山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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煙台ビールの誕生

1920年に栄成人王益斎(1890〜1944年)が煙台で醴泉ビール工場を調達した。20世紀初頭、外国で商売を行っていた王益斎、李介臣はビールの栄養価値が高いこと、西洋人に必要な飲み物であり、市場消費の大きいことをよく知っていた。そこで帰国してビール工場を創業することを決定した。

1920年12月に王益斎と李介臣は共同で5万元を出資し、煙台老虎岩の10畝の小川の窪地(くぼみ)を買い取り、工場を建設し、設備を購入設置した。1921年に正式に(民国)北京政府農商部に立案が報告され生産を開始した。時に中国人が自身のために創業した第二番目のビール工場であった(一番目は1915年に開業した北京の双合盛ビール工場である)。

(醴泉ビール工廠の社員撮影)

煙台にある南山の麓に湧泉があり、美しくさわやか(な水)である。煙台市一番の名泉である。付近に虎の姿をした巨岩があり、俗に「老虎岩」というので、岩下の湧泉を同音の「老虎眼」という。

その後数年で、この清泉から醸されたビールが、煙台南山の麓の地の流れがうねうねと蛇行して上海や東南アジアの市場へ進んでいくとは、誰もが思い浮かばなかった。真っ盛りの時期には、ニ箱のビールに一両の黄金の価値が付いた。

1921年、北京政府農商部は「煙台醴泉ビール工場」の正式操業を認可したが、開業早々に苦境に陥った。難題の一つは現地人にビールを飲む習慣が無く、外国人はまた一重に(ひとえに)本国が輸出した銘柄を好み、おばあさんの親しまずおじさんも好まずの状態で、王益斎を板ばさみの困難にした。

彼はあれこれ考えを巡らしたが、此のビールは本来西洋人が中国に持ち込んだもので、消費者の主体は外国人である。中国人が工場を建て生産している現在、始めに自らの同胞(どうほう)の飲酒習慣を改変する必要がある。この時まさに(旧暦の三月春の)「穀雨(こくう)」であり、醴泉ビール工場は南山の丘の上に在ったが、千本万枝のなしの花が咲きまだれ、南へ進む道路上には、老弱男女がひっきりなしに南山に向かって湧き出して来た。王益斎はいっぱいの不安を整理できないまま、憂さ晴らし(うさばらし)のために山に出かけた。

この丘は、農家が長年耕作栽培して、広大な梨樹林を形成していて、煙台人に梨花観賞の楽しみをもたらしていた。河原の広い所には、行楽の人が織りなし、大変賑やかであった。西洋映画を引っ張り出し、人形劇をやったり、拳法(けんぽう)や売薬にも行楽の人々が群集して囲い、そこかしこに歓声(かんせい)が上がった。最も目を引いたのは、やはり数軒の老酒台で、梨花林中にも酒屋の幟(のぼり)が高々と翻り、炉を置いて酒を売っていた。

王益斎はここを巡遊して、老酒が山上で売れるのならば、我が家のビールも昼のみさせて、美味しければまた買ってくれると、目が覚める思いになった。翌日、中間にビールの樽(たる)を工場の入り口の外に引っ張り出すよう言いつけて、案内板を建てて、行楽人に無料試飲を供給した。銅鑼と太鼓を打ち鳴らすと、行楽人が続々と湧いて出てきて、ビールを飲んだことのない人は、どうしてこの洋酒を体験できる機会を逃すことが出来ようかと、我先に酒杯を受け取り旨味(うまみ)を楽しんだ。しばらくすると、醴泉ビールの名声は煙台の街中にあったという間に広がった。王益斎はこの手は使えると発見して、人間を市内の繁華街の路傍に差し向かわせ無料味見屋台を設置し、さらに多くに市民にビールという飲み物を知らせた。まもなく、煙台で最もにぎやかな商店街(朝陽街23号)に、醴泉ビール発行所を開設した。心ある人は負け知らずで、商業のネットワークと広告の投入の拡大に従って、ビールの消費量は迅速に増加した。

(醴泉ビール工廠の広告宣伝)

機会を掴んで、勢いをつけ、王益斎は宣伝資金を専門に割り当て、販売戦果を拡大した。大量のハードボードやブリキの暦を印刷し、商店や、外人商社に贈り、上海にあるガラス工場で、「煙台醴泉啤酒廠(ビール工場)」の文字図案のグラスを注文して、ダンスホール、大型ホテル、レストラン、食品店に贈って営業を通して使ってもらった。生産したビールの販売の便のために、天然氷を装備して鮮度を保てるビール棚(冷蔵庫)、販売に使用するために貸し出して、秋になると(冷蔵庫)を回収した。無料でビール販売店に醴泉ビールを宣伝するネオンサインを設置した。夕暮れになると、各店のショーウインドー上には醴泉ビールの図案のネオンサインが燦然として、大変目を引いた。同時に、「国産品振興」の名のもとに、映画館のスライドや新聞広告を利用して、積極的に国産ビールの優点を推進した。

1923年の一広告には「この頃国内に氾濫しているビールを考えると、だいたい通商港の交際場では、輸入品を以て歓迎され、税関の統計を調べると、毎年の金銭の国外流出が千数百万元以上となっています。

当社は厄漏(金銭流出)を食い止め、国産品を振興する立場から、特に煙台の南で膠東の第一名泉「老虎眼」の場所を求めて、工場を建設し、製氷機を設置、国の化学者や専門技士をお招きして、特性優良、味わいのある飲み口、馥郁とした香り、衛生的な「三光印」のビール発泡酒(はっぽうしゅ)を精製しました。発売以来、中外でサービスを行なっています。」と載せている。購買意欲を刺激するために、特に限定数の王冠(瓶の蓋、きゃっぷ)の内側に、「挽回利権(チャンス)」の四つの文字を印字して、販売店舗や愛飲者が、開栓してその中の一文字を発見したら、蓋を工場を持ち込み景品をもらうことができ、もし「挽回利権」四文字全文の王冠を振り出したら、ニ箱のビールを景品とした。この方法を実施した後には、売り上げは一層と高まった。このような販売形式は、今日ではよく知られているが、当時に在っては、消費者の耳目(じもく)を一新して皆が集まり、その効果は押して知るべしである。

(1930年5月 上海当地ニュースの煙台ビールの専刊)

醴泉ビールは煙台の市場で足元を固めたが、王益斎は満足せずに、設置を刷新して生産を拡大する一方で、人間を賑やかな夜の街上海へ派遣して、販売促進の相違を募集し、独特の販売経営形式で、煙台ビールを外国産品が席捲(せっけん)する上海の外人世界に、割り込まさせた。

巨額な資金の後押しで、上海の「大世界」娯楽場と最も繁華な南京路に、共に「煙台ビール」の巨大な広告を設置し、同時に多くの販促活動を展開した。「大世界」に来た行楽客には、「煙台ビール」の文字を印刷したタオルをあげたばかりでなく、無料で煙台ビールを飲ませて、最も飲んだものに景品を与えた。(販促の)活動に、「大世界」の来客は激増して、交通渋滞を引き起こした。この盛況は、上海の多くの多くの新聞社がこぞってトップニュースとした。

1933年8月26日の『申報』には、「煙台ビールは泉水による醸造で、飲用は衛生に適合し、本当に水道水での製造にないことが同時に語られていた。煙台ビールは品質が完全なことは、飲んだ人に訊ねると皆証明している。煙台ビールの定価は、国産品を提唱するために犠牲を惜しまず、格別の安くした。」とある。

当時上海市市場で販売されたビールは全て国産品で、煙台ビールを販売する商店は、その広告看板に「国産」の二文字を強調して、中国人の誇りとさせた。上海は中国映画の発祥地で、映画を、見るのは多くの市民の楽しみであった。メーカーはチャンスを逃さず大変滲みやすい(にじみやすい)映画広告を撮影して、映画の休憩中の観衆に煙台ビールを知らせた。この強力で、ユニークな宣伝の風潮扇動で、千里外(の遠く)で産出した煙台ビールは、最終的に独自の低価格と高品質をもって、海外製品が氾濫する上海市場で、新局面を開いた。1932年以後醴泉ビールが生産した「斧頭(タイガー)」、「双獅(シンハー)」、「飛鷹(ゴールデンイーグルの」ブランドを遠くシンガポール、インドネシア、タイランドなどの東南アジアに販売した。


著者 煙台歴史文化研究会 宋世民

日本文資料整理 威海 李君