「先覚者」の弁髪
清代の弁髪は満州族に由来して、その祖先の満州人の生活は長白山、黒竜江の間であり、狩猟生活を通して、叢林を抜ける時に引き掛かる(ひきかかる)のを防止するため、また乗馬時に目の前を頭髪が遮らない(さえぎる)ようにするため、彼らは大部分の頭髪を剃り落とし(そりおとす)、ただ頭頂に小指ほどの一綹を残し、ニ股に分けて縄編みにして背中に垂らしたが、この種の弁髪を金銭鼠尾式とした。
清朝の男性は頭頂に一本の弁髪をとどめ、生え際(はえぎわ)から頭頂にかけて半月形剃り込んだ。
(康有為)
漢人は伝統的に束髪して髷を結った。満州人が関を越え清朝を建国してから、剃髪改装はその第一の厳命で、紳士軍民を問わず人は「頭を留めるには髪をとどめず、髪を留めれば頭が留まらず(剃髪しないと首を刎ねる)」であった。
この行いは漢人の広範な反抗に遭い、「首を刎ねられても、髪は剃らない」と声をあげた。
清軍は一歩も譲らず、「一人だけでも剃らなければ一家皆殺し、一家だけでも剃らねば全村斬殺する」と伝令した。
そうして、中国の男子は皆長々とした弁髪を引きずる、世界史上稀な光景となった。清朝は「弁髪問題」を絶対政治化けし、漢人の服従否服従の基準とみなして、また漢民族問題で埋め残した禍根である。
しかし、清朝の前期、中期、後期の弁髪はそれぞれ同じではなかった。清代中期に髪型に変化があった。頭頂の髪の生えている面積は銅銭大に止まらず、掌(たなごころ)の面積となり、蓄髪の数量も明らかに増加し、ネズミというよりは豚の尻尾と変化していた。
嘉慶以後、百年に満たないうちに、蓄髪の面積は全頭の半分を占める大部分、三分のニを超過するほどになった。男子の髪型は三つ編みにして弁髪を後頭部に垂らすように変化し、弁髪は牛尾のようになった。しかし大多数の外国人は中国男性の弁髪を「pigtail」(豚の尻尾)と呼んだ。
晩清の維新派指導者康有為が初めて皇帝に上書して「断髪して洋装」を主張した人であった。清光緒24年(1898年)7月、康有為は「断髪と更衣、改元を願う上奏」を上書して、光緒皇帝に「断髪洋装」を請求し、全国民に一個共同の真面目を与えた。
なぜ断髪して更衣するかと彼は弁髪の欠陥をしてきした。第一に、弁髪をいつまでも垂らし(たらす)ているのは、(外国)人にとって異様なものとみなされ、国交に不利である。第二に、弁髪をいつまでも垂らしていると、簡単に機器に巻き込まれて、往生するので、大型機器での生産に不利である。第三に、弁髪は左右にぶらぶらして、武器をとって騎馬するのに極めて不便であり、新軍の訓練に不利である。第四に、垂れた(たれる)弁髪は衣服を汚すばかりでなく、髪に垢(あか)汚れを蓄えて、不衛生である。第五に、弁髪は人間の尊厳(そんげん)をなくして、豚の尻尾(しっぽ)と排斥され、(国際的な)出入りに不便である。しかし、康有為は温和な提唱は少しの効果もなく、実際は彼自身も弁髪を切り落とすこともなく、維新変法は失敗して国外逃亡後に、やっと弁髪を切った。
暫く残された弁髪
遺憾なのは、最初に皇帝に弁髪を切る請う(こう)と進めた康有為は、辛亥革命中に勤皇(きんのう)党の地位を得た。1912年、中華民国が成立し、二千年余りの封建専制制度終結し、康有為は皇帝を保全する必要もなくなったが、彼は旧態依然として立憲君主制を捨てずにいた。6月、上海に仮住まい(かりずまい)していた清朝の旧臣は、愚園路で会合して、旧主を懐かしむ旧主復活派達が康有為と張勲を同列に置き、彼らを「文聖」と「武聖」と標榜(ひょうぼう)して、帝政復活の首領として尊ん(たっとぶ)だ。
1917年、政治上の天候に最強の寒波(かんぱ)が出現した。7月1日、張勲、康有為は畏くも畏くも(かしこくも)溥儀を皇帝の宝座に願出(ねがいでる)、復位を上奏し、この日を宣統九年五月十三日として改めると宣言し、帝政復活の茶番が正式に開場した。
ある人はまた、どうして辛亥のその年に誰もが断髪したのに、あなたはなぜ髪を残そうとするのかと、尋ねた。
康は、私もこのような日が来るなと思ってもいなかった、と答えた。
周りの人はお世辞で、あなたは本当に先覚の聖人であると、言った。
しかし、康聖人でさえもまさかこの復位がたった12日であるとは計り知れなかった。
魯迅先生は辛亥革命の指導者黄興を回想した時に、弁髪の輩は、帰国後、また黙々と長さを残して有り余(ありあまる)っている。黄興が弁髪を切らなかったのには訳がある。彼がこの弁髪をとどめておいたのは、革命を援護、開栓するためである。彼の息子黄一欧はこの点を理解せず、弁髪を切ろうと思うのは大変面白いことである。
1906年、革命党の人間周震鱗は国内から東京に至り、黄興の寄寓(きぐう)先に泊まった。黄興は長男の黄一欧に周震鱗を浴場に連れるように言い含めた。14歳の黄一欧と周震鱗は路上で、日本の子供が周震鱗の弁髪を見て嘲り(みてあざけり)、「かんかん坊主」とはやした。
黄一欧少年の血気(けっき)は、日本人がもとより弁髪のあるの中国人を馬鹿にしていると考え、周震鱗に弁髪を切り落とすように進めた。黄一欧は話すや否かや、「ちょん」と一声、周震鱗の弁髪をつかんで切り落としてしまった。
黄興はかえってきた周震鱗の頭に弁髪のないのを見て、大変驚いた。状況を尋ねると、黄一欧のいたずらと知って、こっぴどく彼を叱りつけた。以後黄一欧は軽弾み(かるはずみ)な行動はしたくなった。革命のために奔走する多くの早期の指導者は、援護の便のために、まだしばらく弁髪をとどめなければならなかった。
帰国した留学生達は、国外では弁髪が下品であると感じて、弁髪を切り落としてしまっていたが、人には「エセ外人」と呼ばれ、帰国後は面倒を怖れて、いっそ偽の弁髪を手に入れて付けていた。もしその時清政府に偽物を去る力があれば、どれだけの人物が生まれ出ていたかわからない。
当時、偽弁髪をつけていた革命者は多かったが、もっとも国内で活動した革命指導者は、多くはてんで弁髪を切らなかった。譚人鳳、陣其美は辛亥革命が勃発してから、ようやく弁髪を切り落とした。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。