山東省藍鯨野球・ソフトボール倶楽部国際交流センター

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ようこそ、孔子のふるさとへ。
悠久の歴史を尋ねて旅立てば、孔子のふるさと中国山東省はすぐ近くです。ここは中国文明揺籃の大地。山東省エリアには中国伝統文化を形成し、子々孫々に伝えられ、多くの古代聖人がここで生まれました.「至聖孔子」、「亜聖孟子」、「兵聖孫子」、「書聖王羲之」、「智聖諸葛孔明」······3000年前の周代、このあたりには多数の国家がありました、斉国、魯国は殊に有名で、今も山東省のことを斉魯大地と呼びます。
朋あり遠方より来る、また楽しいからずやと孔子が語ったように山東省は「孔孟の故郷、礼儀の邦」として、歴史資源に豊み、多彩な伝統習慣を継承し、「周礼」から「論語」まで数多くの儒教聖典を生んできました。古代から現代まで、明るい山東人は忠実·仁義尊守、こつこつと「フレンドリー山東」を実践しております。
百聞は一見にしかず、ようこそ山東へ、いらっしゃい!
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「先覚者」の弁髪


清代の弁髪は満州族に由来して、その祖先の満州人の生活は長白山、黒竜江の間であり、狩猟生活を通して、叢林を抜ける時に引き掛かる(ひきかかる)のを防止するため、また乗馬時に目の前を頭髪が遮らない(さえぎる)ようにするため、彼らは大部分の頭髪を剃り落とし(そりおとす)、ただ頭頂に小指ほどの一綹を残し、ニ股に分けて縄編みにして背中に垂らしたが、この種の弁髪を金銭鼠尾式とした。

清朝の男性は頭頂に一本の弁髪をとどめ、生え際(はえぎわ)から頭頂にかけて半月形剃り込んだ。


(康有為)

漢人は伝統的に束髪して髷を結った。満州人が関を越え清朝を建国してから、剃髪改装はその第一の厳命で、紳士軍民を問わず人は「頭を留めるには髪をとどめず、髪を留めれば頭が留まらず(剃髪しないと首を刎ねる)」であった。

この行いは漢人の広範な反抗に遭い、「首を刎ねられても、髪は剃らない」と声をあげた。

清軍は一歩も譲らず、「一人だけでも剃らなければ一家皆殺し、一家だけでも剃らねば全村斬殺する」と伝令した。

そうして、中国の男子は皆長々とした弁髪を引きずる、世界史上稀な光景となった。清朝は「弁髪問題」を絶対政治化けし、漢人の服従否服従の基準とみなして、また漢民族問題で埋め残した禍根である。

しかし、清朝の前期、中期、後期の弁髪はそれぞれ同じではなかった。清代中期に髪型に変化があった。頭頂の髪の生えている面積は銅銭大に止まらず、掌(たなごころ)の面積となり、蓄髪の数量も明らかに増加し、ネズミというよりは豚の尻尾と変化していた。

嘉慶以後、百年に満たないうちに、蓄髪の面積は全頭の半分を占める大部分、三分のニを超過するほどになった。男子の髪型は三つ編みにして弁髪を後頭部に垂らすように変化し、弁髪は牛尾のようになった。しかし大多数の外国人は中国男性の弁髪を「pigtail」(豚の尻尾)と呼んだ。


  晩清の維新派指導者康有為が初めて皇帝に上書して「断髪して洋装」を主張した人であった。清光緒24年(1898年)7月、康有為は「断髪と更衣、改元を願う上奏」を上書して、光緒皇帝に「断髪洋装」を請求し、全国民に一個共同の真面目を与えた。

なぜ断髪して更衣するかと彼は弁髪の欠陥をしてきした。第一に、弁髪をいつまでも垂らし(たらす)ているのは、(外国)人にとって異様なものとみなされ、国交に不利である。第二に、弁髪をいつまでも垂らしていると、簡単に機器に巻き込まれて、往生するので、大型機器での生産に不利である。第三に、弁髪は左右にぶらぶらして、武器をとって騎馬するのに極めて不便であり、新軍の訓練に不利である。第四に、垂れた(たれる)弁髪は衣服を汚すばかりでなく、髪に垢(あか)汚れを蓄えて、不衛生である。第五に、弁髪は人間の尊厳(そんげん)をなくして、豚の尻尾(しっぽ)と排斥され、(国際的な)出入りに不便である。しかし、康有為は温和な提唱は少しの効果もなく、実際は彼自身も弁髪を切り落とすこともなく、維新変法は失敗して国外逃亡後に、やっと弁髪を切った。

暫く残された弁髪

遺憾なのは、最初に皇帝に弁髪を切る請う(こう)と進めた康有為は、辛亥革命中に勤皇(きんのう)党の地位を得た。1912年、中華民国が成立し、二千年余りの封建専制制度終結し、康有為は皇帝を保全する必要もなくなったが、彼は旧態依然として立憲君主制を捨てずにいた。6月、上海に仮住まい(かりずまい)していた清朝の旧臣は、愚園路で会合して、旧主を懐かしむ旧主復活派達が康有為と張勲を同列に置き、彼らを「文聖」と「武聖」と標榜(ひょうぼう)して、帝政復活の首領として尊ん(たっとぶ)だ。

1917年、政治上の天候に最強の寒波(かんぱ)が出現した。7月1日、張勲、康有為は畏くも畏くも(かしこくも)溥儀を皇帝の宝座に願出(ねがいでる)、復位を上奏し、この日を宣統九年五月十三日として改めると宣言し、帝政復活の茶番が正式に開場した。

ある人はまた、どうして辛亥のその年に誰もが断髪したのに、あなたはなぜ髪を残そうとするのかと、尋ねた。

康は、私もこのような日が来るなと思ってもいなかった、と答えた。

周りの人はお世辞で、あなたは本当に先覚の聖人であると、言った。

しかし、康聖人でさえもまさかこの復位がたった12日であるとは計り知れなかった。

魯迅先生は辛亥革命の指導者黄興を回想した時に、弁髪の輩は、帰国後、また黙々と長さを残して有り余(ありあまる)っている。黄興が弁髪を切らなかったのには訳がある。彼がこの弁髪をとどめておいたのは、革命を援護、開栓するためである。彼の息子黄一欧はこの点を理解せず、弁髪を切ろうと思うのは大変面白いことである。

1906年、革命党の人間周震鱗は国内から東京に至り、黄興の寄寓(きぐう)先に泊まった。黄興は長男の黄一欧に周震鱗を浴場に連れるように言い含めた。14歳の黄一欧と周震鱗は路上で、日本の子供が周震鱗の弁髪を見て嘲り(みてあざけり)、「かんかん坊主」とはやした。

黄一欧少年の血気(けっき)は、日本人がもとより弁髪のあるの中国人を馬鹿にしていると考え、周震鱗に弁髪を切り落とすように進めた。黄一欧は話すや否かや、「ちょん」と一声、周震鱗の弁髪をつかんで切り落としてしまった。

黄興はかえってきた周震鱗の頭に弁髪のないのを見て、大変驚いた。状況を尋ねると、黄一欧のいたずらと知って、こっぴどく彼を叱りつけた。以後黄一欧は軽弾み(かるはずみ)な行動はしたくなった。革命のために奔走する多くの早期の指導者は、援護の便のために、まだしばらく弁髪をとどめなければならなかった。

帰国した留学生達は、国外では弁髪が下品であると感じて、弁髪を切り落としてしまっていたが、人には「エセ外人」と呼ばれ、帰国後は面倒を怖れて、いっそ偽の弁髪を手に入れて付けていた。もしその時清政府に偽物を去る力があれば、どれだけの人物が生まれ出ていたかわからない。

当時、偽弁髪をつけていた革命者は多かったが、もっとも国内で活動した革命指導者は、多くはてんで弁髪を切らなかった。譚人鳳、陣其美は辛亥革命が勃発してから、ようやく弁髪を切り落とした。


最も(忠実)な弁髪先生

清末、張勲の弁髪はやはり「忠実」な弁髪先生であった。張勲は、字が紹軒、江西奉信の人。軍隊の出身で、人となりは粗野(そや)で落ち着かず、若い頃から小練兵所の袁世凱のもとに身を投じた。八ヶ国連合軍が北京に侵入した間に、慈禧(じき)太后と光緒皇帝は慌てふためき脱出し、張勲は痔痛も顧みず(かえりみる)、数千の人馬を率いて夜通し勤王となり御賀を守護して功がある、これによって清朝評価を得て、破格で近衛兵総統に任じられた。
1911年10月、辛亥革命勃発の時、張勲は江南提督となり、7,000の江防軍を率いて南京に駐留した。彼は毎日軍士を呼び大刀を持たせて、至る所で革命党の人間を捜索させたが、およそ頭上に弁髪のなく洋装している人を「革命党」として、捕まえた後に惨殺するあるいは銃殺し、「坊主頭」を殺すと称して、殺害後は衆前に晒し首とした。張軍は南京全域をかき回して沸騰(ふっとう)させ、市中偶々まで喚く(喚く)子叫ぶ男の泣き声が天を震わせ(ふるう)、弁髪のない青年は外出せず、皆怖がって中国服に偽弁髪をつけ家に座して(ざする)、門を出ず、和尚、尼姑でさえ寺廟から出ることができなかった。南京城内は恐怖の中に陥った。
辛亥革命以後、張勲は新勢力に頼ったが、部隊は弁髪を保留したままで。その軍隊は「弁髪軍」と呼ばれた。
1917年7月、忠義を清王朝に誓った張勲は4000人の弁髪軍を率いて北上し、13歳の溥儀を戴い(いただく)て「即位」する復活の茶番劇を上演した。首都(北京)の多くの弁髪を切り落としたものは皆恐懼(きょうく)して、流行り歌に「弁髪を切らねば交流出来ず、弁髪を切れば張勲が怖い。」とあった。
しかしこの茶番劇はたった12日間の騒ぎで、溥儀は舞台から引き下ろされ、復位は終了した。
張勲がオランダ公使館に逃げ込む前に、各国公使は次々に彼に投降を求めた。張勲は敗北を悟ったが、口頭では躊躇(ちゅうちょ)せずに、公使に向かって「我が身を滅ぼすとも、復位は取り消すことはできず、首を刎ねれられても、弁髪は剃り落とすことはできない。」と言った。
ある公使は彼の頑固さを嫌悪(けんお)して、笑いながら、「貴方が果たして首を切られたら、その時他の人が望むことをすれば、どうやって自分の豚の尻尾(弁髪)を守ることができるのだ。」と言った。
国民政府が彼の引き渡しを要求している時、彼は一族(家眷)と相談して、弁髪を切り落として変装し国外に逃亡した。
この時、その一族(眷属)は「あなたは以前首を刎ねれられても、決して弁髪を切り落とさないと言ってなかったのか」と言った。
張勲はすぐさま反応して、「私は以前弁髪を切らずに民国に投降しなかったが、現在は弁髪を必要としないのは外国籍に入るためである。これは同じことではない」と答えた。

最後の弁髪

大清帝国が消滅して、愚忠(ぐちゅう)な旧臣達は昔通り弁髪を引きずり、没落(ぼつらく)した死屍(しかばね)のために墓守をして、その復活を待ち望んでいた。王国維もこのような墓守の人である。
王国維は、清の秀才で、清末には学部総務司行走に任ぜられた。1923年廃帝溥儀に召出されて「南書房行走」となり、これは溥儀の最初の家庭教師に相当する。これは全く重要ではないが、重要なのは彼も同時に弁髪がまだあり、この弁髪は10年あまり後の民国では、おそらく多くはなかった。しかし王国維はまだ弁髪があり、溥儀にもまだあった。溥儀の弁髪は1921年には切り落とされていた。
1925年、溥儀は馮玉祥により紫禁城より追い出された。王国維はこれを「甲子の屈辱(くつじょく)」と称した。「主君の屈辱は臣死に値する」ことは数千年の知識人達の伝統で、王国維もこのような伝統思想が根深き人で、1927年に北伐軍が進軍して直入すると、馮玉祥の国民革命軍は北京に迫った。
弁髪を残して、皇帝の教師であり、北京清華園教授の王国維には大きな不幸が訪れた。ある日学生が顔を合わすとすぐさま、「国民軍が来たが、先生の弁髪には問題がありませんか」と質問した。前の一句は政治分野、後の一句は身分問題、弁髪と政治は緊密に結びついているのである。国民革命はまるで彼の弁髪に向かってきているようであると、王国維はそのように思っていた。
本来問題を解決する方法は簡単で、弁髪を切り落とせば、問題はすぐさま解決するのである。ただし王国維の考えは簡単ではなく、弁髪の遺留と剪定は、事の忠実と判断、名誉と屈辱に関わっていた。「弁髪」に忠誠を尽くす、唯一の道はこの弁髪に殉死する事である。
1927年6月2日、彼は廃帝溥儀に上奏を差上げ、「国のために心が有っても、復帰には力がない」、「空く(むなしい)今に生き、恥ずべき無様さである」と語り、溥儀に「辛亥、丁已、甲子の恥を思う」ことを求めた。その後王国維は中国服で正装して、頤和園昆明湖排雲殿西魚藻軒に至り、流れに一人佇み、紙タバコで一服の後、あの命取りの弁髪とともに水中に飛び込んだ。
辛亥(1911)年は清朝滅亡の年であり、丁巳(1917)年は張勲による復位の年であり、甲子(1925)年は溥儀が故宮を追い出された年であり、そして、王国維が臨終に上奏した署名の期日は「宣統十九年五月初三日」で、宣統3年に国が滅んでから16年が経っていた。
これが慎重で殉難の遭った最後の弁髪であった。

日本文資料整理 威海 李君