大変気に入っていた。老荘なので、老子の荘子だから、大変すごいですね。
「士」は知識人。「敦」は、後漢書の中に「尚お敦篤を慕う(したう)」の語があり、敦は誠実で、勤勉な紳士の一種の美徳である。名前のほかに、ジョンストンは中国の伝統的な自分に加える「字名」にまでしたがって、「志道」と名乗ったが、論語の「士、道に志す」から取り、彼の立志が儒家の擁護と発揚と「儒家思想の生命最後の一脈」となる考えの決心を表してている。
初めて威海衛に来た時、ここの閉鎖と落伍がジョンストンを相当奮起させ、彼は世界上にこのような儒家思想の「原始林」がまだあったことに驚嘆(きょうたん)し、威海衛を「中国の縮図と称するに湛える」と認識した。彼は山林を行きめぐり、山上の和尚、道士としっかりと厚い友誼を結んだ。
南郊の太平庵、羊亭にある「寿聖寺」、怪光の中山観崮山の崇仏寺、また林家院の尚山寺、橋頭一帯にある数多くの菩薩廟は、教えを請い(こう)、仏教の学問を交流する場所として頻繁に訪れている。そこではいつも彼の老師と同道して、彼はそこで多くの尊敬できる仲間と交流した。
ジョンストンは馬や輿に乗るのは好まないで、
歩行に躍起になった。屋内事務を好まず、野外でテントを張るのが好きであった。コーヒーを喜ばず茶を楽しんで、本当に「奇人」の称号に羞じなかった。
民間では、1904年に地域内の商人が彼のために一具の書軸を贈り、彼を「父母官」と称したが、これから彼は「父母たる官吏」の姿を樹立するために工夫して、孔子孟子の仁孝の考え方を説いて(とく)民間の口論や不仲(ふなか)を仲裁し、説教を持って司法に替えで、そこの人間関係をうまく調整した。彼は自分の精通した中国語を強みを利用して、当地の人々と深い交流と談義(だんぎ)を進めたが、人々も彼をとても尊敬したそうだ。
ジョンストンの目には、東洋の封建的なものは好ましく、長い辮髪も良く、小足の履物(はきもの)(纏足)も良く、果ては大阿片呑み(のみ)良く映った。そう言った(現在から見れば悪性癌のような)ものは彼の目には皆「国粋」に映っていて、一切の変革に反対した。彼は中国の一切を崇拝した。古いものほど崇拝した。
変革のもたらした旧秩序の破壊を、彼を身を切るような痛みに感じていた。
1905年の日露戦争後、儒家の仁義礼信から出て、ジョンストンはイギリス政府に威海衛の中国への返還、あるいは清朝との租借の再契約を提議したが、むしろそうでなければ、ジョンストン氏はイギリスがもし継続して威海衛に在り続けるのは国際義務に違反し、最終的にはイギリス自身の利益を必ず損害すると認識していた。ジョンストン氏の建議は当然採用されなかったが、そればかりか、イギリス政府はさらに外国商人の威海衛での投資の制限の公開声明をした。この一切はジョンストンを苦悶(くもん)と彷徨(ほうこう)させた。彼はただ著述で心中の無限の嘆恨(たんこん)を紛らわす(まぎらわす)だけであった。
1919年に彼は宣統皇帝の「英語教師」という大役を得て、威海衛を離れ北京へ赴任し、1927年に再び威海衛へ戻り行政長官を務めた。この時彼は自分が意外にも「もうここの一切が大好き」で、「家に帰って来た」ようであることに気づいた。
そうである、彼は心穏やかで封建的で落伍している威海衛を擁護するため心血を捧げているのである。彼の一生は、故郷を離れ遠方に漂泊(ひょうはく)した一生と言えるであろう。だが1930年に帰国してから、ロックハートの推薦でロンドン大学での中国語教師と外交顧問を兼任したが、各種の原因が元で、彼の英国での名声はロックハートには及ばなかった。
ジョンストンは生涯結婚せず、晩年は凄涼(せいりょう)としていた。
彼は女性と過ごしたことがあるという。私はイギリス人が撮った古い写真を見たことがあり、ジョンストンが中央、右に男性で、左の女性は、中年で、身長が高く、ジョンストン氏の交誼(こうぎ)は大変深かったという。
婦人には夫があり、ジョンストンと彼女は少々成り行き(なりゆき)で付き合った(一人の深く儒家の学問教養がある人に対してであり、この点は信用できるものである)が、心置きなく(こころおきなく)かれこれ話ができた。その後彼女は夫と離婚したが、ジョンストンは彼女と結婚するつもりがあったという。ちょうどその時、ジョンストンはある種何らかの病気になり、遂にあきらめて中止を告げた。
1938年、孤独なジョンストンはアイルランドの室内で、彼が中国で過ごした儒家としての最後の天国〜威海衛の懐かしい思いの内に、生命の終点に辿り着いた、64歳であった。
凄涼として翻弄(ほんろう)された、悲劇の一生である。
このような「奇人」の威海衛統治は、威海衛を奇怪な方向へ導いた。
あるイギリスの友人は、イギリスが威海衛を保護し、その他の帝国主義列強の残苦を遠ざけたと強く考えていて、当時租借されたのは威海衛にとって幸運であったと認識している。儒学に対する熱情から、この二人の西洋の旦那が威海衛に仁政の施行を導き、その仁政は人を温順に感じさせたが、この種の評価とこの種の保護は、最終的に威海衛をどうのような方向に導くのであろうか。

日本文資料整理 威海 李君