山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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威海衛の“衛”

威海衛城(1933年)

「衛」の本来の意味は保護、防護である。『辞海』には、「衛」は中国明代の軍隊の組織名で、後に駐屯地の名称に変化した解釈している。『漢典』には、威海衛という実例を挙げている。

実際、我々の現在の「威海」市の名は、明代の駐屯兵の威海衛に由来して、明代の威海衛は、倭寇を防止するために発生した。

軍事「衛所」期間の「衛」

明代の軍事は「衛所」制度を実行し、全国各地の軍事重要地に「衛」を設置し、「衛」の下に「所」を設置した。当時、衛所と府県が城と堀池(ほりいけ)を共用したものがあり、また専用の城砦堀池を建設するものがあり、要害を制圧するために用い、最終目的は、倭寇の侵入騒乱に攻撃するものであった。
倭寇が我が国(中国の沿海に侵入騒乱したのは、元末に始まる。明朝建国後、侵入騒乱は止むことなく、かえってますますひどくなり、城砦を攻め落とし、侵略と殺戮(さつりく)に躍起になった。我が国の沿海の山東、遼東、江浙、福建、広東などの地は倭寇侵略の大災難地区で、これは沿海海防の防御体系の設立と完備した主要な原因である。
洪武三十一年(1398)、明朝政府は、文登県の(北部沿海にあった)辛汪都三里を割いて、威海衛を設けました。元々、そこは清泉夼という小さな村に過ぎませんでしたが、城壁と堀のある町が作られ、軍隊を駐屯させました。それ以来、威海衛の軍隊は、沿海の国境で武名を轟かせ(とどろかす)「東海に威を振るい)、明朝の大きな希望と期待を担いました。

乾隆《威海衛志》境図

軍事拠点としての威海衛は、城壁を囲む堀の内側の面積が僅か0.55㎢しかありませんでした。つまり、堀の内側だけでなく、旧威海市全体が現在の環翆区公安局城里派出所の管轄区域内にありました。
しかし、当時、威海衛の最高司令官(衛指揮使司)の等級は低いものではなく、官位は正三品でした。一方、衛から最も近い行政機関である文登県の長官(知県)は、七品の「下っ端役人」に過ぎなかったのです。
威海衛に最初に来た武官達の殆どは、朱元璋、或いは、朱棣(洪武帝、永楽帝の父子)に従って天下を平定した功臣たちで、ここに封じられました(領地と爵位を与えられました)。その為、司令官の地位は高く、官位は世襲とされました。威海衛では「十八家指揮」という言葉が今日まで伝わっています。
清代初期になると、衛城は軍事単位として継続したが、世襲の武官は取り消され、衛城に威海衛守備署を設置、最高長官が守備となり、正五品であった。
清の雍正12年(1734年)、朝廷は威海衛撤去裁許を宣下(せんげ)し、これ以降威海衛はもう駐屯軍兵衛の所在する「衛」ではなくなり、それからは地名として出現するのみで、本来の軍事的意義を失ってしまった。

単純に地名の「衛」となる

威海衛は廃止され、地方官吏に交付され、文登県に編入された。衛城内には巡検司が設置し、最高長官は巡検をして、従九品であり、盗賊捕捉し、地方治安を擁護する責任を負った。
清の光緒24年(1898年)、イギリスが威海衛を強制租借したが、『威海衛専条』に基づいて、衛城内は租借地に租借地に属さず中国政府の管轄により、文登県に属し、巡検司を衛城内に設置し、城内の治安を管理した。
20世紀20年代衛城内十字路口の関帝廟戲楼(現在華聯ショッピング広場付近)
辛亥革命(1911年)後、城内には弁事(運営)委員が設置され、城内の事物を管理した。弁事委員は一般に文登県知事が委任するが、ただし民国北洋政府(北京政府)と後の南京政府は直接委員を派遣したので、弁事委員の交替が頻繁となった。
1930年、中国政府は威海衛租借地区を回収し、文登県が管理していた威海衛城と共に、一緒に威海衛行政区を区画して、威海衛管理公署を設置、南京の国民政府行政院は、法律の直轄市照合(しょうごう)を適用して、当時の中国の32個めの国家一級行政区に順位された。
1940年、中国共産党の指導の下、威海衛臨時参議会が開催され、威海衛行政弁事処(県級)が成立し、東海専区に属した。当時威海衛はまだ日本軍の占領下にあったので、そこで、弁事処は文登などの地にあった。
1945年8月16日、中国共産党の指導の下、日本軍は撤退され、威海衛は解放され、中国共産党威海衛市(地級)が成立され、1947年に県級市に変更され;1951年には威海市(県級)の直名で、威海の地名には「衛」という接尾語はなかった。
明代の衛の設立から、威海衛は553年の「衛」字の歴史を持ち、その内336年は軍事単位として、217年は地名としてのみ使用されました。
威海市博物館中の「衛」と関係の展示区
威海衛は、倭寇の騒乱に対抗するため出現した。明朝の「衛」はある程度は防区内で倭寇の騒乱を軽減(けいげん)できた。だが前世紀前半には、「衛」は威海を護衛することなく、威海は二度日本に占領され、イギリスに32年強制租借され、波乱な運命であった。
1894年、日本は日清戦争を誘発し、朝鮮全土を占領し、黄海の制海権を奪取(だっしゅ)し、旅順を攻略後、威海衛の海軍基地を1895年2月に陥落し、北洋艦隊は全軍壊滅し、威海衛は日本軍に一度目の占領をされた。三年後の1898年、清政府とイギリス政府が『租威海衛専条』の調印に従って、日本軍は威海衛を撤退した。ただしその後、威海衛はイギリスが租借を強行したため、冗漫(じょうまん)で紆余曲折(うよきょくせつ)の32年を経て、威海衛は遂に1930年に復帰した。
1938年3月7日、日本は威海衛を侵略し、二度目の威海衛占領をし、威海衛の人民は8年近くの占領を受けたが、1945年8月、中国共産党の指導の下に威海衛の光復(復興)に成功した。
過去の国家が貧弱な国がとみ、戦乱が頻繁な頃には、「衛」があっても威海衛を守護できなかったが、国富み人民安定、民族振興し(威海市となった)た現在では、「衛」がなくとも人民の安定をよく加護している。
近年になって、明代の「四大名衛」という言い方が盛んである。この四衛とはそれぞれ天津衛、威海衛、金山衛、鎮海衛である。明代には500余りの「衛」があったのに、なぜこの四つの「衛」が、突出して、「四大名衛」に波を連ねたのかは、権威な回答は出ていない。
私は、威海衛が(これに)入選できたのはあるいは威海衛が倭寇に抵抗防撃し、国家を「防衛」した中で発揮した重要作用に関係し、あるいは威海衛の近代運命の多難が関係し、あるいは威海が残した二版の『威海衛志』が文化を伝承させることができることに関係し、またあるいは威海の小城の美しい風光や清々しい(すがすがしい)環境がもたらす知名度に関係するかもしれないと考えている。

現在、この小さな街には、衛城を見下ろす物見櫓として登場した「環翆楼」、歴史の警鐘を記憶する「日中戦争博物館」、兵士の代わりに14万人の中国人労働者が仕事を書いた「第一次世界大戦中国人労働者記念館」、最も美しい威海に出会える「千里山海公路の威海」、無数の美しい村にある「紅色記念館」……もはや「衛」という接尾語はありませんが、威海という言葉には、東海を守る都市の強さという精神的な意味合いが含まれており、衛城のユニークな英雄的資質を醸し出しています。すべての威海の人が「衛」の由来、「衛」の意味、「衛」の歴史を忘れないようにしましょう。 威海衛劉公島旗頂山

著者 威海 邵華媛