山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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清代前期の膠東地区の海防建設の概論

膠東地区は、山東半島東部に位置して、海浜は渤海、黄海に臨み、狭義(きょうぎ)には今日の煙台地区と威海地区を包括して、その内3/4の面積が煙台地区である。清初、膠東地区には登莱道が設置され、登州府、莱州府を管轄し、康熙39年(1700年)青州同は登莱道に合入して、登莱青道と改称された。

清代前期とは、すなわち清朝建国からアヘン戦争勃発の200年間(1644〜1840)で、国内外の形態と変化により、清朝は軍事上相応な調整と建設を採取(さいしゅ)して、ここに膠東地区の海防建設も体現したのであった。

膠東地区は山東半島東部に位置し、遼東半島、朝鮮半島、日本列島と海を隔てて向かい合っており、海上より中国へ侵入する主要な逗留場所の一つである。同時に、膠東は首都東方に位置し、天津とともに首都を囲んで守護する重要な海上の入り口であり、首都外周の安全に重要な作刀を起こしていて、そのため膠東の海防戦略地位は重要である。

清代には、いささか時局に関心があり、国家を憂える(うれえる)有識者が、国家に膠東地区を包括する国内の海防建設の強化を希望し、紛々(ふんぷん)と自己の見解を述べたが、その中で地理学者顧祖禹がかつて提唱して、つとに明代の山東の海防重点は「ただ登州、莱州ニ郡のみである。清代に至ると登州府の三面の海岸である」。北は旅順を指し、つまり遼東の喉元(のどもと)を抑え、南は政山に出て、つまり長江淮河の入り口を制御し、地形は険しく軽んじてはならない。莱州内の青、斉を防衛,外側の遼東、碣石を制御し、「様々な場所へ出、脅威のための助けとなり、海外に威嚇する足るものは、この島嶼の険難をもって自己強化するだけではないか。」

清の順治5年(1648年)、登州地区で于七率いる範清闘争が勃発した。順治18年(1661年)春、一度制圧された于七は再度反し清に旗揚げして、それに義軍は次々と清軍の侵攻に敗れた。清軍はしばしば利を失った後、大砲を調達して義軍を轟撃したので、義軍は砲弾、糧食が尽きて、遂に力が敵に敵わず(かなう)、于七は義軍の援護の元、康熙元年の春に、包囲を突いて海に入った。于七義軍の反乱は山東半島を震動(しんどう)して、于七義軍を包括する清初の山東人民の反清闘争は、清朝統治者に深重な打撃を与えた。内は反清義軍がある、外は膠東海岸にはまた海賊も出没した。例えば民国の『威海衛志』には「康熙42年7月6日、賊船4隻が東方から来て、2隻商船を襲撃したが、商船は教場頭に停泊し、賊船は劉公島に停泊して、対峙すること2日であった。」と記している。康熙52年(1713年)2月、陳尚勇を頭領する海賊が復明反清の「部下を率いる松雷沢清1万人の敵を賊船3千隻に乗せ、海上から直ちに登莱城を取り囲む事20日余りであった。」膠東地区の反清起義、海賊の騒動などは清朝の成立で膠東の海防に注目する原動力となった。

このほかに、東南沿海の鄭成功勢力の反清活動も、また清朝に膠東地区海防建設の原因の一つであった。軍需供給のために、鄭成功の集団は海内外貿易の経営に尽力したが、その貿易の経路網は「山」、「海」両路を包括して、山路は北京、蘇州、杭州、山東などの場所であった。

海上から山東に侵入するには、膠東地区がその足場となり、そこで膠東は鄭成功集団の貿易網の重要な一環となり、清初に膠東沿海にも多少なりとも鄭氏集団の足跡を残しており、これは清朝に膠東の海防に関わらざるを得なくして、ひいては膠東沿海で遷界(強制移住)政策を実行するに至り、寧海州の黄島など20島、及び蓬莱県の海洋島は、皆海中に離れて居住し、安定のないまま(海中に)浮かぶので、悪党を怖れて、その住民を内地に移動させた。

明代の軍事制度が実行した衛所制度は、明代の海防体形で沿海衛所を以て主要な形式が作られ、専門職機構と官員を設置し、海防状態を総括し、同時に陸軍、海軍を建設し、軍港を頼って、有効な海岸城壁を形成した。

清軍が関内に入って始めは衛所制度を継承したが、まもなく調整と改造を進行して、衛所を骨格とした海防体形は存在しなくなった。清代の膠東地区は山東軍区に隷属し、軍区下には鎮と言う単位を編成し、鎮のもとに各緑営を執政(しっせい)し、緑営兵は膠東海防の主要な武装の力を担当した。

明代の膠東地区には、登州、莱州、寧海、大崇、威海、成山、靖海の七衛は設置され、福山所、王徐寨所、奇山所、大山所、百尺所、金山所、尋山所、海洋所、寧津所など千戶所を管轄した。

順治十二年(1655年)、清朝は膠東沿海の、「莱州衛右、中、前、後四所,⋯⋯登州衛左、右、中、前、後五所,福山守御中、前ニ所、寧海衛左、右、前、後四所,威海衛左、前ニ所、成山衛左、前、後三所、靖海衛左、右、後三所,大嵩中、前二所,⋯⋯寧津所と靖海衛,奇山所と寧海衛,海洋所と大嵩衛」を包括する衛所と兵員の統合を開始した。順治十六年(1659年)、また寧海衛を統合して寧福営を設置した。康熙四十一年(1702年)に百尺崖後所を削除し威海衛に併合した。雍正十三年(1735年)、大嵩衛を削り、「行村、高山、林寺三郷」を分け海陽県を設置し、青山郷を分けて寧海州に入れ、県衛の兵糧俸給(ほうきゅう)を分配した。同年、また威海、成山、靖海三衛を整理した。清の雍正時期には、膠東沿海の衛所はあるいは廃止、あるいは付近の衛所や州県、あるいは営を改め県を設置、もう軍事性を帯びなくなり、明代から継続した衛所を骨格とする海上防衛の体形は基本的に瓦解した。

清政府は膠東沿海の衛所を統合する前に既に軍制の建設に着手し、「清国初期には明制により、山東に両鎮を設置した。臨清鎮は山海を制御し、沂州鎮は漕運海運を守護し、登州には登莱巡撫と登州海防道を設置した。時に内陸の三衛所は、遊撃を設置して、衛所を守衛して、臨清鎮を統帥した。順治9年登州巡撫を削除し、三衛所を併合して登州衛として、改めて参将を設置した。⋯⋯、同17年、登州副将を設置し、参将を削除し、改めて遊撃を設置した。」同18年(1661年)、清朝は于七の反抗を鎮圧するため、「臨清鎮を登州に移設し、改めて登州鎮とし、本営遊撃を中軍遊撃として、改めて中営として、また左右二営を設置し、それぞれ遊撃がこれを管轄し、また文登営副将を設置した。」康熙元年(1662年)、「山東省全省提督を設置し、両鎮を統括した(青州に駐在し、5年に済南に移転した。5年海防道を削除し、6年左営守備を配置し水師営とし、7年左営遊撃を配置して武定営を駐在させ、16年左営を削除し、19年に寧福営を設置し、21年に提督を削除し、22年に膠州鎮を削除し、改めて副将を設置して膠州営とした。ここにおいて全省27営は皆本鎮の指揮管轄制となった。」この後、「乾隆元年、河東総督を削除し、また兖州鎮を設置し、⋯⋯嘉慶20年、曹州鎮を設置し、兖州所轄の各衛を分けてこれに属し、また本鎮所轄の済南城守衛、武定営、安東営を抜いて兖鎮に帰属した。」ここに至って、膠東沿海海防は登州鎮総括が定制となった。

🔴緑営:提督(省/標)、総兵(鎮)、副將(協)、参將(営)、遊撃、都司、守備(地方)、千総(駐點)、把總。

海防陸軍の主要兵力は緑営力であり、形勢の発展変化に随って、部隊の建制と防衛地は歴代王朝によってたびたび調整され、官兵人数は時により増減があった。順治元年(1644年)、登州に水師営守備を設置し、同年莱州営を設置した。順治5年(1658年)、文登営を設置した。

順治18年登州鎮を設置し、登州鎮には初めて中、左、右、前四つの営(おのおの遊撃により統率(とうそつ)、前営は水師営がなる)、このほか城持ち守衛を管轄した。康熙19年(1680年)、寧福営を設置し、膠東沿海を分散防御する,登中営、登右営、寧福営、莱州営、文登営など五営を完備し、ともに登州鎮を統括した。当時山東は海防の陸地緑営11営を総設置し、膠東は45%を占めた。清軍緑営の編制は元来「およそ天下要害の地方には、皆官兵鎮戍(守備)を設置」し、膠東地区にはおのおの緑営兵を設置し、また主に治安防衛作用を果たして、非作戦の機動部隊を確定した。膠東の各緑営の分散防衛した汛地(汛官支配地)は表一の通りである。

清代には水師(水軍)を設置したが、陸軍の補助力としてであり、独立した兵種ではなかった。清代の水師には河川と海上の区分があり、汛(あるいは哨)、営、協、鎮、提督五級の水師単位を設置した。膠東の水師は海上水師であり、基本的な設置単位は水師営であった。

水師中は水兵と守備兵に分かれ、海上に出て哨戒するのが水兵であり、軍船を担当した。守備兵は軍港と要所を保護して、水兵のために糧食を供給し、砲台などの工事を担当した。水兵と守備兵は相互に補充し、攻守兼備し、海防の総体効力を向上した。

順治元年、清朝は「初めて登州に水師営を設置し、守備、千総などの官を管轄し、沙唬船(小艦)、川舟12隻、水兵386人を総括し、水城に駐留し、東西の海口を防御した。

順治18年に登州鎮を設置した時、その城守営水師を前営水師と改めた。

康熙43年(1704年)、登州水師を拡張して、前、後二営とし、海上は東は寧海州、西は莱州府を防護区とした。

康熙45年(1706年)、前営水師を膠州海口に移転し、南海(南黄海)を哨戒し、後営は登州水城に駐在し、北側の海上を巡回した。康熙53年(1714年)、水師営制を改革し、膠州前営水師をのみを残して、南、北二汛に分け、南北の海上を巡回防備した。雍正12年(1734年)、成山頭に東汛水師を設置し、水師基地を成山頭に拡張した。ここに至って、山東海域には三汛水師が形成され、三汛水師は皆水師前営の統括に帰属し、登州鎮がこれを統率して、定制を形成した。

清代水師の実行した海上巡視哨戒制度は、沿海各省の総兵官を総巡として、副将以下を分巡させ、所轄の海域内で、沿海を往来して巡査した。登州水師前営の南、東、北三汛はまた海上巡視哨戒の進行は、一般に毎年「三月に海上巡視哨戒に出て、九月に帰港した。海域を分割して、各々所轄があった。巡視哨戒の範囲は表2の通りである。

清朝が明代の衛所を削除した後、旧衛所等の城一時防衛工事は廃止され、海防施設の主要は水師守兵所で依頼する砲台の建設に集中した。雍正2年(1724年),登州鎮総兵官黄元嚷は、「山東沿海の砲台は、旧朝の狼煙台に属するもので砲台にあらず。⋯⋯盛り土に、上に砲台を置いて、傍らに兵舎三棟があるに過ぎず、もし発砲すれば、砲台もおそらく倒壊する。しかも日本に対して兵員が無く、その兵舎もつまるところ飾りものである」と上書した。⋯⋯皇帝が巡査を派遣する書簡との噂で、捨て置かれた営ははじめて兵員を看守に置いたが、砲台ごとに1、2名が、時折往来するだけで、兵糧の浪費に過ぎなかった。

雍正4年(1726年)2月、清朝は山東沿海の僻地の砲台の砲座を用い営汛演習を撤回し、重要箇所の広武式砲台20座を修築することを議定し、同年に登州所属の八角口砲台が完成した。

雍正5年(1727年)、膠東成山衛の龍口崖、文登県の馬頭嘴、莱陽県の丁字嘴三ヶ所の砲台が完成し(その年建てられた6ヶ所の、そのほかの3ヶ所は、即墨県の蠕山、膠州の唐島口、諸城県の亭子欄である)、「工事はそれぞれ堅固(けんご)で、全く八角口砲台の形式であった。」その後続々と砲台が建設され、雍正10年(1732年)までに、山東沿海に海防砲台20座が完成し、それぞれは龍旺口砲台、董家湾砲台、峻山口砲台、黄龍庄砲台、丁字嘴砲台、五皇島砲台⋯⋯馬頭嘴砲台、石島山砲台、養魚池砲台、龍口崖砲台、祭祀台砲台、芝罘島砲台、八角口砲台、天橋口砲台、三山島砲台であり、その後アヘン戦争勃発前まで、山東には再び海防砲台の建築はなかった。

清朝初期には膠東の海防砲台の主要なものは海島砲台、海口砲台と海岸砲台の三種があり、規格はやや小さく、それぞれおよそ3基の大砲があり、主に三合土(たたき)とレンガや石で建築された。これらの砲台の大砲の鋳造技術と建築技術は遅れていて、欠陥が多く、攻防効果は大変貧弱であった。

平時は、沿海海域の治安と秩序を維持し、海賊匪賊を震撼させる方面で一定の作用があったが、ただし堅固な船で砲弾の鋭利な海外の侵略国には対処できなかった。

上記から、軍隊の編制と防衛管轄区域などの調整を経て、嘉慶22年(1817年)に膠東地区陸軍緑営と水師緑営が共同して海防する状態で、各港、海上、島嶼などの要塞は水陸連携の海防体形に依拠して最終的に形成された。

この一連の体系の中で、登中営、登右営、寧福営、莱州営、文登営等5カ所の海防陸地緑営に兵が駐在し沿海各府県を防衛し、兵威を震わす一方、海域の治安を維持し、同時に人民大衆の反抗活動を打撃した。緑営三汛水師は海上での巡洋哨戒を担当し、海上の無事を維持し、水師の守備兵は砲台工事に依拠して、軍事用要塞の地を保護した。以上の積極的要素を具備して、清代の膠東海防は海上からの侵入を防御するもので、海域を維持する方面で重要な作用を発揮した。

清代の海防建設は部隊の規模、防御能力では明代を上回ったが、海防の効能は明らかに保守性と受動性を供えていて、職責はただ海賊拿捕、密輸などの防止方面にとどまり、「出現防止を重視」する考えの指導の下、統治階級は外国人の侵入社との交戦を考慮または意識をしていなかったので、アヘン戦争の時期になって、中国沿海の海防施設の多くが拘束が緩く(ゆるい)なり、膠東半島も外国侵略者が海上から侵入する最初の場所となった。

著者 煙台 沈岩

日本文資料整理 威海 李君